先祖から残されたものをどうするか(ネット上の議論)
ネット上での議論を見ていると、先祖から残されたものをどうするかと言う議論はあまり見られない。せいぜい写真をどうするか、先祖が個人的に使っていた財布などをどうするか、といった議論くらいだ。
このことは、先祖から残されたものがあまりないことが原因としてあるだろう。スペースの問題があって、多くの場合、使われなくなったものは処分される。
したがって、これから代々続いていこうと考える一族では、物の残し方は、自分たちで考えていくしかない。
ネット上での議論を見ていると、先祖から残されたものをどうするかと言う議論はあまり見られない。せいぜい写真をどうするか、先祖が個人的に使っていた財布などをどうするか、といった議論くらいだ。
このことは、先祖から残されたものがあまりないことが原因としてあるだろう。スペースの問題があって、多くの場合、使われなくなったものは処分される。
したがって、これから代々続いていこうと考える一族では、物の残し方は、自分たちで考えていくしかない。
ご先祖様が残した物品については、それを集約して、よく見ることによって、感ずるところが出てくるものと思われる。
使えるものについては、どんどん使い、使わなくなれば、集約した保管場所に戻すというやり方で進めていけば良いと思う。
壊してしまったときは、処分しても良いし、将来補修することも考えて、壊れたまま保管しても良い。
その意味は、これまでの価値観だけでなく、そこに何か新しいものを付け加えることができるかどうかという問題提起である。
経済的な価額だけの問題ではなく、そのもの自身の価値を認め、その1部なりを維持しているという意識は、重要だと思う。
誰々を徳川家康になぞらえ、誰々を徳川秀忠になぞらえて、こうあるべきなんだというような議論をするつもりはない。
親子関係、先輩後輩など、誰もが徳川家康であり、また誰もが徳川秀忠になり得る。
こうした観点に立って、この本を読んでみると、色々と気がつくことが多い。
1 家康も秀忠も、それぞれチームで行動していると考えるべきだ。
歴史の本では、家康が〇〇したと描かれるが、それはチーム家康が〇〇したと言うことだ。
2 家康も秀忠もチームとしてできる事は何でもやっているということだ。
家康の立場からは、いつになっても後継者のために色々と配慮を続けている。
家康のブレーンを秀忠のブレーンにする場合も、犬猿の仲の関係の者達をつけている。ここにも配慮はある。
家康も秀忠も、多くのブレーンがあり、そのブレーンをうまく利用して行動していると思う。
3 こうした家康と秀忠の最後の接点でのやりとりは参考になる。
家康も、いよいよ最後のときが近づいたことを観念したものか、枕元の秀忠に、「わしが死んだら、天下はどうなると思うか」と聞いている。それに対し、秀忠は、「天下は乱れると思われます」と答えているのである。家康はこの答えに満足したらしく、「ざっと済たり」と一言いって、心地よげだったという。この「ざっと済たり」という言葉は「そう考えていたらよい」といった意味だったものと思われる(148頁)。
秀忠の言葉は、覚悟を示したものだろう。
紙はすぐに記入できるため、思考するとき、備忘録などメモをとるときに利用するだろう。
しかし、思考のための場所をTrelloなどに作り、そこを見ながら思考すれば十分だ。
メモ等は音声入力を利用できるスマホを使う方が便利だ。
ただし、音声入力は誰かがそばにいると利用しにくいことがある。
紙ベースで渡される資料は、常にスクリーニングをして、必要な物をすぐに出せるよう、ファイルに綴じて保管しておくことが必要だ。
逆に、保管しない資料は、一定期間を過ぎたら処分していく。
資料が全て頭に入る人を除けば、資料を見ている時間のみしか活用できないのではないか。
紙ベースに落とし込むことは、もの(昔のKJ法のカードのようなもの)として情報を扱える点で良い。
歴史は、1人の人間が作っているものではなく、多人数のグループの動きが主である。
個人の名前で記述されているものも、本当は、親族、家来も含めた行動である。
黒澤明監督の「羅生門」では、話す人の立場から事実が異なってくることが描かれている。
ある一定期間の人間関係について、いろいろな人の話を聞くと、事実の全てを把握している人はいなく、それぞれが1部のみを知るだけだ。
これが人間が体験する歴史と言うものだと思う。すべての事実関係を把握して生きる事は、ほとんどできない。
スマホやパソコンで利用できるソフト・アプリを使って文章を作成しているときに、1番感じるところは、作成日時が記録されるということである。
それは自分にとっての歴史であり、将来的には1族の歴史となっていくものだろう。
この歴史を考えたとき、作成日時の記録は重いものだと思う。
しかし、多くの人は、その重みに気がついていないと思う。
本は残されても、後継者は、その全てを読むことはできないだろう。
そもそも残された本は、亡くなった人が、その一生の間に読んだものであって、後継者が同じ時間を使う事は到底無理な話だ。
したがって、本を残すことによって後継者に読んでもらうことを期待するのではなく、自分が重要であると感じたところとかを伝えて理解してもらうことになるだろう。要約・圧縮が必要だ。