子供への承継

 子供が親の事業を承継しようと考えるかどうかについては、いろいろなパターンがある。
 子供が自分なりに親の仕事ぶりを見て、継ごうと決意するのが、理想的だろうが、必ずしもそうなるものではないから、工夫が必要だろう。
 その工夫を考えるときに、意外に効果があるのは、親以外の口添えだ。
 たとえば、親の事業が周りの人にわかりやすく、近所であるとか、何らかの接点があると、子は、周りの人から、「○○○○(家業の内容)の家の子だ」と言われる。すると、子は、家業を強く意識する。周りの人からの言われ方が、悪くなければ、子の自覚は、強く促される。
 こうした周りの人からの評価をうまく使えるならば、それに勝る承継の方法はないのではないかと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2014年05月28日 | Permalink

男をどこまで自由にさせることができるか。

 私は、男性なので、その立場から見てきたり聞いてきたりして、考えるところを述べたい。
 女性(妻)の中には、男性(夫)に対して、ルールによって縛りをかける人がいる。女性(妻)は、いろいろと考えるところがあって、そうするのであり、それを否定するつもりはない。必要なルールはあると思う。
 しかし、そこまで縛るかなと思うケースも多いと思う。時間の使い方、お金の使い方の縛りが多いが、優先順位のとらえ方の違いが根本にある。
 多くの縛りをかけられた男性を見ていると、善人ほど悩んでいると思う。悩んだ結果として、優先順位の高いことについての実行が遅れる。この遅れは、成果について大きな差をもたらすことが多い。
 女性も、成果を期待するのであれば、現場を知る男性の判断に信頼を寄せ、自由にさせた方が良いと感ずる。
 ただし、このような発言をすることは、なかなか難しいのが現実だ。男女の力関係が、年齢によって大きな差があることを実感する。女性の賢明な判断を期待します。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年11月27日 | Permalink

経営者・事業主の妻

 経営者・事業主の配偶者(多くは、妻)にお目にかかることは、それほどないものだが、離婚の相談を受けることも多く、弁護士として、それなりに見てきたと思う。
 自分の体験を一般化してはいけないが、経営者・事業主の多くは、何らかの形で、妻にコントロールされていることが多いと思う。すごく控えめな奥さんだと思うことも多いし、うまく夫を立てていると感ずることも多い。
 しかし、問題が多いと感ずることもある。問題は、いろいろだが、共通するところがある。
一番感ずるのは、経営者・事業主として経済的に成功している夫の場合、妻も自分の力と考える点だろう。夫婦で力を合わせているのだから、離婚の財産分与でも、原則、半々に分けられるように、成果が妻にも与えられることは当然だと思う。
 しかし、事業の能力に関しては、夫婦は別だと感じられることは多い。経済的な成功が人生のすべてではないが、基盤ではあると思われ、それを実現する力について、それなりの評価は必要だと思う。
 この点が分かっているかどうか、妻である人には、大差があると思う。離婚の場合は、これまでの清算だから、この点は、あまり問題ではないかもしれないが、これからも生活をしていく場合は、夫に能力を発揮してもらわなければならないだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年09月10日 | Permalink

親心

 この言葉は良い言葉だと、いつも感ずる。
 親である立場の人に対しても使えるし、子である立場の人に対しても使える。親子の情愛が分からない人に対しては、使えないのかもしれないが、それがいくばくかある人に対しては、分かってもらえることになる。
 単純な合理性ではなく、奥にねらいがある場合は、よくあることであり、そこを理解してもらうことは必要なことが多いと思う。そのとき「親心」という言葉がぴったりする。
 逆に、「親心」という言葉が、親子の間で生きている関係が必要なのだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年05月07日 | Permalink

「これからがんばると言っているんだから、がんばろうという気持ちを失くさせないで欲しい。」

 このような精神論は、扱いにくい。特に、勉強に関してはそうだろう。
 がんばろうという気持ちを失くさせたくはない。しかし、その方法は甘すぎると思われる。このようなとき、どうしたら良いのだろうか?
 先ず、精神論だけでは、身の破滅に至ることを説明するべきだろう。第2次世界大戦の日本の敗戦など、このような例は多いだろう。
 次に、精神論に代わる考え方を示すべきだ。戦争は、基本的に人員数・物量により決まる。(性能の良い武器は、対応量の高いものとしてカウントする。)織田信長も、桶狭間の戦いは特別なケースで、多くの戦は、人員数・物量で優位に立つものであったと聞く。精神論ではなく、物量をチェックするべきだろう。
 常日頃は、怠けていて、肝心のときだけ、幸運を祈っても、有利な展開は望めない。常日頃の努力で、圧倒的優位を作り出し、その上で、油断することなく、勝つべくして勝つことを目指すべきだ。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年04月12日 | Permalink

遺品の管理

 亡くなった人が使っていたものをどうするか悩ましいことがある。
 自分では捨てられないとき、保管することになる。捨てられないのは、亡くなった人の思い出があるからだろう。
 1つの方法として、透明なボックスを購入し、そこに保管することは、どうだろうか。透明度の高い、ほこりが入らない密閉性があり、積上げられるボックスならば、棚に置くことができる。
 ボックスの中での並べ方は、その人の感覚に任せる。また、ボックスに入りきらないものは、処分する。
 こうして出来上がるボックスは、また格別なものとなる。
 ただし、こうしたボックスを遺された、自分の相続人がどうするかという問題は残る。そこは、ボックスの意味合いにより決まるのだろう。何か意味を見つけられれば、残してくれるだろう。自分の相続人が、保管スペースとの兼ね合いで処分することは自由だろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年02月25日 | Permalink

「子どもには子どもの考えがある。」

 カリール・ジブラン「預言者」の中に、「子どもについて」の記述がある。
「子どもの魂はあしたの家に住んでいて、あなた達は夢のなかでさえ、その家へは行けない。」ともある。
詩的な表現だが、厳しい言葉でもある。
 成功している人は、どうしても子どもに同等を期待する。期待に反すると気落ちすることもある。
 しかし、「子どもには子どもの考えがある。」ことを明確に意識しよう。その上で、親としてできることを考えよう。これは見返りを求めることとは対極にある。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年01月30日 | Permalink

納経帳(朱印帳)

 お遍路や札所めぐりは、自分には、まだまだ先だと考えてきたが、最近、90歳を超える方とお話をしていて、考え方が違ってきた。
 「納経帳は、2つ作っておきなさいよ。」という話が、一番印象に残る。奥さんといろいろなお遍路や札所めぐりをしてきたが、奥さんが先に亡くなったとき、納経帳をお棺に入れてあげたので、1つしか作らなかった所は、残っていないのだった。
 その方は、お遍路や札所めぐりを若いときから行なっていたが、白装束を着て行なったものでもないし、信心があったものでもないとのことだった。歩いて回った所もあるし、タクシーで回った所もあるし、自分で運転して行った所もあった。そうすることによって、日本には良いところがたくさんあることに気がついた。じっくり見れば、見るべき所はいくらでもあるとのことだった。気持ちも変ってきたのだろうと思う。
 こうした気持ちは、少し分かる気がする。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年11月13日 | Permalink

「おばあちゃんとして生きたかった。」

 弁護士として、離婚に関連した紛争の中で対応しているとき、相手方の女性から、「離婚などしないで、おばあちゃんとして生きたかった。」と言われたことがあり、「はっ」としたことがある。ただし、その女性は、自ら離婚手続を始めているので、無理やり離婚を求められたものではない。

 「喜びも悲しみも幾歳月」のように、人生で色々あったが、最後は、おじいちゃん、おばあちゃんとして残ったというのは良いことだと、年を経て感ずる。相手方の女性も、このことを感じていたのかもしれない。私は、そのことに「はっ」としたのである。しかし、同時に、それならば、もっと別の道を考えた方が良かったのではないかとも思った。

 人生の全体を頭において物事を決めることは、誰にとっても難しいことだろう。また、そのようなアドバイスは、昨今、受けにくい。我慢することを最初から求めるものではないが、我慢も大事だと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年11月01日 | Permalink

本を持っていることに意味があるか?

 一通り読んだ本でも、改めて、あるポイントを決めて拾い読みをしてみると、ほとんど読んだ記憶がないということが多い。読んだ本は、知層(地層)になると言われても、実感できるかどうか心もとない。
 したがって、本を持っていても、何がどこにあるか不明のことが多い。最近では、本は売却して、スペースを取られないようにした方が良いという考え方もあるだろうと思う。
 しかし、弁護士として、普通の人よりは、本を抱えている自分の立場から言うと、本は本として持っていることの意味はあると考えている。
 本は、1つのアイコン(記号)のようなもので、中身はほとんど忘れてしまっていても、何かしら残っているものがある。本を書棚で並べ変えてみたり、グループ化してみたりすると、何か気がつくこともある。偶然でも開いて読んでみると、現在に関係することもある。自分の運を信じて、本を開いてみることは、発想の転換になることもある。
 自分の亡き後、本を残されても、遺族は迷惑かも知れないが、気になったところに付箋とメモをつけているので(決して多くはない)、のぞき見してもらっても良いかと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年10月17日 | Permalink