何に価値を置くか?

自分にとって価値があるものを求めていく生活をするべきだ。

貨幣よりも評価を重視することを述べる本がある。
 貨幣経済社会から評価経済社会へ(お金の時代から評価の時代へ)岡田斗司夫「評価経済社会」
 資本主義から「価値主義」へ 佐藤航陽「お金2.0」

しかし、「評価」は、簡単ではないところがあると思う。
 SNSで出てくる「いいね!」の数、友達数、フォロワー数、アクセス数などは、客観的といえばそうだが、注目や人気であり、自分の求める評価とは一致しないだろう。

貨幣経済社会の限界は、あまりにマネーが膨張しすぎて、その価値がバブルとなっているからだと考えている。

自分が良いと感ずるものを選んで生きていけば、十分楽しめる。
 美術品の価格高騰は、投資家の目線では、考える必要があるかもしれないが、自分が好きなものを選ぶときは、あまり関係ないだろう。

お金は、自分が良いと感ずるものを買うことができる程度は必要だが、それを超えては、あまり必要がないだろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年01月16日 | Permalink

脅しやすい・脅されやすい社会

ネット社会は、情報の正確性の判断がしにくい。デマにより、社会は思わぬ方向に行ってしまう。
専門家の意見も、正面から対立する議論になってしまい、どちらが言っていることが正しいのか不明になってしまう。
不安に駆られた人々は、きわめて攻撃的になってしまう。

こうした社会は、嫌なものだ。

それではどうしたらよいか。

継続して観察するしかない。誤りは、どこかで明らかになっていくと信ずる。
どちらが正しいか不明なときは、断定を避け、過剰反応しない。落ち着いた観察を続ける。
社会全体とかの大きなテーマの議論を避け、自分の立ち位置から、個別具体的に考え、判断する。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年02月15日 | Permalink

大学の授業のやり方が変わった。

40年位前は、教授が講義をし、学生はノートをとる方式だった。

現在は、教授は事前にレジュメを作成し、学生は講義中は聞くことに集中する。講義での坂書は、最後に学生が写真に撮る。つまり、学生は、講義を聞きながらノートをとることをしない。

講義を聞きながらノートをとることは、教授の講義の全体像を予想しながら、講義のポイントを整理する能力を必要とする。同列に並ぶものを区分し、論理の展開を把握することになる。

これに対して、現在の学生は、レジュメや講義での坂書を、そのまま覚える学習をすることになる。

この違いは、大きな差として出てくると思われる。

40年位前の学生は、学習事項の組立て方や論理展開について、自分で改めて整理し直す機会が出てきて、そこで柔軟な思考を鍛えることができる。

これに対して、現在の学生は、与えられた組立て方をそのまま受け入れてしまい、そこから柔軟に展開することをしなくなるのではないだろうか。教科書的な知識を振り回すことになるだろう。

こうした違いを現在の大学の人から聞くと、自分の経験がすべてではないことを改めて自覚する必要がある。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年01月10日 | Permalink

統合の思考

 多くの文書やアイテムが広がる中で、その全体を理解するためには、何らかの体系化が必要だと思う。
 資料が綴じられたファイルを整理して、どのようにインデックスを付けるかも同じ問題である。インデックスの体系が、そのファイルを利用する人の間で共通して理解されていれば、利用しやすくなる。
 体系化は、分析的な思考も働くとは思うが、基本的には、全体を統合する思考だと思う。常に全体のあり方を考え、骨格を作る必要があるだろう。
 また、体系は、新しい事項が出てくると、その位置づけを考えることになり、より良い形を求めて、常に改めていく必要が出てくるだろう。もちろん、常に新しいインデックスを付け加えるということではなく、逆にインデックスを統合することで体系が分かりやすくなることもある。
 コンピュータの時代は、体系の中で探すのではなく、キーワード検索などで目的物は探せるので順不同でもよく、体系は不要だと考える人もいるかもしれない。しかし、体系は、何かを探すためだけでなく、そのもののとらえ方を考えることに意味がある。そのもののとらえ方を考えることにより、本質の理解ができると思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年02月23日 | Permalink

林望さんの「減蓄」 2013年7月28日、日本経済新聞掲載

 「減蓄」とは、貯蓄の反対で、資産を処分していくことのようだ。
 書籍の処分についても触れられており、子供さんたちの仕事が自分とは違うため、蔵書の価値がないと判断し、処分されているようだ。
 オフィスに使っていたマンションや、別荘、相続した投資用の収益不動産も処分されたとのことだ。
 林望さんは、1949年生まれとのことで、ここまで踏み切るのは、正直、まだ早いような気がした。
 物をお金にするということは、含み益の確定か、管理・処分をしやすくするということだ。その必要性があれば、合理性があると思うが、それは人それぞれだから、私がコメントする立場にはない。
 ただ、「子孫のために美田を買わず」という考え方や、「人間本来の無一物に帰してきれいに死にたいもの」という考え方があり、それとの関係では、関心がある。私は、まだこのような考え方との折り合いをつけられていないのだ。
 「お金は使って初めて完結する」という考え方は、理解できるが、何に使うのかは、まだ分からないのが現状だ。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年07月30日 | Permalink

人生は、実験だと考えることにしている。

 人生では、その人その人の境遇があるので、どうしても他人と比べてしまう。「自分の境遇を受け入れよ。」と言われても、なかなか難しい。
 また、人生を有意義なものにしたいと考え、努力するけれども、思ったようにならないと感じ、落ち込むことも多いだろう。
 人生をどのように過ごすかに関しては、多くの名著があり、また、友人とも話をして、自分で見つけていくしかないだろう。
 私は、別に人生について悩んだというほどのことはないが、いろいろな人の人生を垣間見て、自分と比較もし、また、比較する必要もないとも考え、自由に生きてきた。人の話も相当数聴き、名著といわれるものも読んできた。その中で自分なりに決断し、決断というほどのことでもない選択をしてきた。こうした来し方は、実験というに近い。
 自分の境遇は、実験にあたり、与えられたもの(与件)であり、気にするものでもないと考えてきた。
 人生を有意義なものにしたいと考えたこともあるけれども、結果を楽しみ、気が重いときでも、そういうものとして味わう。
 これが現時点の考え方である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年01月07日 | Permalink

「商店街はなぜ滅びるのか」 新雅史

 この本の分析が良いかどうかは、いろいろ議論があるだろう。
 私が一番印象的だったのは、「あとがき」で、執筆動機が、自分の親が酒屋の仕事をしており、その姿を見て、どう考えていたかにあった点である。
 子は、親を良く見ている。親が気がつかない点をよく見ている。子にも世間体があり、葛藤がある。こうしたことは、私にもあったことを、思い起こさせてくれた。

 作者は、
「わたしは、両親の酒屋を疎んじた。いつも家のなかがうるさかったし、一家団欒の食事をまともに取ることもできなかった。(中略)わたしの家がいつも酔っ払いに囲まれていることを許せなかった。」
「我が家が、友だちの家と比べて、古く、汚く、狭かったことに、とても恥ずかしい思いをしていた。」
「当時の状況をふりかえれば、住居だけが問題だった。それ以外の面では何不自由なく育ててもらった。」
「わたしはサラリーマンと主婦の家庭にあこがれていた。」
両親は、酒屋を廃業し、コンビニに転業したが、「還暦をとうに過ぎた現在も、コンビニの店頭とバックヤードをかけずり回って、深夜まで働く姿を見るとせつなくなる。」
と記述する一方、わが身の現状のふがいなさも記述する。
作者は、すでに気がついているだろうが、これらのとらえ方は、人生経験がこれからの人のものだ。

しかし、作者の感覚は、わかる。私の祖父母は、家で小さな金物店を営んでいたし、私は、お手伝いで、近くの酒屋に買い物に行ったこともあったので、多少は、このあたりを実感として理解できる。私も弁護士になり、作者と同じく、家の仕事の後を継いでいない。

親は、子の思いを、どこまでつかむことができるかは、簡単ではない。私もこの年齢になり、自分に対して指摘しておかなければならないことは、この点である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年09月07日 | Permalink

ファミリービジネスというと日本のものではないような、イメージがあるけれど。

 弁護士をしていて感ずるのは、人生を成分分析すると、大きくとらえれば、「ファミリー」と「ビジネス」だということだ。「家族」と「企業」と言っても良い。
 ただし、成分は、2つだとしても、ファミリー(家族)とビジネス(企業)は、簡単に分けられるものではない。
ファミリー(家族)は、時間の経過とともに変化するが、一続きのものであり、自由に・ランダムに、どこへでも行けるものではない。ビジネス(企業)も、やはり一続きのものであり、程度の差はあるだろうが、自由に・ランダムに、どこへでも行けるものではない。
 このような2つのものが絡み合うので、単純な成分分析はできないだろう。私も、まだ理解仕切れていない分野もあり、まして対応策がすぐに見つかるものでもないことが多いだろう。しかし、年齢が進むにつれ、多少なりとも経験を積み、実感としてつかんだ知見もある。自分として、これまでのものを統合したいと考えるようになった。
 このブログでは、ある程度体系的に書き出してみるつもりでいる。「家族人事政策」という面(このような言葉が適当かどうか悩むところだが)が強いかもしれないが、どうぞご覧ください。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年06月05日 | Permalink

未来が今より良くなると思うか。

 今の状況をかくかく改めれば未来がより良くなると思えると、今の状況に不満を感じ、そのままの状況を不幸と感ずるようになるだろう。
 逆に、未来が今より良くなるものではなく、今そこそこに満足しているならば、幸福を感ずるのだろう。
 私は、未来はより良くできると考えているし、そう考えるのが普通だと思っているが、現代は、そのように考えられない時代なのかもしれない。
 むしろ、今を幸福と感じられればそれでいいのではないかという考え方もあるだろう。それが、「足るを知る」ということなのだと言う人もいるかもしれない。
 しかし、未来がより良くなる、未来をより良くしていける、と考えることは必要だと思う。これは弁護士として、いろいろな人物を見ていて思うことだ。今の状況に不満を感じてでも工夫をしていこうと思う。そうしなければ未来は悪くなっていくだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月25日 | Permalink

死後の何を考えるのか。

 死んだらそれで終いと考えると、「我が亡き後に洪水よ来たれ」、「後は野となれ山となれ」と考える人も出てくるかもしれない。
 しかし、自分の亡き後も社会は存在するだろうし、子孫、友人は生きていくだろうから、自分の亡き後はどうなってもかまわないと考えることは、非難されるだろう。
 死んだら、自分は天国か地獄へ行くのだとか、極楽浄土へ行くのだとか、生まれ変わるのだとか、死後の自分の世界を考える人もいるだろう。これは、ある意味で、どこまでも自分を中心と考える生き方のように思う。
 自分を中心に考える生き方は、批判されるだろうが、人間は究極に至れば、そうならざるをえないから、ただちに非難することはできないように思う。
 しかし、死んだ後の世界は、現に生きているうちに考える想像の世界であって、客観的に確かめられたものではない。私は、現世志向であり、今をどうするかを考えたい。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年08月16日 | Permalink