B8 記念の集積

 温泉地など旅先で偶然に見つけ、何かしら気に入った自然にあったものを持ち帰る。そのものを簡単に記録し、1つずつ透明な箱の中に置いていく。
 持ち帰ったものは、一葉の落葉もあり、いずれはくだけてしまうであろう。そのときどうするかは特に決めていない。取り除いても良いだろうし、土のように積んでいっても良い。
 持ち帰ったものは、固定しないため、箱を動かすことにより移動するであろう。それも良い。
 箱の中に入れるのは、前川弘美に限定されない。誰でも良いだろう。
 箱の中の様子は、ときどきに写真に撮って記録しても良いかもしれない。
 こうして存する箱は、自然に雰囲気を醸し出す。
 それはアートでないかもしれないが、味わえる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年12月01日 | Permalink

B7 2011年7月2日 セゾン現代美術館の展示作品に古さを感じてしまった。

 この感覚は、清里現代美術館でも感じたものだ。
 原因は、作品の片寄りにあると思われる。
 1940年代後半から1960年代のアメリカにおける抽象表現主義の影響下にある、ネオ・ダダ、ポップ・アート、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アートの作品は、それが色を伴ったものでも、全体的にくすんで見えてしまうからである。ほこりっぽさ、ざらつきなどを感じてしまう。
 現代美術といっても、すでに多くの時間が流れており、1つのくくりにすることはできない、現代美術の中でも、上記に流れとは別に、具象絵画のスタイルをもつ新表現主義の流れもある。
 さらに、自分と同時代の作品に見られる洗練と呼ぶべき現象もある。
 現代美術の中にもいくつかの変化があるのに、その中の1部に集中して収集してしまうと、どうしても同時代性に欠けるように思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年12月01日 | Permalink

B6 大西康明(1979ー )体積の裏側

 大西康明の作品を「彫刻」であると見るならば、「近代彫刻において重要とされる概念「重量感」「動勢」「形態」などが独自の方法で読み替えられているのが分かる。」(中村史子)(7頁)と言うこともできるだろう。
 しかし、ポリエチレンシート、垂れた接着剤、扇風機などは、重力が作用する空気のある空間を意識させるものであり、自然法則をそのまま感じさせるものである。また、垂れた接着剤の材質には科学の成果が込められており、科学への親和性を感じさせる。
 「体積の裏側」という題の付け方は、彫刻の文脈の中に作品を位置づけようとする意識の現われであろうが、私には、科学の成果に基づいた自然法則の具現であるように思われる。その意味で、作家が「一般に造形化しづらいもの―現象や気配とも呼ぶべきもの―を浮かび上がらせようとする」(中村史子)という点は、そのとおりだと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年12月01日 | Permalink

B5 森山大道(1938ー ) stray dog,Misawa

 この犬を自分と見るのか、相手と見るのか。
 体はどっしりした感じで、後ろを振り返りながら、上目使いで、こちらを見ている。口が少し開き、歯も見えている。
 森山大道は、「その目つきから全身に至るまで、野良犬の、内奥にひそめた敵意と相対する哀感が、あたかも見るものに挑発を送ってくるがごとき気配で伝わってきた」とする(朝日新聞2009.4.30記事)。
 この記述からは、森山大道は、相手と見ているようだ。
 しかし、その姿は、そこに自分を見るように感ずる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年12月01日 | Permalink

B4 波打ち際

 美術史の本でとりあげられる絵(いわゆる著名な絵)としては、波打ち際の絵は見かけない。
 森芳雄の絵「ノルマンディー(北の海)」を購入したとき、彼の重要なテーマであった人物にするかどうか迷った。
 人物の方が森芳雄らしくて良かったかもしれない。
 しかし、波打ち際の海の絵も、人物と同様に、見る人に考えさせるものがある。

ノルマンディー海岸
ジュルジュ・ブラックは、青春時代をル・アーヴルとあのノルマンディー海岸で過ごす(「ジョルジュ・ブラック」15頁)。
ノルマンディーは、いろいろな点を結びつけるだろう。調べていけば、何かが見つかると思われる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年12月01日 | Permalink

B3 カレル・アペルの作品 1979年 Untitled 

(1)見ていると、いろいろ発している。
「イェーイ!」「やったー!」
「芋虫になっちまったぜ。」
「オーマイガッド!」「なんということだ!」

(2)ダンサーであることは、ほぼまちがいないと思う。
 1978年に「二人のダンサー」が、Untitledの前にある。「二人のダンサー」は、2人の黒人ダンサーのように見える。これに対してUntitledでは、白が広く使われていることから白人のようでもあり、背後の黒に着目したり、黒い線を意識すると黒人のようでもある。
 こんなことは、どうでも良いことのように思うが、考えたこと・発見したことを記述すると、こんなことがあるということである。
 Untitledは、何枚もの紙片が接合されている(コラージュ)。何枚あるのかわからない程、全体に接合されている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年12月01日 | Permalink

B2 シュル・レアリスムス展

 岡崎市美術博物館で、シュルレアリスムス展(謎をめぐる不思議な旅)、名古屋市美術館でダリ展(創造する多面体)があり、両方を見た。
 ダリは、若い人に人気があるのかなと感じた。
 シュルレアリスムスの「シュル」=超のとらえ方、説明の仕方は、担当者によって様々だと気がつく。「レアリスムス」=現実は、直観的に、今、生きている世界とでも、皆は理解するのだろう。しかし、「シュル」は、その現実を超えた別世界と見るのか、その現実を突きつめた姿と見るのか、絵から受ける印象とのかね合いで、いろいろな説明ができるのだろう。
 こうした説明は、一応、それぞれ理屈が通っているように思え、説明をきくことで、それぞれの人は納得しているのだろう。
 しかし、どうも同床異夢とでもいうべき状態で、両方の説明をきくと違和感を感じる。それでも、両方の癖を埋めるだけの「統一理論」は私にはできなかったが。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年12月01日 | Permalink

B1 アート作品について網羅的に語ることはできない。

 語るとすれば、美術史となる。
 アート作品について語ることができるのは、実際に自分で見て、発見したことに限定されると思われる。
 人生についても網羅的に語ることはできない。
 語るとすれば、歴史となる。
 人生について語ることができるのは、実際に自分で見て、発見したことに限定されると思われる。
 アート作品と人生とは、パラレルであり、相似の関係にある。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年12月01日 | Permalink

A21 前川宗睦(1986ー )に見る展開(理屈っぽく書くとこうなるけれども自然に)

1 自分で自分の存在を確かめる最初の方法は、自分に触れてみることだろう。
  私たちは、自分の視覚を同時に利用しながら、自分の外界の物に触れてみて、得られた自分の感覚を積み重ねている。その感覚を利用して自分に触れてみることにより、自分の存在を確かめ、自分を想定する。
  自分の視覚が及ぶ範囲は、眼と手で自分の存在を確かめられる。
  視覚が及ばない所は、鏡を利用することもあるだろうし、カメラを利用することもできる。
  しかし、自分の体の中は、ただちに見ることはできない。皮膚の上から触れることにより、骨格の1部は確認することができる。
2 自分と外界は、皮膚を境界として接している。
  しかし、皮膚は、自分の外から見ることはできるが、自分の内から見ることは、困難である。
  したがって、自分で自分を見るとき、本来は「こちら」にあると思われる自分は「あちら」に存在する。
  自分の存在を確かめるために、「あちら」に存在する自分の表層をトレースすることになるだろう。
3 自分で自分を見るときに、自分は「あちら」にあるが、自分は、やはり自分であって、「こちら」にあると考えるだろう。
  それは、誰しも人間についての学術的知識があるため、その影響があるだろうと思われるが、自分の脳は、本来的に、自分は自分と思うのだろう。
  このため見ることができる表層だけでなく、自分を階層的に理解し、自分をとらえるだろう。
4 視覚は、対象の形と色、対象との距離(起伏)によって判断する。
  触覚は、対象の起伏によって判断する。
  したがって、自分の存在を確かめるための方法として利用する視覚と触覚は、対象との距離が大きな意味をもつ。
  しかし、対象との距離を把握する距離感ほど不確かなものはないだろう。
  自分が、自分だけでなく、外界を広くとらえるとき、距離感は、大きく揺れ動き、変容する。距離感は、脳の問題だと考えると、無限に変容すると言って良いだろう。
  自分が自分の存在を確かめるときに感じた「あちら」と「こちら」の関係は、外界を広くとらえたときにも感じるだろう。外界だと思っていたものが、実は、自分の内側から見た姿かもしれない。「あちら」と「こちら」の間は、確定的にとらえにくいと思われる。
5 距離感について、普通、視覚が中心になってしまうが、触覚も意識したとき、新しい変容が生じてくる。それは起伏のイリュージョンと言っても良いものだと思う。「眼で触れる」、「手で見る」という、言葉の遊びではないとらえ方の世界がある。それは脳の世界なのかもしれないが。
  あちらとこちらの間について、それは変えることができるのだという感覚を提示したい。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年12月01日 | Permalink