時間の経過の中で1人の人間を考える。

 最近、風に飛ばされて、拾いにくい所に落ちた洗濯物を、毎日のように見ている。白い物もだんだんと土の色になり、形もくずれ、小さくなっていく。時間の力は偉大であり、誰もコントロールできない。全ては自然に還っていく。
 人間を構成する細胞は、一定の時間の経過で死ぬと聞いたが、構成要素はどんどん替わっていくものの、その人本人は死亡するまで、別人となってしまうものではない。(正確に言えば、その人本人は変わっていっているのであろうが、別人と言えるほどの変化ではないということだろうか。)
 人間を構成する細胞と同じように、会社・組織を構成する人・物は変わっていくが、会社・組織は継続していると考えるべきなのだろう。人間と会社・組織をパラレルに考えて良いのかどうか自信がないが、直観的には、なんとなくわかる気がする。
 このように考えてくると1人の人間の位置づけは小さく感じられるが、過大視するよりも健康的だと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年11月04日 | Permalink

スリーサークル・モデル

 「ファミリービジネスを考える上で最も基本的なモデルは、おそらくハーバード大学のジョン・デービス教授らが提唱する、『ファミリービジネスは相互に影響し合うサブシステムで構成された複雑なシステムだ』という考え方だろう。そこで想定されている基本的なサブシステムとはファミリーのシステム、経営のシステム、そしてオーナーシップのシステムの三つである。このような切り口とこれらが相互に影響し合う様子は、重なり合う三つの円の形で表される。」(「ファミリービジネス 永続の戦略」ダイヤモンド社 33頁)

 このスリーサークル・モデル(スリーサークル・フレームワーク)を参考に考えてみたい。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年06月20日 | Permalink

「子孫のために美田を買わず」 この言葉を、私は、まだ位置づけられないでいる。

 普通、人は、自分のため、さらには子孫のために、美田(財産)を取得するのではないだろうか。その心情を否定するのはなぜか。
 まず、財産を取得するのは、世の中全体のためだという考え方があるだろう。この考え方は、お金は儲けるだけでは半人前で、きちんと遣って一人前だという考え方にも通じるところがあるだろう。
 次に、子孫は、親をあてにせず、自分で財産を取得するのが正しいという考え方もあるだろう。
 親から苦労もなく与えられた財産は、子孫をだめにするということはよくあることだろう。
 いろいろな判断が含められた言葉が「子孫のために美田を買わず」だと思う。
 しかし、私の人間性には、どうしても合わないものを感じてしまう。「子孫のために美田を買う」というのが人間性には合っていると考えるのだが。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年04月16日 | Permalink

自分の実の父母を見て、親子関係について、何が大事だったと考えるか

 私の家は、父も私も、先代の仕事をそのまま継承していない。継承するほどの規模や収益のある仕事ではなかったからであるが、そもそも親から「こうしなさい」という強制は一切なかった。
 職業だけでなく、それ以外の選択でも強制はなかった。1つだけ「強制されたな」と思うのは、私が小学生のときに、どの漢和辞典を選ぶかという場面で、私はうすくて持ちやすい辞典がいいと思っていたのに、父が一番厚い、分量の多い辞典がいいと言って、それを買わされたことぐらいだ。(その辞典は、小中学校では必要のないような漢字や用例がやたら多く、結果的にあまり使わない結果となった。)
 私は、強制されなかったことには、心から感謝している。
 今から思うと私を誘導しようとしていたなと感ずるところはあるが、当時は、それすら感じなかった。
 梶本晏正著「『跡継ぎ育て』の親学」(中経出版)に、子どもとの正しい接し方10か条がある。

   1 食事時間を守る
   2 間違いに気づいたら心から謝る
   3 愛の手紙、愛の電話を活用する
   4 短時間でも密度の濃い接触を心がける
   5 口はほどほどに、しかし関心は高くもつ
   6 「あんよが上手」と嘘でもほめる
   7 「カメタイプ」の子どもでも成長を焦らない
   8 自分で選択させる
   9 「逃げ道」も用意してあげる
   10 親が身をもって「感謝の心」を教える

 どれも必要かと思うが、一番大事なのは、「8 自分で選択させる」だと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年04月10日 | Permalink

何によって憶えられたいか

 P.F.ドラッカー著「プロフェッショナルの条件」(ダイヤモンド社)の中に、次の記載がある(234頁)。

 「私が13歳のとき、宗教のすばらしい先生がいた。教室の中を歩きながら、『何によって憶えられたいかね』と聞いた。誰も答えられなかった。先生は笑いながらこういった。『今答えられるとは思わない。でも、50歳になっても答えられなければ、人生を無駄にしたことになるよ』
 長い年月が経って、私たちは60年ぶりの同窓会を開いた。ほとんどが健在だった。あまりに久しぶりのことだったため、初めのうちは会話もぎこちなかった。するとひとりが、『フリーグラー牧師の質問のことを憶えているか』といった。みな憶えていた。そしてみな、40代になるまで意味が分からなかったが、その後、この質問のおかげで人生が変わったといった。
 今日でも私は、この『何によって憶えられたいか』を自らに問い続けている。これは、自らの成長を促す問いである。なぜならば、自らを異なる人物、そうなりうる人物として見るよう仕向けられるからである。運のよい人は、フリーグラー牧師のような導き手によって、この問いを人生の早い時期に問いかけてもらい、一生を通じて自らに問い続けていくことができる。」

 この話は、自分を見つめ直すことをスタートするにあたり、一番良いと思う。
 しかし、ドラッカーも「自らに問い続けている」と言うように、どこまでも続く問いかけである。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年04月07日 | Permalink

一族(ファミリー)を設計し、形づくる

 「一族を設計する」とは、「なんと思い上がった、時代錯誤の言葉だ。」とお感じだろうか。たしかに、適当な言葉が見当らない。
 これまで私が見てきたこと、人から聞いたこと、書籍により知見したことなどを統合して、こんなことを考え、実行してみたらどうだろうかということを述べてみたい。
 これは、私にとって現在進行形の事柄であり、自分の恥をさらすことにもなりかねないが、50歳を超えて1年目は、新しいスタートの時であると考えて続けるものである。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年04月01日 | Permalink