人生のラップタイムは、常に意識すること。

物事には、時期がある。
 学校で学ぶ時期
 仕事を始める時期
 家庭を持つ時期
 子どもを育てる時期

こうした時期をあいまいにして、自由に過ごすことは、楽しいこともあるだろう。
しかし、そのしっぺ返しは、必ずどこかで来る。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年08月03日 | Permalink

豪邸

豪邸は、どこか特殊な建物だ。住む人の個性・好みを入れようとする。
 その理由は、権勢の誇示である。

しかし、いつまでその特殊な形で使うつもりなのか、使えるのか、よく考えてみるべきだ。
 売らなければならないときに、特殊すぎると、買い手は避けてしまう。
 豪邸は、ただでさえ大きすぎて高額である上に、個性的過ぎると、買い手は、限定されてしまう。

一族の連綿と続く生活のために、自宅の位置づけを考えるべきだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年10月26日 | Permalink

相続の紛争を、どのように防ぐか?

相続人の間で遺産分割の仕方について合意できていれば、争いは生じない。

ただし、生前にそのような合意をしても無効とするのが、法律の立場。したがって、生前には合意できていても、それをひっくり返すことはできてしまう。

このため、遺言をする必要があることになる。
ただし、遺言でも、全く自由になるものではなく、各相続人の遺留分を侵害すると、その限度で、もらいすぎた人は返さなければならない制度はある。

これが現在の法制度であるが、本来は、相続人の間で、分割の仕方についてきちんと合意できていることが大事だと思う。親と子らの間で、信頼関係があることこそ重要だ。

そのためには、幼少の頃からの育て方、成人してからの生活態度への注意など、親が考えなければならない。

基本は、
「財産は、自分で稼げ。」
「財産は、子孫のために預かっているにすぎない。」
「親も、自分たちも、兄弟間で比較するな。」
「財産の管理は、能力のある者に任せよ。」


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年10月27日 | Permalink

朗らかに、愛想よく。

こちらが相手方に対して何か配慮しているときに、その相手方が、ぶすっとした態度のまま通り過ぎてしまう、ということをよく経験する。おじさんに多い。

配慮されて当然と考えているのかもしれないが、それが日常になってしまうと、相手方の配慮に対する機敏な返礼ができなくなるだろう。機敏な返礼は、コミュニケーションの1つだ。機敏な返礼ができないということは、コミュニケーションができないということに結びつく。

そうなると、本当にコミュニケーションが必要な大事なときに、それができないことになる。その損失は計り知れないだろう。

日ごろから、意識しなくとも、機敏な返礼ができるように、心がけておくべきだ。少し口角を上げるだけでも、意味がある。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年10月20日 | Permalink

人生をいかに楽しむか。

世のマスコミ、メディア、SNSへの個人の書き込み、などなど、人生の楽しみ方を本当に表しているのだろうかと思う。
特にお金持ち、セレブの生活として紹介されている生き方を見ると、これではすぐに飽きるのではないかと思われる。
ただ部屋数が多いだけであったり、プールが付いているだけであったり、そこで示されているのは、面白いとは言えない。また、海外旅行、しゃれたお店も、ただ経験するだけならば、同じことだ。

寝て暮らしたいという人もいるようだが、それも飽きると思う。

楽しむためには、知恵が要ると言わざるを得ない。

それでは、人生を楽しむために、本を読んだり、ネットを見たりして、勉強しなければならないのか。
これは1つの方法だと思うが、年齢とともに、本を読むことは苦痛になる。
本を読んでも、もう少し簡潔に書いてくれないのだろうかと思ってしまう。読むに当たって、息が短くなっている気がする。
本を読むことが、時間つぶしをしているだけにもなりかねない。

本を読むことと、それを実行することとを組み合わせることも、1つの方法だと思う。
実行の観点から、本を読むということ。

夢中になれれば、それで良いではないかという考え方もあるだろう。
夢中になり続けられることは、難しいが、夢中になれるものを探し続ければ良いのかもしれない。

他人がどう思おうと、自由であれば良いだろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年06月07日 | Permalink

老人の「戦略」

 老人は、社会を支配している。したがって、老人に好かれれば恩恵を受ける。老人に好かれることが、若者には必要だと思うが、必ずしもそれを心がけている若者ばかりではない。それぞれの価値観・判断だろう。

 ここまでの言い方は、自分が若者に属していると考える立場からのものだ。しかし、年をとるにしたがい、誰しも老人の立場が分かる。

 老人は、老人なりに、自分が支配・維持してきたものをどうするかを考えている。そのときに考慮するものとして、自分がどのように扱われているかが大きな要素となる。それはやむをえないものだろう。
 老人は耳が遠くなり、人の話が聞き取りにくくなっている。また、老人になると、いろいろ間違えることが多くなり、話も間違いなく聞き取ろうとする。そのために、のろくなりがちだ。こうしたことが老人の特色だと思う。
 こうした特色により、老人は遠ざけられる。意外に一人ぼっちでいることが多い。

 その結果、老人は、自分なりの「戦略」を持つ。(老人がどこまで意識して戦略と考えているかは、人それぞれなのでここでは「戦略」とする。)老人は、自分がどのように扱われているかで判断するようになる。

 ここからは、若者に属している人たちへの話。

 老人の「戦略」を知らないで事がスムーズに運ぶと考えたら誤りだ。この点を誤らないようにするために、道徳はあるといってもいいくらいだ。老人の「戦略」への対応は、それほど難しいものではない。
 しかし、こうした若者の「戦略」を持たない若者が多いのが現実だ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年03月29日 | Permalink

出身地に留まる者と出ていく者

世の中を見ていると、出身地に留まる者と出ていく者とがある。
名古屋で仕事をする以上、名古屋に住むのが当然と考える人もあれば、そうでない人もある。住むにあたっては、家を借りる人もあれば、購入する人もある。

戦国時代も、地に留まる武士(豪族)と、全国制覇を目指して居城を次々に変えていく武士(大名)とが、いた。
どちらの生き方が合理的かは、その立場によるので、一概には言えない。
しかし、出身地に留まろうとする気持ちが大きな影響を持つとは思う。

「出身地に留まろうとする気持ち」を超えていくものは、自分の人生をどのように組み立てるかという計画の問題であり、簡単に言えば、目標設定の問題だと思う。
目標設定がないと、多くの人は、とりあえず日常生活が送れればいいと考えてしまうものだ。日常生活を超える部分を作り上げることを考える必要があると思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年03月18日 | Permalink

あまりにも、遅いと感ずる子に対して、親はどう対するべきか。

わが子が、多くの物事がチームで進められていることを想像できず、一人だけ遅く、物事が停滞するとき、やりきれない。
イライラのため、自分の仕事にも支障が出るくらいだ。

こんなときは、わが子に対してテストが繰り返されており、結果が何回も出ているととらえるべきだろう。
わが子だから親の考え方・手法を理解するだろうと、安易に期待してはならないのかもしれない。

テストの結果を何回も確認して、イライラせず、客観的に進め方を修正するしかない。

もちろん、愛情は、別の問題として大事にする必要がある。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年03月01日 | Permalink

瀧山寺の鬼まつり

2016/2/13、雨の中、瀧山寺の鬼まつりを見た。
 概要を引用すると、
「国重要文化財である瀧山寺本堂に巨大な松明を30数本を持ち込み、半鐘・双盤・太鼓を乱打し、ほら貝が吹き鳴らされる中で鬼が乱舞する様は圧巻で、観ている観客が延焼の心配をしてしまうほど勇壮な祭りとなっています。」
「祖父面・祖母面・孫面をつけた鬼が、燃え盛る炎の中から鏡餅を持って登場し、天下泰平・五穀豊穣を約束するといわれている。 」
「鬼面はもとは父面・母面もあったが、二人の旅僧が斎戒沐浴せずに父面・母面をつけて祭りを行い、面がついて離れず息絶えてしまった。この二人を薬師堂の前に葬り鬼塚として供養したため父面・母面は残っていないといわれています。」

 巨大な松明の扱い方は、激しく見えるが、きわめて抑制されたものだと感じたが、一番感じたのは、孫面をつけた子(小学生)を、本堂の欄干に取り付けられた擬宝珠(ぎぼし)に、大人たちが支えて立たせることの意味だ。孫面でもかなり重いと思われる。
 父面・母面がない中で、回りの大人たちが、孫面をつけた子を擬宝珠に立たせることは、子育ての強い意識を感ずる。まつりの準備段階から、子が参加しており、未来を志向するものだと思う。鎌倉時代から800年続くことも、その大事さが意識されていると思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年02月15日 | Permalink

家ではなく、仕事場で子供と話すと、また違った感覚がある。

 家族としての親子と、仕事の上での親子とは、違う面があると思う。
 親子が、それぞれ違う仕事をしていても、それぞれの仕事場で話をすることはできるだろう。したがって、仕事の承継が必要な家族だけでなく、広く一般的に考えてよいと思う。
 家族としての親子の場合は、気持ちの問題が関係してくることや、どちらかが経験が長いという立場でもないことから、互いに難しい。子も初めての体験であり、親も初めての体験であることが多いだろう。
 これに対して、仕事の上での親子としては、経験が長い立場にある親は、ある程度確信をもって話ができるだろうし、話しやすいだろう。
 しかし、ある程度確信をもって話しているつもりでも、実は、的が外れていることもある。親が話しやすいと感じている分だけ、始末に負えないことがある。
 こうしたことは、親子で、互いによく理解しておく必要がある。同族会社では、家族(ファミリー)と仕事(ビジネス)の調整に、難しさと妙味がある。
 


投稿者名 管理者 投稿日時 2015年01月15日 | Permalink