値段を忘れて、今持っているものの効用だけで、組み立て直してみる。


食べられる量は限度があり、値段の違いほど差はない。

健康
健康は、何か特別なものでしか実現できないものではない。
むしろ、害のあることをやめればよい。
病気になっとき、お金により治療法の選択が広がることはあるだろう。しかし、それは、限定された場合だ。


たくさん買っても、使うのはわずか。
服や靴をたくさん持っていることがテレビなどで話題になるが、どれほどそれを使ったのか定かでなく、逆に、使っていないのに持っていることで愚かさを感じさせてしまう。

動産
装飾品
高価なものは、基本的に華美で過剰だ。
大きな宝石は、逆に、本物には見えない。

時計
時計は、たくさん所有しても、使うのはわずか。


大きさはピンキリだが、実際に使っている部分は限定される。

移動

こだわりがある人には、大きな違いかもしれないが、現実にはそれほどの大差はない。

旅行
行き出せば、きりがないが、現実には、それほど覚えていない。

教育
塾・学校の費用は、効能をよく考える必要がある。
子どもにとって何が必要かは、時代と共に変わっていき、固定観念にとらわれる必要はない。

娯楽
スポーツ
自分でできることには、限度がある。

知的作業
書籍
理解し使いこなせる量をはるかに超える書籍を、購入することは容易。

美術品
上を見ればきりがないが、自分の余裕の範囲で楽しむことはできる。

人との違い
話題のために何かにお金を使うことはあるが、話題の必要を感じない人も多い。

やってみたいことは、いくらでもあると考える人はいるが、自分の満足のための範囲は限度がある。

美しさ
全ての人は、年齢には勝てない。
年齢に応じた美しさは、健康を考えることで実現できる。

お金
お金は、記録としての意味しかない。

こうして考えてくると、自分は、既に持っているという結論になるのではないだろうか。
何かまだ実現したいものがあるように見えても、ただ、お金を持ったことを、記録したいだけだ。
(もちろん、お金がなくて苦しんでいる人が多くいることは分かるので、ここでの記載を誰にも当てはまると考えているものではない。)


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2019年01月08日 | Permalink

人生100年時代のパフォーマンス(行動)の例(ランダム)

自分は何をするか?ということに尽きる。
自分の行動を少し広げてみることは、いいのではないか。

子どもが巣立ったら、自宅を処分して、コンパクトで便利な場所に住む。

書棚の本を、いろいろな基準で並べ替えてみる。

塩野七生「ローマ人の物語」から、自分に似た皇帝を探してみる。

旅先で見つけた気に入ったもの(落ち葉など)を集めて、箱の中に構成してみる。

おもしろいと感じたペーパーを集めてファイルして、絵本にしてみる。

東京などで売り出されている不動産を検索して、現地に行ってみる。

梅棹忠夫の「文明の生態史観」を、自分なりに膨らませてみる。修正してみる。

自分のすべての経済活動をエクセル表に落とし込み、キャッシュフロー一覧表にまとめてみる。
そのエクセル表を加工して、自分の未来の姿を表わしてみる。

これまで本などを読んで大事だと感じた個所を、年表に落とし込んでみる。
時間軸に落とし込みにくい個所もあるかもしれないが、それを落とし込める物事の見方を考えてみる。
こうしてできた年表は、これまでの歴史年表とは全く違った流れになり、歴史のとらえ方を考え直してみる。

昔、持っていたもの・気になっていたものなどをネットで検索して、入手してみる。

明かりをつけないで(電気をつけないで)お風呂に入る。

焼物の産地ごとにコーヒーカップを集めて、比べてみて、それを使ってコーヒーを飲んでみる。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年12月28日 | Permalink

世の中では、とんでもない値段を見ることがあるが。

旅行、食事、時計、美術品など、高額な値段を見ることが多くなった。
高額でも買う人がいるということだ。

そのものの価値と値段は、あまり関係なく、「価値があるから値段が高くなる」のか「値段が高いから価値がある」のか不明だ。

この現象は、人は価値だけでは、それが見極められず、満足して生活できないということを示していると思う。
世の中、マネーがあふれているので、金額だけ見れば、それが積み上がっているという面もある。

しかし、このような時代だからこそ、価値を見極める生活をしたら、コストを過大にかけないで満足できると思う。

価値の見極めでは、その道の達人とか専門家があふれているが、自分の感覚で生きていけばいいだけだと思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年12月26日 | Permalink

収入が支出を上回ることだけが、望みか?

収入の範囲で生活をしなさいと言われることが多いだろう。

給与生活者で、給与の高望みをしないで生活することに満足している人も多いだろう。

しかし、中小事業者の場合、収入が安定せず、そもそも給与生活者の感ずる安定など、はるか先のことだと感じている人も多いだろう。
こうした中小事業者にとって、収入が支出を上回ることだけが、望みとなってしまうこともある。

こうした望みを感ずるとき、中小事業者であるならば、その望みを振り払い、チャレンジャーでありたいとも思う。
こうした気持ちの揺れは、いつも感じているものだろう。

中小事業者は、こうした気持ちの揺れに耐えながら(できれば楽しみながら)、したたかでいたいと思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年12月13日 | Permalink

充実の次に考えること。

仕事のやり方は、自分に与えられた時間の許す範囲で、仕事を終えるようにする。
こうすれば、自分のなすべき仕事の全体をとられていれば、その中の何かができなくなると言うことはないだろう。
時間が限られているのだから、できなかった仕事もあるではないか、と疑問に感じられる方もあるかもしれない。
しかし、何もできていない形となっても、自分の中では、次に続く形となっていれば良い。
(もちろん、時間の許す範囲で、仕事を終える場合でも、何らかの手当ができていることがふさわしいとは考えているが。)

こうして仕事に取り組み、「精一杯生きている」と感じられれば、充実してくると思う。

しかし、このやり方だけでは、気持ちの面で、足りないと感じられるはずだ。
対応を修正していく必要がある。

では、どうするか?
新しいものを取り込む工夫が必要だ。それを仕組として作るべきだ。

自分のなすべき仕事の全体について、何かをやめてみることも大事だ。
ここからは、必勝法があるものではなく、変化をつけることだと思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年12月03日 | Permalink

「くそっ」と思ったことがあるのは、必要なことだ。

1804年
渡邊崋山(登)(12才)にとって生涯忘れることができない1つの事件があった。
登は、日本橋付近を通行中、登と同年輩位の若君の大名行列を冒してしまった。このため、衆人環視の中で散々打たれたり蹴られたりの辱しめを受けた。このとき、登は、燃えるような発奮が起きた。(「崋山渡邊登」7頁)

1857年
渋沢栄一(1840年生)は、農耕・養蚕のほか、藍玉の製造・販売を営む豪農の家に生れた。代官から御用金の申し付けを受けた際の侮辱・嘲笑に憤慨した話(17歳のとき)(青淵百話)が残されているが、封建制・身分制を笠に着て、経済力・能力に秀でたものに対して理不尽な行為をすることを、心から軽蔑した。(山本七平「渋沢栄一 近代の創造」37頁)

これらは、封建時代に対する近代の感性が生じたとき、ともいえるだろう。
封建制・身分制の中で、血縁により有利な立場に生れた者の中には、相手を侮辱・嘲笑する者もいる。しかし、血縁により有利な立場に生れたというだけで、その者が自分の力で獲得したものではないものを振り回しているだけで、優れた者とは言えない。

こうしたことは、程度の差はあれ、現代でも起こっている。
自分で獲得したものでもないのに(親から譲り受けたと言うだけで)、その格差を誇る人は、どこにでもいる。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年11月19日 | Permalink

紙の本・資料・定期刊行物を、どうするか?

こうしたものは、図書館か、本部かに行けば、いつでも見ることができることが多い。

私は、自分にとっての記録のように保管してきた。
いつか振り返って読むことがあると考えていた。

しかし、さかのぼって見なければいけないことは、ほとんどなかったというのが現実だ。

紙は、検索がしにくいし、朽ちていく。
自分が読んだ本を、自分と同じだけ時間をかけて読んでくれる人は、親族でもいないだろう。

結局、紙の本・資料・定期刊行物は、自分が利用するかどうかがほとんど全てで、自分が利用しないのであれば、捨てるしかない。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年10月23日 | Permalink

新聞に「国は放置した」という見出しを見ることがあるが、それはどのような意味か?

法令で決められていることを、国が行わなかったのであれば、法令違反だ。
しかし、まだ何も決められていない事柄について、国が行うべきだとの観点から、「国は放置した」というのは、国民が放置したということだ。

何でもかでも国に求める言い方は、発言することは自由だが、それだけでは実現しない。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年10月11日 | Permalink

個人事業主から見た、仕事のとらえ方の切り替え

個人事業主が人を雇っている場合、自分の仕事を進めるために、その人を役立てようと考える人が多いだろう。
自分が中心となって人を引っ張るという感覚。

しかし、その場合、不満が多いのではないかと思う。

そこで、雇っている人が力をつけてくれることに尽力し、自分に配当するという形にならないかと考えてみる。
これは、組織のあり方、仕事のとらえ方を切り替えることになる。

雇われている人は、多くは指示待ち族で、個人事業主が、引っ張っていかないとだめだと感じる人が多いかもしれないが、急がば回れという面もあるように思う。

自分の仕事については、人を引っ張るということではなく、人が力をつけるためにどうしたらよいかを考えることになる。

「配当するという形」というのも、それぞれの仕事で違ってくるため、一律には言えないが、自分の仕事では、どういうことかを考えてみるべきだろう。
たとえば、親が子に仕事を継いでもらうことを考えるように、親族関係のない人でも、どのようにしたら「継いだ」といえるのかを考えてみるべきだ。

ただし、世の中の多くの人は指示待ち族だとは思うので、人の採用について、時間をかけて修正していくことになるだろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年10月04日 | Permalink

サザコーヒー(SAZA COFFEE)

東京駅近くの KITTE 丸の内店に入ってみた。
パナマ・ゲイシャという銘柄のコーヒーが一杯、3,000円、2,000円、1,800円でメニューに出ていた。
他の銘柄は、もっと安いものが多くあったが、これだけ突出していた。

3,000円、2,000円、1,800円という値段設定が、興味深く、その理由を尋ねてみた。

同じような環境の豆でも、評価された豆は高く、そうでないと安いということだった。
評価されたかどうかの違いが大きいということだ。

評価(お墨付き)があるかどうかの違いを、お店側とお客側とで、それぞれどのように取り扱うかが問題となる。

お店側としては、評価(お墨付き)があることを、安売りの価格競争に巻き込まれないために使うことはあるだろう。
しかし、評価(お墨付き)があることの違いを、どのように説明するか、実際にお客側に分かってもらうか、が大事になるだろう。

お客側の私としては、評価された豆とそうでない豆の違いを追及し、その違いを味わう道を進むのか、ほぼ同じグループのものとして、違いを気にしないでそのグループを味わう道を進むのか、分岐点に立たされた。

私は、評価された豆とそうでない豆の違いが分かるほどの感覚はないと思う。
話の種になるとは考えたが、それだけに終わらせるのも寂しい気がする。
まあ、いろいろ考えたので楽しめたかもしれない。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年10月02日 | Permalink