事業戦略

 弁護士は、職人であって、自分で聞きとり、調べ、文書化して裁判手続などの業務を行なっている。そのような業務方法をとっていない弁護士もいるだろうが、少なくとも弁護士としてのスタートは、職人だったと思う。したがって、努力の意味を自分の体で把握している。
 しかし、いろいろな企業の相談を受け、取締役会や種々の会議に参加し、企業の様子を見ていると、日常の業務とは別の判断業務があることに気がつく。これは、弁護士だけでなく、職人であった人がどこかで気がづく問題なのだと思う。
 この日常業務とは別の判断業務が事業戦略なのだと思う(戦略と戦術の違いとか、いろいろあるかもしれないが、ここではあまりむつかしくとり上げていない)。
 世の中では「額(ひたい)に汗する」ことを尊ぶところがあるが、日常業務に忙殺されているときは、事業戦略を考えなければいけない時期なのだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年08月18日 | Permalink

金融機関との付き合い方

 経営発表会として、何社(行)かの金融機関に集まってもらい、経営者が会社の状況を説明し、今後の見通しや決意について語ることは有効だと感ずる。
 ただし、金融機関だけが集まると、互いに牽制があるため、固い雰囲気になるようである。銘酒の飲み較べ会のような楽しい状況を作ったりして工夫している会社もある。
 どのようなやり方を選ぶかは、各経営者の個性により、自分の得意なやり方で良いと思うが、継続して経営発表会を行なうことが大事である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年08月04日 | Permalink

投資と消費

 スリーサークル・モデルの1つの視点である「ファミリー」の視点からは、生活の維持や楽しみが重視され、消費という方向へ進みがちである。
 しかし、もう1つの視点である「経営」の視点からは、投資効率を重視することになり、どこまでも投資を考えていくことになる。
 スリーサークル・モデルの「オーナーシップ」の考え方が、この対立を調整することとなるだろう。
 一般に、創業者世代は、投資を追及し、ビジネスの成長を第1に考えるだろう。そこでのオーナーシップは、未来に向けた基盤づくりであり、その所有である。ここでは、未来をどのようにしたいのかが問われるところであるが、意外に漠然としていることも多いかもしれない。
 ところが、第2世代になってくると、創業者の苦労を見ている場合、その考え方への共鳴はあるものの、お金は使ってこそ活きるという考え方が出てくるだろう。
 さらに、第3世代以降になってくると、お金の使い方(消費)へと進んでいくことになる。そこでは、所有し、収益を再投資するのではなく、収益からの配当を求めることになる。
 オーナーシップは、日本語では、所有(権)と記されるが、投資と消費のバランスを誰がどのようにとるのかが明確にされなければならない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年07月28日 | Permalink

数値による判断

 「数値による判断」と言うと、「それは得意だね。」というタイプの人と「定性的な分析は好きだけど、定量的な判断はどうも・・・」というタイプの人に分けられるだろう。
 特に、数値に現しにくいところが重要であるという考え方の人も多く、「正確に間違えるか、大雑把に合っているか」の違いととらえる人もいる。
 しかし、数値が全てと言うつもりはないが、数値によって判断することは重要であると考えている。自分の感覚・直観と数値の間に微妙なずれがある場合、原因を考えることは最低限必要である。
 いつも自分の感覚・直観と数値を比較していると、「この現象は自分だけの判断のものである」と考えていたところが、「実は、世の中でも同様に起きているのだ」と気がつくことがある。先見性は、こんなところから生まれるのではないかと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年07月22日 | Permalink

「まず街灯の下を探せ」

野口悠紀雄教授が、野口悠紀雄Onlineで次のような記述をされていた。(少し長いけれども引用させていただきます。)

暗い夜道を歩いていて、鍵を落としたことに気づいたとする。どこを探せばよいか ?

物理学者のアドバイスは、「まず街灯の下を探せ」ということだ。これを聞いて、あなたはどう思うだろう ?

「とんでもない。落としたのが街灯の下とは限らない。だから、そこを探したところで、見つかる保証はない。歩き始めた場所に戻って、手探りで探すしかない」と反論する人が多いのではなかろうか ?

鍵が街灯の下に落ちている保証はない。確かにそのとおりだ。しかし、仮に落としたのが暗い場所であったとしても、そこから鍵を探し出すのは、難しい。他方で、光があたっている場所に落ちていれば、すぐわかる。だから、まず明るい場所を、つまり見つけるのが容易な場所を探せ、というのである。暗い場所の探索に乗り出すのは、街灯の下には鍵がないと確認できてからにすべきだ。

物理学者のこうしたアドバイスは、決して詭弁ではない。また、楽をして成果を得たいという怠惰の現われでもない。それは、彼らが経験から学んだ知恵なのである。物理学がこれまで多大の成果を収めてきたのは、「街灯の下原則」に忠実に従ってきたからだ。

新しい現象を説明する必要に直面したとき、物理学者は、新しい理論体系を作るのでなく、古い理論体系をどこまで残せるか、と考えてきた。物理学を大転換させたと一般には考えられているアインシュタインの相対性理論でさえそうである。確かに彼は、「絶対時間」というニュートン以来の基本的な仮定を捨てた。しかし、それ以外の基本的原理を残すためには、そうせざるをえなかったのである。

この意味で、物理学者ほど保守的な人種はいない。しかし、物理学ほど華々しい成果を挙げた学問もないのである。

引用以上

これは、ビジネスにこそ通用する指摘であると思う。

自分の必勝パターンがあって、それに持ち込むことを考えている方は、多いのではないかと思うが、それに通じるところがある。

企業家を、「馬鹿の一つ覚え」と揶揄した話を聞いたことがあるが、私は、繰り返しの強みを存分に見せ付けられている。
全てを遺漏なくとらえようとして、いろいろ考えたり、行なってみることが必要な場合もあるだろうが、意外に、探しやすいところに、ころがっているものである。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年07月14日 | Permalink

資産観の変化

収益を生むものは、資産として認識され続けるだろう。逆のものは、資産からはずれていくだろう。

資産からはずれたものの例として、水路が、あげられている(「最後に残る智恵」ダニエル・ベルp.225)

名古屋でも、堀川沿いに昔の名家(力のあった家)は存在した。物の運搬のみならず、人の往来から情報の道でもあった。
しかし、現在では、堀川がそばにあることはマイナス要因ともなりうる。

かつて、3C(カラーテレビ、クーラー、カー)が憧れのものであった(相当古いかも)。

また、かつては、破産の際、財産目録を作成し、執行官が評価した。
しかし、現在、古い電気製品など財産評価をしなくなった。誰も資産と評価しなくなった。

居住用家屋も、資産からはずれるものとして、考えられる時代も来るのではないだろうか。
家賃をセーブできるという意味はあるけれども。

アメリカ人が、自慢顔にベッドルームがいくつで…と話をしている場面を見ることがある。
しかし、ほこりをかぶっているだけではないだろうか。
「立って半畳、寝て一畳」という言葉を思い浮かべるのは、貧乏人だからだろうか?

資産は、テクノロジーの変化が影響する。
技術革命により、資源革命が起き、一次産品の資産価値は落ちたとされる(「最後に残る智恵」ダニエル・ベルp.68)。現在は、また違った状況になっているかもしれないが。
              
金の資産価値については、私は、よく理解できない。
金には工業上の使い途を除き、何かを記念するような意味しかないと思うが、魅了される人があるということだろうか。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年07月08日 | Permalink

職業の選択

 何が有利かではなく、自分の好きなことを選択するという生き方も、わかる。
 しかし、年を重ね、世の中の多くを、以前よりはわかるようになった自分と、昔の自分とでは大きな差があるだろう。職業は、自分の能力が不十分なうちに決めなければ、時期的に遅い場合もあり、その選択は、いつの世でも悩ましい問題だろう。
 そのようなところから、親の職業を代々継ぐのが良いという考え方も生まれてくる。
 逆に、自分の選んだ仕事がだめだと思えば、どんどん変えてゆけば良いという考え方も出てくる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年07月02日 | Permalink

資産とは何か。

弁護士が経済や歴史の話をしても、どこまで信用してもらえるだろうとの思いはある。
しかし、弁護士は、現場、臨床から得られる経験(観察やインタビュー)が資産となっていると考えており、その観点からお話したい。

資産について考察することの意味があると考えている。
意外に、世の中では、資産に対する見方すら確定しておらず、その結果失敗することが多い。

資産とは、「外界へ対応する力」だと思われる。
資産は、当面の形として、生存を支えるものとして存在する。
       
一番の資産は、その人の中にある「考え方」である。
いかなる災害、悲運に遭遇し、損害を受けようとも「考え方」が大丈夫であるならば嘆く必要はない。

松下幸之助の話を読んだり、戦後立ち上がった経営者と話をしたときに気がついたことは、敗戦時にこれからの社会をどうとらえたかが全てを決定しているということである。
 
「考え方」以外の従来、資産と呼ばれてきたもの(たとえば、金銭、不動産、株式、自動車、家財道具)は、「考え方」の表現方法ではあるものの、それだけでその人を豊かにするものではない。

物があふれる今日の時代になると、家財道具は、その転売価額がほとんどないことに気づく。すると家財道具をもっていても資産とは感じなくなる。
それは単に自分の生活を構成する1つの道具にすぎない。
このことは家財道具だけでなく、「考え方」以外の全ての資産に該当することである。
 
今まで資産だと考えていたものが、実は道具にすぎないということ、そして、問題はその道具でもって何をするかということ、こういった感覚をもつことが次のレベルへのステップとして必要である。

腕力(原始時代)、奴隷(国家形成期)、土地(農耕期)、資本(産業革命以後)と財産は変遷してきたが、根底には、「考え方」というソフトがあった。これからは、「考え方」というソフトが、より前面に出てくる時代である。

個の自立は、この「考え方」を持つことだと考える。

先人の書物という大海を自分の力で泳ぎ、吸収し、考え、まとめ、発表する。その仕方も個性的で自由である。そこに、個の自立が、具体的に現われる。



投稿者名 管理者 投稿日時 2008年06月25日 | Permalink

因果の法則

 レコーディングダイエットを続けている。毎日、起床すると、体重と体脂肪を測定する。食べた時刻、食べた物、そのカロリーを記入し(食品によってカロリーが表示されているし、毎日記録すると大体の食品のカロリーがわかってしまう)、寝る前に総カロリーを計算する。
 特に、ダイエットをしようという心意気はなく、ただ記録しようよいう心意気はある。これが私の性格なのかも。
 記録すると、明確な因果の法則が存在することに気づく。明日の体重を予報できる。カロリーが、体重を支配している(病気であれば別だろうが)。「私は水を飲んでも太る体質なんだ!」と言訳していたけれども、全くのウソである。因果の法則が、この世にはあることを痛感させられる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年06月18日 | Permalink