お金があれば何でもできるか?

 「豚に真珠」、「ネコに小判」という言葉があるように、高価なものでも、その価値がわからない人には役立たないといえるだろう。
 しかし、誰しも自分は豚やネコではないと思うだろうから、実感としては、お金があればおおよそ何でもできると思うに違いない。
 たしかに、お金でいろいろなものを手に入れて楽しめば、満足のいく時期はあるだろう。「死ぬまで、買いたい物は、なくならない。」と言う人は、いる。
 しかし、楽しみ方の深さは、お金だけで決められないことは、まちがいないだろう。人は、感覚を通して頭脳で楽しむのだから、楽しみの受領の仕方が深まっていかなければ、飽きがくると思われる。
 したがって、受領する頭脳(考え方や理解力)に気がつくならば、お金は絶対的な要素ではないと考えるに至る。
 このことは、学校でもっと教えられても良いことだと思われるが、教え方が奥床しいため、十分に理解されていないようにも思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年01月26日 | Permalink

このサイトのねらい

 夫婦関係と親子関係が、人生の核となるものだろうと思う。したがって、それについてどうするのがよいかは重要な問題であるが、誰しも初めての経験であることが多く、思ったとおりにいかないうちに人生を終えることになる。
 そこで、私なりに実体験したり、同時代の出来事として見聞きしたり、書物の中で過去の出来事として、読んだりしたことをまとめ、何らかの参考に供したいと考えるようになった。
 私は、このような蓄積の上に立ち、日々の仕事を続けているものであるが、何が正解かということは、確定的にわかるものではないと考えている。いろいろな選択肢の中からその時にふさわしい判断をし、その効果をよく観察し、問題があれば修正するということを何度も繰り返すことになる。
 このような経験が、私の最大の財産なのだと思う。私の考え方も1つの考え方に過ぎないことは了解しており、私の考え方と違う考え方を持つ人は多いと思うが、各自の考え方と比較してもらえれば光栄であるし、納得がいかない点があれば尋ねていただければと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年07月14日 | Permalink

「本当の資本とは、貨幣ではなく人間の創造力である」

20世紀美術を代表するドイツのアーティストであるヨーゼフ・ボイスは、上記のように語ったという。
直感的に納得できるのではないかと思う。価値の源泉は、人間の創造力であると、私も考える。

問題は、そのような「資本」をどのように集めるかであろう。
「人間の創造力」というのは、その人限りであることが多い。その人が生きていれば、そこから何かが生まれるだろうし、そのような人同士は、相互に影響を与え合って、良い方向に発展するだろう。しかし、誰もが本来の創造力を発揮できると、無条件に言うことはできないだろう。

ヨーゼフ・ボイスは、「すべての人間は芸術家である」とも語っており、それは、「よりよい社会を形成することができる創造力を、誰もが潜在的に有している」という意味だという。楽観に過ぎるという面もあるだろうが、これくらい楽観であってよいだろう。大事な点は、潜在的な能力をいかにして発揮するかにある。

人間の創造力をどのように引き出し、それを蓄積して、組み立てるかを考えていかなければならないだろう。私の関心も、すべては、ここにある。



投稿者名 管理者 投稿日時 2010年03月09日 | Permalink

テキストの多すぎる時代

 一生かかっても読みきれない量の本を買うことは、それほど困難なことではない。本があれば後は何も要らないという人は多くはないかもしれないが、一生を楽しむためのお金は、さほど大きくはないだろう。
 問題は、本の内容量が多いことだろう。本を読み、時間をつぶすことに目的があるならば別だろうが、1冊の本が厚すぎる。必要な所をピックアップして読もうとしても、全体の構造がはっきりつかめず、選別することが困難な本も多い。
 後輩のために文章を残す人は、適切な分量をよく考えて書くべきだろう。エッセンスというものを残すべきだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年11月26日 | Permalink

浄土

 浄土にもいろいろあることを知らなかった。

 釈迦如来の霊鷲山浄土(りょうじゅせんじょうど)。

 阿弥陀如来の極楽浄土(ごくらくじょうど)(西方)。

 弥勒菩薩の兜率天浄土(とそつてんじょうど)(北方)

 薬師如来の瑠璃光浄土(るりこうじょうど)(東方)

 観音菩薩の補陀洛浄土(ふだらくじょうど)(南方)

 8世紀初頭の法隆寺金堂壁画には、釈迦、阿弥陀、弥勒、薬師の四方仏の浄土が描かれているそうだ。
 しかし、浄土のイメージは、それを膨らませようとしても限界があるとの話があり、私も同感である。
 これに対して、浄土の対極にある六道の世界は、イメージを膨らませることができる。
 浄土は、すごろくのゴール(到着点)のような世界があり、そこでの生活(?)は、あまり意識されてこなかったようにも思う。
 浄土は、北極星のような方位を知るための指標に過ぎないのかもしれない。
 「恐れるもの」について、考えようと、別の所で述べたが、「恐れるもの」の対極にある浄土についても考えるべきだろうと思い、記述した。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年09月28日 | Permalink

この世の地獄

 人は、「地獄草子」や「六道絵」に描かれたような世界は空想のものだと思うかもしれない。
 しかし、この世の地獄という言葉もある。死後の世界はイマジネーションの世界であり、あるともないとも誰も確かなことは言えないだろうが、現実に自分の近くで多くの不幸が起こっている。
 不幸がなぜ起こるのかは、一概に言えないだろうが、何らかの因果の法則の上で起こるとは言えるのではないか。
 前世の因果で関係するかどうかは全く不明であるし、「親の因果が子に報い」という言葉を乱用することはできないだろうが、少なくとも自分の行いが自分に影響するとは言えるのではないか。
 自分の行為が原因で、何らかの不幸が起こっていて、この世の地獄ともいえる状況だとすれば、恐れるべきことだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年09月27日 | Permalink

恐れるもの

 平安時代、年末に仏の名を唱えて1年の罪過を払う「仏名会」と呼ばれる仏事が行われたとされる。その際、出席者(僧侶・貴族)の正面に仏の世界が置かれたが、同時に出席者の後ろに地獄絵の屏風が置かれたとされる。
 地獄という世界があることが明確に意識されていたと言えるだろう。
 平安時代末期には、地獄や餓鬼を主体とした絵巻である「地獄草子」、「餓鬼草子」が制作されている。
 平安時代中期、天台僧である源信が「往生要集」を著しているが、その最初には、厭離穢土(おんりえど)として、諸経典から抜粋した厭うべき六道の様が記されている。
 六道は、浄土の対極にある世界であり、死後、輪廻転生する地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の6つの世界である。
 ここではあまり立ち入ったことは省くことにするが、昔の人は、恐れるものがあったと感ずる。
これに対して、現代に生きる多くの人は、昔の人のような死後の世界観はないと言っていいだろう。
 しかし、恐れるものがないというのは、不幸なことのように思う。「恐れるもの」に相当する何かが明確に意識されなければならない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年09月26日 | Permalink

自分に活力を与えてくれる使命

 ユングは、有名になるにつれて、神経症らしき徴候もないのにやってくる人も増えて、自らの人生に意義や目的を見いだせないでいる人たちの診断も行なうようになったという。
 ユングは、こういう人たちに最も関心をもった。
 その人たちは、世間の因習を拒否してでも自分自身の道を見つけだそうという性格を備えた、数少ない人たちであった。ユングは、「自然は排他的であって、優れた人間の価値は十人の劣った人間の価値よりも優る。」とし、こういう人たちこそ文化を担っている人たちだ、彼らが目標を達成するのを支援することこそ、自分に活力を与えてくれる使命だと考えた(『天才はいかにうつをてなずけたか』アンソニー・ストー著 278頁)。
 
 マスコミが聞いたら袋だたきにしそうなユングの考え方であるが、参考になると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年09月08日 | Permalink

生活の原理は、そんなに多くあるものではない

 世の中には、対象としての分野(世界)は、限りなくあると感ずるが、生活をしていく上での原理・原則は、それほどあるものではないと思う。
 20歳くらいになるまでに、生活の原理・原則を身につけ、30歳くらいになるまでに、対象としての分野(世界)を定めたならば、どこまでもその分野(世界)を楽しんで行けば良いと思う。
 そのうちに何か気がつくことがあれば、新しい分野(世界)へ進んでも良いだろう。引退(リタイア)は、新しい分野(世界)へ進むことに過ぎず、何もしなくなるものではないと思われる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年05月13日 | Permalink

時間の経過の中で1人の人間を考える。

 最近、風に飛ばされて、拾いにくい所に落ちた洗濯物を、毎日のように見ている。白い物もだんだんと土の色になり、形もくずれ、小さくなっていく。時間の力は偉大であり、誰もコントロールできない。全ては自然に還っていく。
 人間を構成する細胞は、一定の時間の経過で死ぬと聞いたが、構成要素はどんどん替わっていくものの、その人本人は死亡するまで、別人となってしまうものではない。(正確に言えば、その人本人は変わっていっているのであろうが、別人と言えるほどの変化ではないということだろうか。)
 人間を構成する細胞と同じように、会社・組織を構成する人・物は変わっていくが、会社・組織は継続していると考えるべきなのだろう。人間と会社・組織をパラレルに考えて良いのかどうか自信がないが、直観的には、なんとなくわかる気がする。
 このように考えてくると1人の人間の位置づけは小さく感じられるが、過大視するよりも健康的だと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年11月04日 | Permalink