バブルの教訓

量的緩和をしても、マイナス金利を採用しても、デフレから脱却できない。2パーセントの物価上昇を実現できない。

これは、経済の主要な参加者(プレイヤー)が、バブルに無理やり持ち込んでも、バブルは所詮バブルだという教訓を得ているからである。
多くのプレイヤーは、上がる見込みがあるからといって、それを追いかけても、どこかで破綻すると感じている。
したがって、あまり追いかけない。

これは健全な感覚だと思う。

同じように、人件費を上げることも、労働問題で苦労した経験がある経営者は、簡単には応じないだろう。
従業員の給与を上げても、またどこかで苦労すると感じている。

歴史は繰り返すというが、教訓は、かなり影響が残ると思われる。
世の中が教訓を忘れた人だけになったり、教訓が残っているときでも、さらにその上にまた新しい教訓を得る事態にならない限り、簡単には歴史は繰り返さないだろうと思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年11月18日 | Permalink

豊かになることは、先延ばしにもつながる。

 一番顕著だと感ずるのは、結婚年齢が遅くなってきたことだろう。
親世代に経済的な余裕があると、子世代は、結婚の決断を遅らせる傾向が顕著だと思う。
子世代の感覚からすると、結婚に関して慎重に見極めているというところかもしれない。
 しかし、このことにより、社会的には多くの影響があり、各家庭にもひずみをもたらしていると思われる。
 結婚だけでなく、職業を持つことに関しても先延ばしが目立つ。
 豊かになったのだから仕方がないと考えれば良いのかもしれないが、感覚の違いをうめる工夫が必要だと感ずる。タイミングをはずすことなく進めている家庭もあるのだから、何がしかの工夫があるのだろう。
 仲良しのチームワークだけではなく、強い発言も必要だ。おせっかいと思われようと言うべきだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2014年06月18日 | Permalink

企業の承継にあたり、課題をどのようにつかんでいるか。

 経営のトップは、同族企業の場合、親子、兄弟の間で変更し、承継されることが多いだろう。この時、どのような時期に承継を行なうかが、問題となる。

 年齢、体力など、いろいろな判断要素があるのだろうが、私がなるほどと思ったことがあるのは、企業の課題をつかみ、自分の役割との関係で、その課題を区切り、自分なりに実現した段階で、次の世代に承継するというやり方である。この方法は、次の世代との間でも、企業の課題を共有している。

 課題のつかみ方は、いろいろだと思うが、規模の拡大を考えるのではなく、取り組むべき分野など、その企業の強みに関する理解を深めることを行なうべきだろう。
 このように課題をとらえ、共有するならば、承継は、うまくいくと思う。承継の時期は、単純に年齢などで決めるのではなく、課題の連鎖の中で、役割分担として考えることになる。
 承継させる者と承継する者との間で、課題の押し付けは、避けるべきだと思うが、役割分担のとらえ方が、互いに一致すると、強い承継となると思う。こうすると、承継させる者には、踏ん切りがつき、承継する者には、責任感・覚悟ができるだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年08月21日 | Permalink

自分の子が後を継がないことを、どう受けとめるべきか?

 自分(親)が行なっている事業が、後継者(子)にとって魅力がない場合、後を継いでくれないことは、やむをえないことかもしれない。自分の事業よりも、子が起こした事業の方が、隆盛であることは、ありうることだろう。
 しかし、自分の事業の方が、子が取り組もうとしている事業よりも、収益性があり、安定している場合、親としては、気分は晴れないだろう。
 このような場合でも、「子どもには子どもの考えがある。」ということで、諦めるべきなのだろうか?多くの親のジレンマは、こんなときだと思う。
 しかし、自分(親)が行なっている事業の魅力を伝え切れなかったのは、まさしく自分である。子に無理強いしても、事業としては成功しないだろう。
 逆に、子に能力の点で問題がある場合、決断を迫られることになる。周到な準備を、人知れず行なうしかないだろうと思う。
 このように考えてくると、結局、子がどうであるかにかかわらず、自分(親)がどうするか、何ができるかの問題だと思う。自分の判断に基づき、家族・事業を組み立てていくしかない。これは極めて孤独な仕事だと思われる。どうしても子に期待をしてしまうが、そこは厳格に判断し、ありのままを受け入れるしかない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年03月06日 | Permalink

大須観音展

 大須観音は、国宝の「古事記」をはじめ、古典籍の宝庫であることは、知らなかった。「古事記」の写本の中で一番古く、最善本と評価されている。

 このことが実現したのは、多くのことが積み重ねられた結果である。
1 大須観音(真福寺)初代の能信(伊勢出身)が、多くの弟子を率いて書写を始めたこと
2 真福寺は、木曽川・長良川のデルタ地帯にあったが、徳川家康は、洪水の被害を心配して、文庫をお寺ごと、現在の場所に移転させたこと
3 東大教授の黒板勝美が、本格的調査・整理を行い、詳細な目録を完成させ、耐火性の高い鉄筋コンクリート造の建物に文庫を保管したこと(名古屋大空襲により、大須観音の伽藍が街もろとも焼失した中で、文庫は残った。)
などなど。

 文庫を宝とした考え方に感銘を受ける。また、承継のための努力・判断にも感銘を受ける。

 これに対して、現在は、「文庫」として残すものが何かを考えなければならないだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年12月25日 | Permalink

キャッシュフローの重みをいつ知るか?

 10億円資産があったとしても、1万円が払えなければ、債務不履行となる。このことは、頭では分かっていても、骨身にしみて分かるためには、経験が必要だろう。
 キャッシュフローのひっ迫は、徐々に来るというよりは、あるとき突然気がつくという感じだろう。多くの経理責任者は、日頃から、資金の余裕を持つように考えているだろうが、金融機関と条件を詰めるとき、余裕があると甘くなるものだと思う。こうした詰めの甘さは、将来、どこかで気がつく。しかし、後では、それを簡単には変えられない。
 こうした気付き・経験は、貴重であり、後継者に伝える必要がある。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年11月28日 | Permalink

方丈記(鴨長明)

 方丈記の終わりは、概要、次のとおりだ。
 自分は、執心するなという仏の教えに従い、人里離れた山の中でがんばってきたけれども、静かな明け方に自問してみるに、心は、欲にまみれたままだ。インドの高僧もささやかな庵で修行したが、自分はその跡を汚している。これは報いなのか、心が迷いすぎて狂ったのか。このように自問したが心は答えない。念仏を2、3遍唱えて終わった。

 この終わり方はあいまいで、物足りないと感じる人もあるかもしれないが、生身の人間らしくておもしろいというとらえ方ができるだろう。

 人里離れた山の中でがんばってきたこと自体が、執心するなという仏の教えに反するということに気づき、自らをも無常にシフトしたというとらえ方もあるようだ。無常を、単にはかないものととらえるのではなく、積極的に「無常力」という力のあるものとしてとらえるようだ。

 私は、宗教的な教えもあるけれども、現世に生きる人として生きていこうというメッセージだと思う。このような現実主義は、日本人に昔から受け入れられてきたのではないかと思う。
また、次の世代の人に、どのように自分の考えたこと・行なったことを伝えるかに関しても、考えさせてくれると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年10月25日 | Permalink

与える人になろう。

 多くの人に評価される人は、結局のところ、与える人だ。
 敬意を表され、大事にされる人を見ていると、与える人であり、ビジネスの面で力を得た人も、与えてきた人だ。 
 与えるにあたっては、何らかの見返りを期待することはあるだろうが、まず自分のできる範囲のことで、人に与えることが先だろう。自分が容易にできることならば、与えることは苦にならないだろう。
 与えることが積み重なり、また広がる社会が想定されて良いだろう。
 私個人としては、社会という大きなものを先に考えるべきではなく、自分とのかかわりの中で身近なところから考えていけば良いと考えている。弁護士であれ、同じことだと思う。個人が与える人となることで、社会は違った見え方をするだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年02月06日 | Permalink

「文人の愛した温泉」

 上記のような特集や本を目にする。「なぜ文人は温泉に惹かれるのか」というような論考もある。
 しかし、温泉は、文人にだけ愛されたものではなく、多くの人に愛されている。
 文人が、多くの人と異なるのは、小説などで取り上げ、記録に残した点である。記録に残されたことにより、後の多くの人が、文人の経験や意見を知ることができるため、文人が温泉を愛したとなるにすぎない。
 温泉を愛した人は多いと思われるが、記録に残っていないと、その事実も残らないということである。
 記録の意味を改めて感ずるところである。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年12月28日 | Permalink

自分が持っている本と自分のコメント

 読んだ本は古書店に売却する人が多くなったと思う。本は売りたくないという人でも、収納スペースがなくなれば処分するしかない。また、本人は売らなくとも、遺族は処分してしまうこともある。
 私の方針は次のとおりだ。
1 自分以外の人にも読んでほしい本は区分して残す。
 ただし、最初から最後まで読む必要はない。読んでほしい所に付箋をつけて、できればどこかでコメントしておこうと考えている。そうすることによって少しはガイドになることを望んでいる。全体を読まなければわからない本もあるかもしれないが、そこまで厳格である必要はない。
2 残された本について、私は全て読んでいるものではない。
 残された本は、ある世界を感じさせてくれる本であり、その中を冒険してみたらどうかと考えている。本の内容に賛成しているものではない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年08月05日 | Permalink