家族(夫婦)は、どのような年齢構成で老いていくのか。

 年齢は、誰しも1年に1つずつ進むのであるから、将来の年齢構成は、年表にすれば、一目瞭然である。
 しかし、年表にしてみたりして、将来の姿を、1年ずつ具体的にイメージする人は少ないだろう。
このため、家計の管理をしている人が、70歳くらいになったときどうなるかについて、明確に考え、対策を実行している人は少ないだろうと思う。人生に楽観的であることは、悪くないだろうが、将来発生する問題については、やはり考えるべきだろう。
 すぐにでも気がつくこととしては、男性よりも女性の方が長命だから、自分亡き後の妻の生活をどうするかという問題がある。子供がいて、きちんとしてくれるのか、夫である自分がきちんとしないといけないのか、人により状況は違う。定期的に生活費が渡る方が良いのか、妻の自由裁量を認めた方が良いのか、という判断も必要である。
 弁護士は、この点についても相談にのることができるので、念のため。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年06月25日 | Permalink

写真の整理をどうするか。

 写真の整理が問題になるのは、多くは、遺品の整理をするときだろう。残された写真を捨ててしまっていいかどうか悩む。弁護士としてではなく、一個人としてである。
 したがって、自分が生きているうちに、残される人のことを考えて、整理する必要があると思う。
 年をとったら、写真は整理して、大部分は捨ててしまうことを考える人もいるだろう。しかし、残された人から見たときに、写真があまりないのも寂しいことではないだろうか。
 デジタル機器で保管するから、場所はあまり取らないと考える人もいるだろう。しかし、場所の問題もあるけれども、ただ残されても困るのではないかと思う。
 それでは、どうすれば良いか。
 古い写真は、デジタル機器で取り込むというような手間をかける必要があるものは別として、手間をかけずに時間順に並べておけば良いと思う。あちらこちらに、ばらばらに保管することだけは避ける。
見て欲しい点があれば、何かコメントを残しておけば良い。
先祖からの写真も同様にする。
 全体の分量がはっきりすれば、保管する側も気持ちがすっきりするだろう。
完全な整理など考えないで、時間があるときに、おおよそ並んでいる状態までには、まとめておく。残された人が、それを見て何かを感じてくれれば良しとし、捨ててもらっても良しとする。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年06月19日 | Permalink

後継者を見ていて、いろいろ感ずるところがある。

あまりに猪突猛進でも不安になるが、自分に比べて消極的なのも不安になる。
自分は、弁護士として、ある程度リスクをとって仕事をしてきた。助けになるものは全て使って、すこし背伸びをしながら進んできたと思う。
後継者も、自分と同じようにリスクをとって、仕事を拡げて欲しいと思うが、自分と同じようにはできないことの方が多いのが、世の常だろう。
後継者が消極的に映るのは、経験不足が原因だろうと思う。経験を積んだ人間と同じようには考えられないだろう。したがって、経験を積ませることは、どこの仕事場でも必要だ。経験を積むことで、発想が広がることは多いだろう。この点に注意して、仕事をしたいと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年05月18日 | Permalink

自分はどのような印象をもたれているか。

 小学校6年生のときの授業だったと思うが(私の通っていた小学校は、何か特定の教科ではない授業があった)、少人数グループに分かれ、それぞれの人について他の人がどのように見ているかを率直に書き出して互いに読み、話し合うという機会があった。(この授業では、おそらくいろいろな注意や配慮がなされていたと思うが、細かい所は忘れてしまった。)
 私にとって、これまでの人生で最大の衝撃だった。
 他人が自分を見る眼があり、それは自分が自分を見る眼とは大きく異なるということをわからせてくれた。
 授業のやり方によっては、とんでもない結果へと発展してしまうことも大いにありうるが、私にとっては、ショックではあったが、それをなんとか受け止めることができた。
 本当に貴重な体験であり、自分の一人よがりに気付き、また、友情というものも強く感じた。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年05月10日 | Permalink

在宅での死

 健康に問題が生じた場合、入院する。そこで不治の病であることが分かった場合、少しでも生き長らえる設備が必要であるから、最後まで病院にいるのが良いと考えていた。弁護士の立場としても、そのような形を見てきたと思う。
 しかし、「在宅」とは、自分の死に際ぐらい自由でありたいと願う人にとって、その思いを実現する手段なのである(文芸春秋スペシャル2011春号77頁)という考え方に接し、最後は自宅に戻るという選択肢も十分にあると思うに至った。
 たしかに病院では、延命のための設備はあるが、家族が泊り込むことは大変なことであるし、自分の好きなものが自由に置けるものでもない。
 しかし、家族の立場から言うと、少しでも長く生きて欲しいと思うから、最後は病院でと考えてしまうだろう。自分の死に際の自由を実現するためには、自分が元気なうちに、その意思を伝えておく必要がある。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年04月13日 | Permalink

本は、ファミリーの共通の財産である。

 親の立場として、自分の子が、どのような本を読んでいるかは、関心がある。読んでいる本を見れば、子の成長をはっきりと知ることができる。
 これに対して、子の立場からすると、親に、どんな本を読んでいるかを、知られたくはないだろう。
 しかし、親として、自分が持っている本を、子が読もうとするならば、大いに結構であるとして、解放するし、その逆も、大いにありなのだという、コンセンサスができることは、ファミリーにとって大事なことだと思う。
 本には、いろいろな書き込みをするだろうし、付箋もつける。この記録は、世代を超えて貴重だ。
 これは、親子で酒を飲みながら話をすることに匹敵すると思う。
 弁護士の立場からは、その人が、どのような本を持っているかは、注意している。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年04月03日 | Permalink

読書

 どのような本を読むかは、自分の年齢と共に変化している。
 学生時代は、学校で使う教科書(基本書)を読む必要があったが、同時に小説も読んだ。
 ところが社会に出て仕事をするようになると、仕事上必要な本以外に、経済書を読むようになり、小説(フィクション)は少なくなった。
 そのうちに歴史に関する本に興味が出てきた。いつも自分を誰かの立場に置いて読む。
 読む本に変化を生ずるのは、誰かの影響である。身近な人からの勧めもあるし、何かの本やネット上での紹介の場合もある。興味を限定せず、素直に読み始めてみると意外な展開があるものだと思う。
 経験を積むにつれ、著者と自分との比較ができるようになると、おもしろいと思うようになる。
 50歳を越えて、読むことに疲れを感ずるようになると、読む本を選択するようになり、また、全てを読むこともしなくなった。本の内容が予想できるようにもなる。
 最近感ずるのは、本は何かの実行に結びつけなければ意味はないと思うようになったことだろう。読むことが目的ではなく、読んで気付き、実行し、自分が成長することが目的だと思う。
 弁護士の立場からは、実行に結びつけている人が、成果を出していると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年03月26日 | Permalink

親として、子に対し、どのような結婚をするべきかを伝えるべきか。

 結婚が閨閥作りのために利用されていることは、昔はあったようだが、今はあまり聞かないと思われる。
 しかし、あまり表立ってはないにしても、昔と同じようなことを考える人はいるだろうと思う。弁護士として、いろいろな人と話をしていて、そう思う。
 子の人生は子のものであって、親が口出しするべきではないし、口出ししない方がかえって良いという意見が多いかもしれない。お見合い結婚か恋愛結婚かと言われれば、今は恋愛結婚の時代だと思う。
 しかし、どのような結婚をするか(配偶者に誰を選ぶか)によって、人生は変わってくるだろうから、親としては、気になるところであるし、何らかの意見を伝えることは良いと思う。
 どのような意見を伝えるべきかは、プライベートに直結しすぎてここでは書けない。
 子がどのような配偶者予定者を親に紹介するか、その場になっての覚悟はしておく必要があると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年03月21日 | Permalink

目くばりのできる女性が結婚を決意するとき

 目くばりのできる女性が結婚を決意するときには、心の片隅で親を安心させたいと考えるときく。自分の幸福よりも親の幸福を優先させることもあるときく。
 この考え方は、古風であるようにも思うが、日本的なのではないかと思う。
 現代では、こんな風に考える人はいないよと言う人は多いかもしれないが、私には大事な判断のように思う。
 結婚生活は、相互理解と相互依存の中で、その時々に2人で築いていくもので、「この人以外に結婚は考えられない。」と言うほど限定されたものではないと考えるからだ。こんなことを言うと、世の多くの人から非難されるだろうと思うが、弁護士として感ずるところでもあるし、こんな考え方もあるという程度に受けとめていただければと思う。
 なお、離婚について前向きに考えることとは別の問題である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年03月15日 | Permalink

ファミリーを見るときは、現実の能力をよく見て、それを前提に考える。

 弁護士として、一代で事業を築いた人を見ていると、身内に対しても自分と同じレベルを求めているように思う。「いや、自分と同じことは求めていませんよ。」と言う人であっても、ある程度は、自分に近いレベルを期待していて、その期待との差がわかったときにショックを受けることがあると思う。
 自分の能力とファミリーの能力とは別だと考える必要がある。ファミリーを見るときは、少なくとも普通の能力の人であれば大いに良しという前提で考えるべきだろう。
 いや、本当は、それでも甘く、現実の能力をよく観察して、それを受け入れるべきあろう。
 ファミリーの現実の能力を前提に、ファミリーのあり方を考える必要がある。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年03月12日 | Permalink