美術への提案
皆に価値があるという美術品は、そもそもないのかもしれません。
人目に触れたことで、そのボリュームで価値が生まれることはあり得るでしょうが、それが減れば価値もなくなっていくものと思われます。
美術品は、その人が何らかの関与をしなければ、その人に価値は生じないと思われます。
美術品だけでなく、ご先祖様から残されたものについても、子孫が、ご先祖様を考える仕組を作ることを提案します。
皆に価値があるという美術品は、そもそもないのかもしれません。
人目に触れたことで、そのボリュームで価値が生まれることはあり得るでしょうが、それが減れば価値もなくなっていくものと思われます。
美術品は、その人が何らかの関与をしなければ、その人に価値は生じないと思われます。
美術品だけでなく、ご先祖様から残されたものについても、子孫が、ご先祖様を考える仕組を作ることを提案します。
カウズが顔の目のところに×点をつけるのは、変動する数値を入れるX(エックス)のようにも思え、表情を変動させていけるものとしてとらえていると感ずる。
特にカルバンクラインのポスターに、×点や縁取りをしており、写真の色彩を薄くしたものも合わせ見ると、表情を可変的にとらえる手法のようにも思える。
それは、人間の抽象化でもある。
ものを見るということを重視して、作品を作った作家は、現実の情報量に戸惑うようであり、そこから何らかの文章が生まれてくる。
これに対して、ものを見るということよりは、自分の体で表現するというタイプの作家は、文章になってこないようだ。
現在のアートが直面している問題点は、次の点に原因がある。
芸術大学での教育が、お客さん志向でないこと。
美術館での収集展示も、お客さん志向でないこと。
「売り絵を描いてはいけない」という昔からの言い伝えが影響しているのか、芸術大学も美術館もお客さんに向いた考え方をとっていない。
その結果、多数の美術作品が蓄積されているというのに、ほとんど利用されていない状況になっている。
アートは、多くの人にとってあまり意味がない状況となっている。
そもそも多くの人を対象にする必要はないかもしれないが。
結論として、美術作品というのは、その人がどのような関係にあるかにかかってくるように思われる。
具体的には、その人の親族が描いたものであったり、その人が所有していたりという関係があることで、初めてアート作品はその人の意識に上がってくるように思われる。
日本では、「お人形のようだ」という言葉は、かわいいという意味で使われる。ところが、欧米の人形は、顔は月並みで無表情、服装も普段着というものが多い。このような指摘は、新聞でもなされたことがあり、気がつく人も多いだろう。
この点に関して、欧米では、人形は、共に泣き、喜ぶ、自分の分身であり、そのために人形の顔は、時には笑って見え、時には泣いて見える無表情がよく、服も普段着が良い。これに対して、日本では、願望を自分に代わって実現してくれる憧れの対象であり、そのために人形の顔は、笑みをたたえ、足が長く、お出かけ着となる。
このような違いから、子供の教育への影響を考える展開がなされるが、ここでは取り上げない。
私は、日本と欧米の違いとして固定化する必要はないと思うが、この2つの見方は、アートに対するとらえ方の違いとして表われているように思う。
アートは、「絵になる」風景・対象を、技量をあますところなく示して、美しくとらえることなのか、何らかの追体験を通じて自分・他人・環境に気付くことなのか、という問題意識である。どちらが優れているうんぬんを議論するためではなく、割り切ると2つの見方ができるということである。
現代美術は、この観点から考えてみても良いと思う。
A カオス状態からのスタート
B 歴史の底流となるもの
C 人生の段階(オディロン・ルドン展 神秘の創造を参考として)
D 戦略
E 画家が社会に出るとき