職人の技は、どのように評価されるか?

流通価格は、人間国宝の作品でない限り、ほとんど捨て値しか付かない。

しかし、職人の技の違いは、価格の差ほどではないだろう。

自分なりに納得して、味わい、使い込んでいけば、そのことに価値があると思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2019年05月14日 | Permalink

コレクターのあり方

考えるべき点は次のとおり。

何を選ぶか?
自分の好みで選べば良いとする考え方があるが、他の人の評価も考え合わせる方が合理的だと思う。

第3者から、作品を、無償ないし低額で、譲り受けることは、間々あると思う。
 第3者としては、作品を大事に扱ってもらえれば、それが何よりと考える人も多い。

 こうした場合は、素直に作品を持って、飾り、味わうべきだと思う。
  保管場所を必要とするが、何でも売り払うという感覚では、自分が広がらず、人生を楽しめないのではないかと思う。
 特に、親が持っていた作品は、親の気持ちをよく考えてみるべきだと思う。


いつまで所有し続けるか?
作品管理のスペース・費用を考えると、取得している範囲を限定することは合理的だ。

所持して楽しんだら、手放してもいい作品はあると思う。
 時の経過で、感覚は変化していくものだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年11月06日 | Permalink

名古屋ボストン美術館 最終展 ハピネス

幸せという観点から作品を見ていくのは、普段そうしていなかったので、新鮮であった。
普段は、作者の意図とか格闘の姿を探していたように思う。

江戸四季風俗図巻(無款 菱川派)は、四季折々の人々の姿が、誇張することなく書かれているだけだが、その姿を見ると自分と近いものを感じ、幸せというものを改めて考えることになった。

琴棋書画図(曾我蕭白)は、俗塵を離れた自然に遊び、4つの風流事を嗜む理想の高士像を描いたものということだが、これも、何か特別なことをしなければ、そこに行き着けないというものではないことを示していると思う。

幸せに安住することを良しとは思わないが、普通の姿でも良いとすることは、よく考えてみるべきだと思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年09月27日 | Permalink

ビュールレ・コレクション

エミール・ビュールレ(1890-1956)が取得した作品の4分の3は、晩年の6年間(1951-1956)にコレクションに加わったものである(至上の印象派展2018の図録20-21頁)。

この時期のビュールレのコレクション対象は、既にある程度の評価を得ていた作品である。
作品選択が保守的とされている(図録24-25)。

ビュールレが、20世紀初頭の美術に手を広げたときも、パリで創造された芸術に限定している(図録26-27)。
また、第2次世界大戦後、急速に拡大していった抽象絵画に対しては、距離を置いていた(図録28-29)。

コレクションのあり方として参考になる。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年09月10日 | Permalink

知らない地域を旅する感覚

ある地域をある程度調べて旅しても、意外なことは出てくる。
旅したところで何か資料や物品を買うと、そこからまた意外なことが出てくる。

あいちトリエンナーレで多くの映像プログラムを見たが、分からない映像の方が多く、理解したという感覚は得られなかった。しかし、知らない地域を旅しているのだと考えれば、すべてを理解できないのは当然のことであり、気にすることではないと思う。

あいちトリエンナーレのパフォーミング・アーツでも、同じことは感ずる。

視覚だけでなく、聴覚などそれ以外の分野でも、知らない地域を旅する感覚は必要だろう。

文章だとそれが理解できて当然(理解できないのは、文章が悪い)と考えてきたが、ここでも知らない地域を旅する感覚は必要だろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年11月11日 | Permalink

アメリカン・ポップ・アート展(国立新美術館)

 ジョン・アンド・キミコ・パワーズ夫妻のコレクッションを見てきた。1960年代以降の作品とのこと。
 多くのアメリカの巨匠の作品を通覧できたが、素人のぱっと見の感想としては、アンディ・ウォーホルが、色彩として、引かれた。
 ウォーホルは、芸術家は、HERO(ヒーロー)ではなく、ZERO(ゼロ)だと言っており、芸術家の主観性を否定し、何でも写し込む、鏡のような芸術を肯定しているのだろうと、とらえている。
 これまで作品を、具象と抽象の軸において、比べていたが、HERO(ヒーロー)かZERO(ゼロ)かという軸もありうると考えを改めている。
 ウォーホルは、カタログ・レゾネの印刷で見るよりも、実際の作品の方が、はるかに美しいと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年10月02日 | Permalink

白隠

 白隠の画業は、まったくの独学であり、研究者が「若描き」と呼ぶものが60歳代の作であり、画業のピークが80歳を超えてからであり、現存作品が1万点を超すのではないかと推測されるとのことである。しかるに、美術史としては、取り上げられてこなかったという。
 白隠展を見て、白隠の生涯を考えると、感銘を受けた。1つだけの作品でも分かるのかもしれないが、通しで見ることは必要だと感じた。
 また、絵とともにある「賛」(文字による記述)は、理解を助け、また、考えさせる。絵画作品が主だという考え方もあるだろうが、総合して理解すれば良いと思う。
 美術作品は、それぞれが独立したものであり、1つだけの作品でも判断できるという考え方があるだろうが、私は、作家の人となりを観ることへと向かうことになる。(このあたりは、専門的な議論があるところだろうと思うが、詳しくはない。)
 白隠が、美術史としては、取り上げられてこなかったのは、作家の人となりに対して眼が向かわなかったからだろう。しかし、白隠は、宗教家としては、その人となりに対して大きな共感があるようなので、大きな評価を受け、親しみも込められているようだ。美術を、美術としてだけ切り取ることには、注意を要すると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年01月28日 | Permalink

美術品は、いつまで価値があるか。

 壊れたり、傷ついたりすれば、それだけ価値が下がるのだろう。保存状態は、査定の対象となるようだ。
 このような問題は除外して、美術品は、いつまでも価値が変らないものだろうか。価値を、売却できる金額とするならば、市場の評価で常に変ることになる。金額ではないのだと考えるのであれば、その人の考える価値で良いのだろう。この2つの立場は、いつもせめぎあうことになるのではないかと思う。
 しかし、保管スペースの問題があるから、すべての美術品が完全に残ることは難しいだろう。新しい美術家は、次から次へと登場するから、作品も増え続ける。美術館の数は、限界があると考えるので、どこかで作品は埋もれていくことになる。
 このように考えると、美術品の価値についても限界があると考えざるを得ないだろう。多くの人の目に触れることにより、その人の作品と直ちに認知されるくらいになれば、作品は残る。美術家は、そこを考えざるを得ないだろう。きわめて厳しい道というしかない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年12月21日 | Permalink

コレクションを売却するとき

 コレクターは、どのような場合、所有している作品を売却するのだろうか。
 お金が必要になり、換価する場合が一番多いのだろう。それ以外には、どのような場合だろうか。
 コレクションのためには、それなりの保管スペースが必要である。そのための費用もかかる。したがって、保管スペースの確保が、経済的に合わない場合、売却することになるだろう。
 コレクションを、投資と割り切るならば、株式と同じく、安く買えて、高くなったならば、売却することになるだろう。
 自分のコレクションの組み立て方ができてきて、それから外れるものは、売却することになるだろう。好みの変化も、ここに含めてよいだろう。

 そもそも美術作品は、買ったり売ったりして、楽しめばよいだけかもしれない。ポートフォリオの感覚は、必要だと思う。そうしないと、美術館を作ることになってしまうか、美術館に寄贈することになるのではないか。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年12月06日 | Permalink

ジェニファー・バートレットと森山大道

 ジェニファー・バートレットのIn the Garden♯190を見てから、森山大道のstray dog,Misawaを見ると、黒色が作る構造に思い至る。
 ともに具象作品なのだが、黒色の構造に眼がいくと、抽象化が始まる。
 抽象作品は、作家がどのように、その作品に至ったのか不明であることが多く、自分自身の一方的な考えで見方を展開していくしかない。自分自身の一方的なものだけに、正解を求めると、自信が持てず、抽象作品を敬遠することにもなってしまう。
 これに対して、具象作品の中に抽象を見つけると、まだあやふや感が少なく感ずる。
 しかし、抽象作品でも具象作品でも、抽象の世界に至る道筋はあるのだと思う。スタートが抽象作品か具象作品かで違える必要はないのだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年11月12日 | Permalink