味わう存在
神様は、味わう存在である。
自分の周りが神様の作られた世界ととらえるならば、それを先ず味わうべきだ。
神様を願う対象にするべきではない。
神様は、味わう存在である。
自分の周りが神様の作られた世界ととらえるならば、それを先ず味わうべきだ。
神様を願う対象にするべきではない。
自分が持っているものを、改めて思い浮かべ、十分に味わってみるべきだろう。
自分が持っているということは、そのものを自由にして良いということだ。
自分が集めてきた美術品も忘れていることがあるものだ。美術品だけでなく、ご先祖様から伝わってきたものもある。
ガラス越しにしか見ることができないものと違って、自分で手に取って眺めることができる。
ものだけでなく、自らの経験や知識を見直すことも良いと思う。
本を持っていれば、年を経過してから、もう一度見直してみることもいいと思う。
奄美大島での歌を歌う食事会で、私の向かいに高齢の女性が座り、その両脇にその娘さん2人が座っていた。
娘さんの話では、お母さんが「大蔵省」で、お金の出し手という話だった。
お母さんは、娘2人のために、大島紬の着物を作ってあげたそうだが、娘2人はあまり着なかったと、少し嘆いていた。
こうしたいろいろな家族の話を聞いたり見たりすることで、自分自身の経験が深まるようにも感じた。
奄美大島への旅行で、歌に接する機会が多かった。
夕食の会場が、島唄の店で、小さな舞台があるところで、26歳の女性が中心となり、小学校3年生、5年生の女の子が三味線を鳴らしながら歌っていた。そこでは全員参加型で、皆が自分の席で立って踊ることもあった。
バスの中でも、地元のガイドさんが、地元の歌や替え歌を歌っていた。
歌を歌って楽しむ世界というものを、最近は経験していなかったということに気がつかされた。
2025/2/5、尾鷲神社で行われるヤーヤ祭りを見学した。
グループ旅行であったため、大名行列まで見る時間的余裕がなく、その前に行われる各町ごとの奉納演技?のみを見た。
そこでは、若い人たちが自由にやっていることに驚いた。男性の若いグループが、紐で何人もくくられて、その中で飛び跳ねて騒いでいる。また4、5歳位の女の子から20歳くらいの女性が着飾り、お化粧もし、顔にはきらきら輝く小さな丸いシールを貼り付けて、踊っている。
こうした状況を見て、地元のガイドさんに、尾鷲では自由にやっていますねと尋ねたところ、若い人の人数が減ってきていて、なかなか町として奉納演技?を提供することができない状況があるため、町以外にに依頼をしているということだった。
私の感覚からすると、こうした若い人たちの発散は、地域差がかなり大きいのではないかと思う。
育ち方の違いが日本全国ではかなり差があるように思え、若い人をひとくくりで見ることはできず、それぞれの環境をよく見る必要があると感じた。
母親が子供を産んだ後、幼な子が十分な教育・しつけの環境に置かれないことが指摘された。
「グラックス兄弟の母コルネリアヤユリウス・カエサルの母アウレリアの最大の関心事は、息子を育てあげることにあった。(中略)それが今や、母親の任務は子を産み落としたら終わりだ。(中略)幼な子は、無教養で下品な女奴隷たちに囲まれ、彼女たちの下らないおしゃべりを耳にし、なるべく怠けようとしてずるく立ちまわる様を観て育つことになる。」
塩野七生、ローマ人の物語11巻21ページに、歴史家タキトゥスが書き遺した、紀元2世紀のローマの上流家庭での子育て
格差社会では、どこでも均一な環境であることは期待できない。
特に情報化社会でもあると、悪影響から逃れるためには、工夫を要する。
人間は、自分の子供に対しては、目一杯強いことが言えるが、他人の子供に対しては、それができない。
この違いは、自分の子に対する愛情ではあるが、その表現によっては、子を傷つけることになる。
長崎県の平戸に寄ったとき、鄭成功の生誕400年のがを見つけた。また、鄭成功の銅像まであった。
鄭成功は、世界史の本で、名前ぐらいは記憶していたが、海賊の親分ぐらいの認識しかなく、なぜ平戸にポスターが貼られているのか分からなかった。
これをきっかけに、調べてみると、鄭成功の母が、平戸出身の日本人だということを知った。
また、グラバー園を見学したとき、トーマス・ブレーク・グラバーの果たした役割についても新しい発見があり、さらに調査しようと考えるきっかけになった。
平和公園のアート作品に見つけた言葉。
冬を胸に 春は希望に満ちる
ある程度、人生経験を積んだ後であると、鄭成功やグラバーの人生を、学生時代よりは深く実感できるように思う。
本だけでなく、文章はどこにでも展開され、動画もあまりにも多い。
その全てを理解することは困難だろう。
したがって、自分に許された時間の範囲内で、情報に接して、その中から見つけられたものを味わうしかない。
AIが、こうした自分に代わり、目指すものを探してくれると考えることもある。
しかし、AIがまとめてくれるものも海のようであり、平凡で形式的にも感じられ、自分で探すことにこだわってしまう。
本を保管するスペースを広く確保することができたので、多くの本を購入してきた。
こうして集まった本をどうするかについては、振り返るといくつかの段階があることに気がつく。
本棚が十分あるということとは別に、もう読むことがないであろう本は、整理のタイミングで売却・処分してきた。
他方、これまでに読んで注目する点には、付箋を貼ってきた。こうした本は、例えば歴史年表にまとめている原稿のどこかに記入したり、別の原稿の1部に記載したりしてきた。
しかし、自分の原稿に全て移し替えているわけではなく、中途の形で、本に付箋を貼ったままのものも多い。
こうした付箋を貼った部分については、どこかで自分の原稿に落とし込む必要があるだろう。
特にテーマは決まっていないものであれば、日記の形式の原稿に落とし込むこともできるだろう。
本の読み方としては、いろいろな場所を紹介する本など、辞典のように使える本もある。
こうした本は、出かけるごとにラインマーカーでチェックしたりして、いつでも取り出して、読み返すことができる。