感性の変化

近代人の感性 渡邊崋山(登)
1804年、登(12才)にとって生涯忘れることができない1つの事件が起きている。
登は、日本橋付近を通行中、登と同年輩位の若君の大名行列を冒してしまった。このため、衆人環視の中で散々打たれたり蹴られたりの辱しめを受けた。このとき、登は、燃えるような発奮が起きた。(「崋山渡邊登」7頁)
封建時代に対する近代の感性が生じたと考えられる。


辻惟雄は、「戦後日本美術の花形としての前衛美術(現代美術)は、大衆の興味をさほどひきつけていたとは思えない。」(「日本美術の歴史」419頁) とし、
「現代美術が社会との連帯を取り戻すための1つの示唆として、<優れて現代的であると同時に、すぐれて伝統的である>という課題」を提示する(同434頁)。


草間彌生、奈良美智、村上隆、名和晃平などの作品は、かつての前衛美術とは異なると思われる。
表現は、具象を用いたシンプルなものである。

現代の感性は、何か?
 群れない。主体性。
 おしゃれ
 今あるものを使って自由に生きる。

感性の追求をすると、個人差が大きいことに気がつく。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2019年01月28日 | Permalink

Artfacts.Netの、2012年ランキングを見てみると

 Artfacts.Netは、世界各地の美術館やギャラリーでの展覧会で、そのアーティストがどれだけ取り上げられているかを基準としたランキング。
欧米から見たランキングであり、日本にいる立場から見た感覚とは、かなり違ったものであり、おもしろい。
 アーティストは、世界基準でランク付けされるということでもあり、厳しいものを感じる。
 5000番以内に入っている日本人アーティストは、71名。1.4パーセント強にすぎない。
 アーティストの世界は、世界基準で見ることもできるが、国ごとに独自の評価があるのだろうとも思う。しかし、日本人アーティストは、もっと取り上げれても良いように思う。
 ランキング上位の日本人アーティスト71名について、それぞれ調べていくと、教育を受けた大学、これまでの滞在地、現在の居住地・拠点について、日本を越えていることがはっきりする。そもそも世界的に評価される人は、日本を出て、主として欧米であるが、世界的に活動していると言えるだろう。
 また、具体美術協会の人が、5名含まれていることも気がつく。日本のアンフォルメルとして、海外で評価されたことが、1つのきっかけになっているように思う。もちろん、具体美術協会のアーティストの独自性もあるだろうが、ミシェル・タピエなどから賛辞が送られたことが、欧米の眼に触れるきっかけとなったように思う。
 さらに、フルクサスとの関連があるアーティストが、4名いる。
 こうした結果は、現実として、それぞれのアーティストは、受けとめる必要があるのではないかと考える。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年10月12日 | Permalink

現代美術は、なぜマイナーか?

現代美術は、少なくとも日本では、マイナーだといっていいだろう。
現代美術は、楽しめないところがあるのが原因だ。逆に、楽しめる現代美術は、人気がある。
多数の人が楽しめる美術は、おもしろくない人も多いだろうが、少数だろう。

多数の人が見る作品とは、第1群としては、日本では、ある程度、評価された作品だろう。
いわゆる有名な作品は、有名ということで、多くの人が見る価値があると考えるため、列ができる。

多数の人が見る作品の第2群としては、ぱっと見、分かり易く、きれいであったり、技巧が超人的であったりするものだろう。かわいらしく、また同時に、気持ち悪い(かわきもい)など、そのときどきの流行もあるだろう。

現代美術は、多くの人よりもさらに進んだ先をを提示するべく、格闘したものであると思う。マイナーであることを恥としない。
しかし、それが本当に先を進んだものであるかどうかは、わからない。多くは、泡のように消える。それで生活ができればよいが、そうでない場合、どうするか深刻な問題となる。
このため、多数の人が見る作品の第2群に擦り寄ることを考える人も出てくる。(第1群は、結果であり、いきなりそこに至ることはできない。)
私は、そうすることを否定しない。確かに、真に分かる人からは、見破られるだろう。しかし、多数の支持があれば強い。
現代美術の作家は、真に先に進んだところと、多数の気付きとの間で、身を削ることになる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年05月22日 | Permalink

アーティストは、物としての作品を作ることは、自分の一面にすぎない。

 アーティストは、人間の広さを意識する必要がある。
 人間の活動は、ビジネスの世界を見れば分かるように、色々な仕事が集まって全体を作る。仕事は、分類はできるだろうが、人それぞれだ。職人であったり、組織作りの事業家であったり、お金の使い方を考える投資家であったりする。
 アーティストも、1つの職業と考えるのではなく、人間の一面だととらえるべきだ。そうすると、物としての作品を作ることだけが、道ではないと気がつく。
 アーティストは、現在を生きる人間であり、世の中との関係で、常に緊張感が生ずるだろう。自分が生きる現在を、自分なりにとらえなければ、何も気がつかず、新しい変化もわからないだろう。
 アーティストは、職人として物を作るだけでなく、哲学者としても行動し、事業家としても活動し、世の中を作るべきだと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年05月08日 | Permalink

9 日本の美術家は、今後、どのような戦略をもつべきか。

(1) 日本の文化の1つとして、マンガ・アニメがあることは世界的にも知られている。村上隆は、マンガ・アニメがもつ日本のテイストを、「スーパーフラット」という概念により、欧米に向けて説明して、評価されたといえる。
 (なお、村上隆のスタンスが、欧米に向けての説明であるために、日本のマンガ・アニメファンの理解が得られたものかどうかの問題はある。)
 浮世絵が日本のテイストとしてヨーロッパで受け入れられたように、マンガ・アニメを日本のテイストを感じさせるものとして、アートの形で欧米に持ち込んだといえる。
 意図的であるかどうかは別として、このようにマンガ・アニメの日本テイストを利用する作家は、既に多いと思う。したがって、そこに追随しても、ものまねになってしまうであろう。
(2) 日本人でありながら、ヨーロッパに滞在し、欧米の作家と同じように描かれた油絵は、多い。
 しかし、日本人の眼からは、欧米のテイストとして評価されるであろうが、欧米では、むしろ違和感があるかもしれない。欧米の作家が舞妓を描くのと同様ではないかと思う。
 したがって、日本人であるならば、日本のテイストをもつべきであると思う。
(3) 日本のテイストは、マンガ・アニメだけではないと考えている。
 第1は、日本人の緻密・精密さであり、洗練である。これは、自動車、電化製品などの工業製品全般に見つけることができるだろう。
 このテイストは、装飾の方向へと展開するものと、逆に装飾をはぶく方向へと展開するものとがありうる。
 第2は、日本人の健気さである。これは、大震災があっても無秩序にならない自制心に見つけることができるだろう。
 このテイストは、第1の点に関連し、装飾志向とそれを省く志向の両方を見たときに表れる精神性だと思う。
 第3は、日本人の奇想である。これは、第2の点が精神性(内面)へと踏み込むものであることと対をなす、遊び(外面)であるように思う。
 このような日本のテイストがアートとして表現され、日本人への理解が進むことを願う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

8 村上隆

 村上隆は、世界的に評価された美術家であることは否定しえないが、日本では賛否両論である。
 私も、個人的には、村上隆を美術家として強く支持することには消極的である。
 しかし、村上隆の「芸術起業論」「芸術闘争論」を読むと、その手法の着眼点には共感を覚える。
 「スーパーフラット」という概念が、どこまでのものかは正直、不詳である。しかし、日本のアートが周縁に存在することを自覚し、欧米の美術史理解の中に位置づけようとしたことは、評価してよいと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

7 洗練

 どの世界でも、繰り返しの中で、洗練が行われる。 
 美術作品も洗練が進められる。
 洗練は、ビジネスの世界では、合理性となって現れる。
 美術作品の世界では、装飾、様式となって現れると思うが、洗練の形は、時代によって異なるだろうし、いろいろかもしれない。
 しかし、日本美術について言うならば、強く求められてきたものだと思われる。日本人は、洗練のないものは、受け入れてこなかったのではないかと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

6 現代を特徴づける要因

(1)絵を描く(もっと広く、作品として表現する)コスト(用具、材料)は、現代では、おそらく、ほとんど気にならない程度にまで下がっていると言って良いだろう。
(2)写真(道具、技術)の登場は、大きな影響を与えた。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

5 日本

 日本の美術は、何が受け入れられてきたかという観点から見たとき、次の特色がある。これは、強い現世志向があるからではないかと思う。
(1)装飾
  金箔と緑色を基調とした色彩上の装飾
  強調 ex金剛力士立像
  技術を明確に出した装飾
  (外形的な強調から内面へと向かう過程は、碌山に見ることができる。)
(2)わび                 
  装飾過剰に対する批判         
  装飾をはぶく中に精神性を見つける
   リアリズムに結びつく、無著菩薩立像
(3)奇想
  大胆な構図、デザイン性、遊び


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink