家ではなく、仕事場で子供と話すと、また違った感覚がある。

 家族としての親子と、仕事の上での親子とは、違う面があると思う。
 親子が、それぞれ違う仕事をしていても、それぞれの仕事場で話をすることはできるだろう。したがって、仕事の承継が必要な家族だけでなく、広く一般的に考えてよいと思う。
 家族としての親子の場合は、気持ちの問題が関係してくることや、どちらかが経験が長いという立場でもないことから、互いに難しい。子も初めての体験であり、親も初めての体験であることが多いだろう。
 これに対して、仕事の上での親子としては、経験が長い立場にある親は、ある程度確信をもって話ができるだろうし、話しやすいだろう。
 しかし、ある程度確信をもって話しているつもりでも、実は、的が外れていることもある。親が話しやすいと感じている分だけ、始末に負えないことがある。
 こうしたことは、親子で、互いによく理解しておく必要がある。同族会社では、家族(ファミリー)と仕事(ビジネス)の調整に、難しさと妙味がある。
 


投稿者名 管理者 投稿日時 2015年01月15日 | Permalink

子孫は、自分がしてきたと同じように競争していけるだろうか?

 リスクをとったり、努力によって、大きな成果を上げた人と、その子とは、同じということは少ないのではないかと思う。そもそも育ち方、育てられ方が違う。
 また、大きな成果を上げた人は、部下など仕事上の関係者に対しては、客観的にふるまえても、自分の子となると、そうではないことがある。自分の子は、自分と同じにできるはずと考えたり、自分と同じようにする義務があると考えたりする。
 このため、親子関係が、ギクシャクする。
 親の立場から考えると、どこかの時点で、あるがままを受け入れる必要がある。
 子の立場から考えると、親に対して、あるがままを受け入れてもらう必要がある。
 こうした努力は、意識して行うべきだろうし、必要だと思う。その中で、それぞれの進み方を決めていく必要がある。あきらめとしてではなく、新しい可能性を探るべきだ。


投稿者名 管理者 投稿日時 2014年10月28日 | Permalink

子供への承継

 子供が親の事業を承継しようと考えるかどうかについては、いろいろなパターンがある。
 子供が自分なりに親の仕事ぶりを見て、継ごうと決意するのが、理想的だろうが、必ずしもそうなるものではないから、工夫が必要だろう。
 その工夫を考えるときに、意外に効果があるのは、親以外の口添えだ。
 たとえば、親の事業が周りの人にわかりやすく、近所であるとか、何らかの接点があると、子は、周りの人から、「○○○○(家業の内容)の家の子だ」と言われる。すると、子は、家業を強く意識する。周りの人からの言われ方が、悪くなければ、子の自覚は、強く促される。
 こうした周りの人からの評価をうまく使えるならば、それに勝る承継の方法はないのではないかと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2014年05月28日 | Permalink

男をどこまで自由にさせることができるか。

 私は、男性なので、その立場から見てきたり聞いてきたりして、考えるところを述べたい。
 女性(妻)の中には、男性(夫)に対して、ルールによって縛りをかける人がいる。女性(妻)は、いろいろと考えるところがあって、そうするのであり、それを否定するつもりはない。必要なルールはあると思う。
 しかし、そこまで縛るかなと思うケースも多いと思う。時間の使い方、お金の使い方の縛りが多いが、優先順位のとらえ方の違いが根本にある。
 多くの縛りをかけられた男性を見ていると、善人ほど悩んでいると思う。悩んだ結果として、優先順位の高いことについての実行が遅れる。この遅れは、成果について大きな差をもたらすことが多い。
 女性も、成果を期待するのであれば、現場を知る男性の判断に信頼を寄せ、自由にさせた方が良いと感ずる。
 ただし、このような発言をすることは、なかなか難しいのが現実だ。男女の力関係が、年齢によって大きな差があることを実感する。女性の賢明な判断を期待します。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年11月27日 | Permalink

経営者・事業主の妻

 経営者・事業主の配偶者(多くは、妻)にお目にかかることは、それほどないものだが、離婚の相談を受けることも多く、弁護士として、それなりに見てきたと思う。
 自分の体験を一般化してはいけないが、経営者・事業主の多くは、何らかの形で、妻にコントロールされていることが多いと思う。すごく控えめな奥さんだと思うことも多いし、うまく夫を立てていると感ずることも多い。
 しかし、問題が多いと感ずることもある。問題は、いろいろだが、共通するところがある。
一番感ずるのは、経営者・事業主として経済的に成功している夫の場合、妻も自分の力と考える点だろう。夫婦で力を合わせているのだから、離婚の財産分与でも、原則、半々に分けられるように、成果が妻にも与えられることは当然だと思う。
 しかし、事業の能力に関しては、夫婦は別だと感じられることは多い。経済的な成功が人生のすべてではないが、基盤ではあると思われ、それを実現する力について、それなりの評価は必要だと思う。
 この点が分かっているかどうか、妻である人には、大差があると思う。離婚の場合は、これまでの清算だから、この点は、あまり問題ではないかもしれないが、これからも生活をしていく場合は、夫に能力を発揮してもらわなければならないだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年09月10日 | Permalink

親心

 この言葉は良い言葉だと、いつも感ずる。
 親である立場の人に対しても使えるし、子である立場の人に対しても使える。親子の情愛が分からない人に対しては、使えないのかもしれないが、それがいくばくかある人に対しては、分かってもらえることになる。
 単純な合理性ではなく、奥にねらいがある場合は、よくあることであり、そこを理解してもらうことは必要なことが多いと思う。そのとき「親心」という言葉がぴったりする。
 逆に、「親心」という言葉が、親子の間で生きている関係が必要なのだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年05月07日 | Permalink

「これからがんばると言っているんだから、がんばろうという気持ちを失くさせないで欲しい。」

 このような精神論は、扱いにくい。特に、勉強に関してはそうだろう。
 がんばろうという気持ちを失くさせたくはない。しかし、その方法は甘すぎると思われる。このようなとき、どうしたら良いのだろうか?
 先ず、精神論だけでは、身の破滅に至ることを説明するべきだろう。第2次世界大戦の日本の敗戦など、このような例は多いだろう。
 次に、精神論に代わる考え方を示すべきだ。戦争は、基本的に人員数・物量により決まる。(性能の良い武器は、対応量の高いものとしてカウントする。)織田信長も、桶狭間の戦いは特別なケースで、多くの戦は、人員数・物量で優位に立つものであったと聞く。精神論ではなく、物量をチェックするべきだろう。
 常日頃は、怠けていて、肝心のときだけ、幸運を祈っても、有利な展開は望めない。常日頃の努力で、圧倒的優位を作り出し、その上で、油断することなく、勝つべくして勝つことを目指すべきだ。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年04月12日 | Permalink

遺品の管理

 亡くなった人が使っていたものをどうするか悩ましいことがある。
 自分では捨てられないとき、保管することになる。捨てられないのは、亡くなった人の思い出があるからだろう。
 1つの方法として、透明なボックスを購入し、そこに保管することは、どうだろうか。透明度の高い、ほこりが入らない密閉性があり、積上げられるボックスならば、棚に置くことができる。
 ボックスの中での並べ方は、その人の感覚に任せる。また、ボックスに入りきらないものは、処分する。
 こうして出来上がるボックスは、また格別なものとなる。
 ただし、こうしたボックスを遺された、自分の相続人がどうするかという問題は残る。そこは、ボックスの意味合いにより決まるのだろう。何か意味を見つけられれば、残してくれるだろう。自分の相続人が、保管スペースとの兼ね合いで処分することは自由だろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年02月25日 | Permalink

「子どもには子どもの考えがある。」

 カリール・ジブラン「預言者」の中に、「子どもについて」の記述がある。
「子どもの魂はあしたの家に住んでいて、あなた達は夢のなかでさえ、その家へは行けない。」ともある。
詩的な表現だが、厳しい言葉でもある。
 成功している人は、どうしても子どもに同等を期待する。期待に反すると気落ちすることもある。
 しかし、「子どもには子どもの考えがある。」ことを明確に意識しよう。その上で、親としてできることを考えよう。これは見返りを求めることとは対極にある。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年01月30日 | Permalink

納経帳(朱印帳)

 お遍路や札所めぐりは、自分には、まだまだ先だと考えてきたが、最近、90歳を超える方とお話をしていて、考え方が違ってきた。
 「納経帳は、2つ作っておきなさいよ。」という話が、一番印象に残る。奥さんといろいろなお遍路や札所めぐりをしてきたが、奥さんが先に亡くなったとき、納経帳をお棺に入れてあげたので、1つしか作らなかった所は、残っていないのだった。
 その方は、お遍路や札所めぐりを若いときから行なっていたが、白装束を着て行なったものでもないし、信心があったものでもないとのことだった。歩いて回った所もあるし、タクシーで回った所もあるし、自分で運転して行った所もあった。そうすることによって、日本には良いところがたくさんあることに気がついた。じっくり見れば、見るべき所はいくらでもあるとのことだった。気持ちも変ってきたのだろうと思う。
 こうした気持ちは、少し分かる気がする。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年11月13日 | Permalink