不動産ビジネス
大きなビルを作る人がいるのを見るにつけ、そこでのビジネスがいつまで経済的に可能なのかを考える必要があると、少し懐疑的に考えるようになった。
大きなビルを作る人がいるのを見るにつけ、そこでのビジネスがいつまで経済的に可能なのかを考える必要があると、少し懐疑的に考えるようになった。
その企業の人が連絡・協議する仕組みは、どのように作り上げられているか?
その企業が対外的にどのように自らを示しているか?
いずれの問題も、IT技術を使わざる得ないと思われる。
そのためには、自分に対して、何らかの揺らぎを起こす必要がある。
その方法
ネットでの検索で意外性を作る。
Google、YouTube
網羅性を自分に課すことで、普段行わないことにチャレンジする。
ある本の中の人物・事項を、あるサイトの中で検索してみる。
「江戸絵画入門」
値が上がり続けていると、どうしても、その基調が続くものと考えてしまう。
特に、不動産、アート作品は、そうだ。
しかし、購入を検討しているものが、現在、必要不可欠かを考えると、そうではないことに気がつく。
また、一品ものでも、同じようなものは、いくらでも出てくることに、どこかで気づく。
すると、自分なりの景況判断に従って、購入できる。
経済学を専門にする人からは、「何も知らないんだね」と言われそうだが。
また、お金では手に入れられないものがあるという議論からも離れて。
世の中の財物は、いつでもマネーで手に入れることができると考えられている。
マネーの信用が、絶大だとも言える。
この結果、すべてのものは、金銭評価される。すると、財物よりもマネーに価値があるように考えられていく。
しかし、そもそも生活を成り立たせているのは、財物であって、マネーそのものではない。
財物に視点を置く考え方であると言ってもよい。
インフレかデフレかといった議論を離れ、財物の組立として自分の生活を考えてみる。
不動産がいくらかといった問題は、この際、関係ないと考える。
人口が減少するから不動産価値は下がると考えるのではなく、人口が減少したときに、自分はどの範囲の不動産を支配・コントロールするかを考える。
金銭評価を意識せず、自分が不動産をどう利用するかだけを考える。
長期に渡り、利用だけを考えていくと、世界は違って見えてくる。
注:利用の中には、賃料を得ることを考えることは、含まれる。
株式は、どのように考えればよいか?
市場価格があり、価格は変動するが、その価格に視点を向けることを重視するのではなく、会社そのものと、自分を中心とするグループとの連携を重視する。
価格変動ではなく、会社そのものを見ることになる。
現金・預金は、どのように考えればよいか?
自分の生活を直接形作るものではなく、仮の姿のものと見る。
キャッシュリッチは、精神的には安定を感じさせるかもしれないが、あくまでも仮の姿であり、その移る先を考えるための道具となる。
多くの文書は、普段から自分の体系に基づきファイルされる。
そのファイルも、時間が経過すれば、大部になり、古くなったものは、ファイルからはずし、資料のみ黒い紐でまとめておく。
新しいものをファイルに残すのは、あとからチェックすることがあり、その可能性が高いから。
黒い紐でまとめておくのは、処分しやすいから。
黒い紐でまとめた資料は、保管期間を経過すれば処分する。
しかし、このとき資料的価値があると判断すれば、永年保管とすることになる。
どのような資料を永年保管とするかは、責任者に任された事柄である。
自分の判断能力に謙虚であれば、多くを保管することになるであろうが、単にルーティン的なものは、思い切って処分しなければならない。
「もの」についてのミニマリストは、必要最小限のもののみ残すのであろうが、その判断はきわめて難しいと思う。自分の判断能力に謙虚であれば、将来の可能性のために、枠を大きめに設定するのではないかと思う。
事業主が、人を雇って事業を展開するとき、雇った人に対して、いかに囲い込みをかけるかは重要だ。
多くの事業主は、工業の時代は、機械制工場を持ち、雇った人がそこで働かざるを得ない環境を作ることで囲い込みをかけた。
しかし、機械制工場があるだけでは利潤が得られないようになるにつれ、雇う人の能力に重きが置かれることになった。雇われた人は、自分の判断で独立したり、転職することができる。事業主は、投下した資金、時間を無駄にすることが起きてくる。
機械制工場だけではなく、パテント、ノウハウなど知的財産を管理する必要がある。重要な技術を守り、それ以外の分野を外注に出すなど、事業主は、管理する範囲を限定することが必要だ。
オートメーション化で、人の変動(人件費の増加、退職)を避けることも必要だ。
このようなときに気をつけなければならないことは、重要な改善に眼が行かなくなることだろう。
給料や家賃を払い、その月が越せれば安心してしまう。全く払えなければ、重要な改善も考えるだろうが、何とか払えているうちは、重要な改善に眼が行かないものだ。
しかし、給料や家賃を払うことに、いつも不安があるならば、重要な改善を考えるべきだ。
空想でもいいから、何かをやめることを考えてもいい。支払の限度を、自分で決めた基準内に収めることも考えるべきだ。
こうしたことをどんどん考えていくと、経済のあり方や資本主義のあり方まで思考が進む。
このとき、大きなテーマを直接考えるのではなく、大きなテーマを自分の立場から、目の前の自分のこととしてとらえ直す。
たとえば、労働者の保護についてであれば、人を使っている人は、その保護の程度について実感として是非を問えるだろう。その保護の程度を前提とすると、自分はどのように人を使えるのか、使えないのかを考えることができる。社会が何を志向しているかを問うのではなく、自分がどう対応するかを問うことになる。
その行き着く先は、人を使うことを極力減らす企業かもしれない。
人に依存するのではなく、企業の仕組に対して人の方が依存する形かもしれない。
できることはできる限り行うけれども、人は人として割り切る人事政策かもしれない。
人に来てもらい易い場所に仕事場を構え、住まいもそこから近くに置くというスタイルの人がいる。
主要な駅に直結したスペースを仕事場にし、住まいもその駅にすぐ来ることができる駅に直結した場所に置く。
仕事場も住まいも駅に直結している。
駅に直結した場所なので、家賃を考えると、広さは最小限とし、仕事場はペーパーレスを徹底する。人の採用も極力減らし、アウトソーシングする。住まいもミニマリストを貫く。
全国に展開する仕事であれば、仕事場を主要な駅の近くに、いくつか持つが、人に来てもらい易い場所なので、できる限り来てもらう方針とする。
この結果、超都心で仕事をし、都心に住むことになる。その姿は、格好がいいといえるだろう。お洒落な姿で暮らすことになる。
こうしたスタイルの人たちは、どこかで集まり、交流ができるようになる。ビジネスもますます発展することになる。
人と人が直接会って話をする。そのスタイルは崩さない。その方が大事な情報は得られるし、信用に結びつく。
こうしたスタイルの反対側にいると感じている人もあるだろう。すべてが反対側ということではなく、どこかが反対側ということ。
反対側と感じる点を深く考えていくと、自分の問題点に気がつくのではないだろうか。
このとき、都心でない所はどうなるのかは、避けられない問題だと思う。そこでの新しい価値観を確立しないと、自分を維持できないのではないかと危惧している。
民法の規定する財産権は、大別すれば物権と債権であるから、頭の中におく基本は、この2つである。
このうち物権は、実態のあるものであり、リアル世界のものだと思う。私有財産制が修正されないかぎり、安心できる。
これに対して債権は、主体と主体との関係であるから、実体が希薄となり、どちらかと言えばバーチャル世界のものだと思う。
株式は、株式会社の社員たる地位が均一的な細分化された割合的単位の形をとったものである。社員たる地位というのは、会社から雇われた人という意味ではなく、会社の財産を所有する者であり、基本は所有権であるといえる。したがって、物権に準ずるものと考える。
知的財産権も、物としての形はないが、所有の対象であり、物権に準ずるものと考える。
リアル世界を中心に考えると、物権がこの世に存しているだけであり、世の中の活動の中で債権が生まれたにすぎないと思う。
そして、現代の最大の問題は、リアル世界に存する物権以上に、マネー(債権)がふくれ上がってしまっていることだと思う。マネーはマネーという実体があると考える人もいるかもしれないが、債権の評価物が仮の姿として存在するだけだと思うので、マネーはバーチャル世界のものだと思う。
裏付のないバーチャル世界の権利は、どこかで幽霊のように消えうせる可能性がある思う。
法律家の経済観は、その程度のものかとお感じの方もあることと思うが、1つの見方として受け止めていただければ、幸いです。