事業承継は、事業の共有化の段階を経る必要がある。

「承継」と言う言葉は、誤導するおそれがあると思う。
事業は引き渡されるのではなく、並んで走る者が吸収するというイメージだ。

並んで走るためには、後継者自らが、同じ事業を一から始めるくらいであることが良いと思うが、先代と共同してやってみてもよい。

並んで走るという事業の共有化を体験することにより、その事業の進化の歴史を体験することになる。
事業の進化の過程を見ることは、大変勉強になる。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2019年09月19日 | Permalink

自分が築いたものは、いずれ自分の手を離れて、誰かの元へ行くという感覚は必要だ。

自分が築いたものは、自分にとって良い大きさ・扱いやすさとなっている。
普段は、このことを意識することはあまりないだろう。

しかし、自分の手を離れて、誰かの元へ行くとき、その大きさ・扱いやすさでいいのかを考える必要があるだろう。
そのときが、いずれ来るのだから。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2019年08月26日 | Permalink

故人の残した文献

文献は、次のレベルで整理できる。
故人の手が入った順。

1 書籍、資料

2 資料を整理し直したもの
並べ替えたもの。

3 内容を煮詰めたもの(コンデンス)

4 創作

故人の残したものは、膨大になることもあるだろうが、どこまで保管するかは、一概には決めにくい。

一族の歴史は、故人が収集・分析・圧縮したものの、積み重ねだ。

この考え方は、故人が集めた物(コレクション)にも当てはまるが、物はかさばる点で、保管が難しい面がある。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2019年08月16日 | Permalink

暗証番号・パスワードの伝達

先代が亡くなったとき、暗証番号・パスワードが不明であると困る。
銀行関係などは、相続人であることが判明すれば、暗証番号が不明でも相続はできる。
独自に作っているサイトなどは、サイト管理者であれば、パスワードが不明でもアクセスはできるだろう。
しかし、スマホは、相続人でも開示されないようだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2019年07月29日 | Permalink

昔からある物、今ある物は、いつまで残るのか?

昔からの物というだけで展示されたり、保管されたりしている物がある。
今残っている物が少ないこと、昔を想像することができること、が理由だろう。

物を捨てる技術と言ったり、物を持たない生活と言ったりして、物の価値が低下しているような言い方をよく聞く。

物を保管するスペースが少ないことが、これらの言い方の根本にある。

しかし、保管スペースがもっとあれば、このような言い方をする必要はなくなるだろう。

歴史の中で(長い時間の中で)、不要な物を処分していけばよい。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2019年04月15日 | Permalink

物を購入するときは、利用場所(展示場所)と保管場所の2つをを明確に確保してから、購入するべきだ。

大きな電化製品など、「壊れるまで使い、壊れたら破棄する」のであれば、利用場所(展示場所)と保管場所は一致する。

しかし、「壊れるまで使い、壊れたら破棄する」のではないのであれば、利用場所(展示場所)と保管場所を明確に確保するべきだ。
美術館を思い起こせばよいだろう。

ところが、「壊れるまで使い、壊れたら破棄する」のではないのに、利用場所(展示場所)に置きっぱなしということは、よくある。
家の中が片付かない原因は、ここにある。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2019年03月22日 | Permalink

相続で残しておいて欲しいもの

財産的価値があり、換価しやすいものは、多くの人が残してほしいと考えているだろう。
現金、預金、上場株式

換価しにくいものでも、財産的価値があるものは、残してほしいと考えるだろう。
不動産
 残された人が使いにくい大きさ、間取りであると、敬遠されるが、処分してしまえばいいとも言えるだろう。

絵画
 残された人の趣味に合わないときは、処分されてしまうだろうが、金額の問題だろう。

非上場株式
 今後も会社を支配していきたい人・それを支援していきたい人にとっては、重要なものだが、そうでない人にとっては換価に困るだろう。

財産的価値があるかどうか分からないものは、困るだろう。
書籍、資料、写真、記録など
 こうしたものは、残された人が困るから、生前に処分するべきだという意見もある。

 しかし、実は、こうしたものこそ、これからは大事になると考えている。
  処分されてしまうと、残された人にとって、再現できないからだ。
  戦争をしてはならないのは、こうしたものを残し、歴史を伝えるためだ。

歴史を伝えることが、これからの戦略として非常に重要だ。
この観点から考えると、動産も、何を・どのように残すかはよく考えられるべきだ。
残せないのは、多くはスペースの問題があるからだ。スペースがある限り、残していき、将来の世代に、始末の仕方についての判断を待つのがいいと思う。
将来の世代にその判断を求めることは、余分な労力をかけることになるという意見もあるだろうが、何もないことでも将来の世代は困るだろう。

動産は、ただ残されても、その意味が分からなければ、将来の世代は困る。何らかのコメントも同時に残すべきだろう。
形見分けがあるように、亡くなった人が使っていたものは、その歴史が残っていると思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年12月10日 | Permalink

未来の人は、私のことを、記録文書を残した人だと思うかもしれない。

 記録を残したといっても、あまりに煩雑・大量であり、読む気がしないかもしれないし、読む人の時間を奪うのではないかと恐れている。
 生きていて、いろいろなものに接し、自分が気がついたことを後進に伝えたいと思う。しかし、自分の現在を生きることにも時間をかけざるを得ず、記録を整理する時間も限りがある。
 気がついたときに、簡単に印(しるし)を付け、時間があるときにコメントし、体系化する。後に必要がないと判断すれば捨て、読み返して別のとらえ方ができれば、またコメントする。体系が完成したと思っても、時間が経過すれば、体系は修正するしかない。
 ファイルの背表紙に書かれた題は、それが集まれば、現在の自分の体系である。ファイルの中身は、離合集散し、ファイルの背表紙に書く題は、変わっていく。自分の体系は、常に変容していく。
 「過去を見る眼が新しくならない限り、現代の新しさは本当に掴めないであろう。」(「歴史とは何か」E.H.カーⅳ頁)という立場から、記録の整理もし、未来を考える。これをどこまでも繰り返していくつもりだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年07月11日 | Permalink

自分の統一性

 自分は、多くの可能性の中から1つを選びながら生きている。その連続だ。こうした生活の中で、自分の全体を統一的に表現することは難しいと感じている。つい、もっと別の選択があったのではないかと考えてしまうのだ。
 記録は、できる限りとっているが、昔の記録は、それが自らが書いたものでさえ、忘れてしまう。したがって、ますます自分の全体を統一的に表現することは難しい。
 しかし、一人の人間が考え、行動した結果には、何かしらの統一性が読み取れるだろう。それは、本人にも分からないところだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年05月25日 | Permalink