老後のために〇〇〇〇万円貯めよという言い方・発想は、おかしいと思う。

貯金額で表わすことは、多くの人にわかりやすいので、そうするのだろうが、貯金を崩して生活していくことを考えているのだろうか?
 人生100年時代と考えるのであれば、いつ寿命がくるかわからないので、貯金を崩して生活することは、大いに不安だと思う。

貯金額を基準にするのであれば、貯金から得られる利子で生活することを前提とするべきだ。

あくまでも収益性で判断するのが正しいと思う。
 株式であれば配当。
 不動産であれば賃料収入。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年09月18日 | Permalink

ルールの枠組みを明確にすることは、参加者のやる気を高める。

ルールの枠組みとしては、いろいろなところで考えられる。
 収入分配、経費分担、依頼事項の示し方、

ルールの枠組み作りは、大きな組織であれば、必然的にできてくるものだろうが、小さな組織では、その必要性があまり認識されていないように思われる。

また、ルールの枠組み作りは、作った人が、それを開示すると、自分自身も縛られる。
 このことを嫌う個人事業者・経営者も多いだろう。

しかし、収入分配などで、すぐ分かることだろうが、ルールの枠組みが明確でないと、そもそも参加者は努力しないだろう。そのデメリットは大きいと思う。

自分自身が縛られることを恐れて、ルールの枠組みを開示しないよりも、参加者のやる気を考えるべきだろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年09月07日 | Permalink

個人事業主の姿は、歴史上、いろいろな形で見ることができる。

いつの時代も、権力者側は個々人を統制しようとするが、見逃された自由はある。
 すべての人を四六時中統制することはできないだろう。
その自由の中で、人は生きてきたと考えている。

古代豪族
8世紀後半から、富豪は歴史の表面に姿を見せ始める(日本の歴史「古代豪族」290頁)。
富豪は、買い集めた田地を、元の持ち主にそのまま耕させて小作料を取り立てる(間接経営)のではなく、自らが隷属農民を駆使した(直接経営)。

中世武士団のイエの独立性
鎌倉時代の不動産訴訟では、当事者同士の示談による和解(和与)が奨励されていた。
その基礎に横たわっているのは、当事者たちそれぞれが、1個のイエの支配者であり、小なりとはいえ1つの小宇宙・小国家の君主でもあったという中世社会の特質である。
鎌倉幕府では原則として主人と従者との対立する相論は受け付けない、という基本態度を守っていた。(「主従対論」は幕府の裁判所ではとりあげない)これは、幕府と御家人との関係で御家人側の自主性を認め、主人である度家人の従者にたいするイエ支配権を承認したものと見るのが正確。

近世町人
水田に稲を作る者の上に権力が築かれた歴史の中で、非農業者の歴史は、語られなかった。
士農工商は、もともと中国古代の身分秩序で、工商は、士農と区別された卑賤身分であった。しかし、科挙の受験資格について見ると、中世には、工商は、科挙の門が開かれており、士農工商の区分は早くから崩れていった。
日本でも、町人は、士農の下位に位置づけられた身分称呼であったが、近世に固められた身分秩序だった。
中世末に、都市の自由を作り出し、闊達な文化を築き上げた町衆があった(日本の歴史「町人」16頁)。

経営型農民(山本七平「渋沢栄一 近代の創造」37頁)
渋沢栄一(1840年生)は、農耕・養蚕のほか、藍玉の製造・販売を営む豪農の家に生れた。代官から御用金の申し付けを受けた際の侮辱・嘲笑に憤慨した話(17歳のとき)(青淵百話)が残されているが、封建制・身分制を笠に着て、経済力・能力に秀でたものに対して理不尽な行為をすることを、心から軽蔑した。
能力的に、武士階級に勝る力をつけた農民が出てきている。職業選択の自由がないものの、工業・商業の分野で工夫することができた。
封建制・身分制の中で、血縁により有利な立場に生れた者の中には、相手を侮辱・嘲笑する者もいる。しかし、血縁により有利な立場に生れたというだけで、その者が自分の力で獲得したものではないものを振り回しているだけで、優れた者とは言えない。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年09月03日 | Permalink

あまりにも自分の感覚と異なることが起きる。どうすればいいのだろうか?

(ここでは、具体的に何が自分の感覚と異なるかは、述べない。)

起きたことに対応していくだけだ。
 自分にあまり関係がないことに、こだわる必要はない。

社会がどうあるべきかを考える人もいるだろうが、私は、自分との関係をよく考えることが大事だと考えている。

社会だけを取り上げて議論したり、考えてみても、それは甘い議論・検討にしかならない。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年08月30日 | Permalink

個人事業主の強みは、自分の才覚で業績を伸ばせるところだ。

大きな組織であれば、多くの人に、業績向上に結びつく「何らかのもの」を伝達することが必要だ。

しかし、個人事業主であれば、自分の考え方を変え、実行するだけだ。
 個人事業主は、他人にぶら下がることができないが、他人にぶら下がられることも避けられる。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年07月31日 | Permalink

人を雇わない経営

すべての人が事業者の感覚を持つことは、難しいだろう。
 雇われて給与の支給を受けなければ生活できない人は多い。

しかし、事業者としての自覚を持って生きている人も多い。このような人は、これからの時代をどのように生きていくべきだろうか?

個人事業主の生き方は、シンプルだと思う。
委託先、外注先は、持つ。しかし、人は雇わない。

日本の労働法制は、労働者保護が強く、事業者(経営者)にとっては負担だと思う。
人を雇う場合の、社会保険料負担も過大になっている。

個人事業主は、基本的に、「自分でできることは自分で行なう」と考えていると思う。
また、自分で行うには不得手なことがある場合、それをサポートしてくれる外注先は、いろいろある。

多くの人を雇って、大規模に事業展開するのは、恐竜のような生き方だ。気候変動(時代の変化)で絶滅する可能性が高い。
哺乳類のように、体は小さくとも、自分で変化に対応できる生き方をするべきだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年07月20日 | Permalink

「貧乏から抜け出すには、学問しかない。」

この言葉は、学問の場を学校に置いているだろう。
私は、このような考え方がある時代に育てられたので、実感として、この発言はよく分かる。同感もする。

しかし、学問に限定するべきでないことは、現代では明らかだろう。

むしろ、学問にどれほどの力があるか、疑問が出てきているのではないかと思う。
孤立して学問を究めるよりも、学校などの人間関係の中でプロジェクトを進めることの方が、貧乏から抜け出すには有効だ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年07月05日 | Permalink