ファミリーとして、事業(職業)を選択する力

 ファミリーのうちの誰もが、自分たちの事業(職業)は何なのかを考える必要があり、そうなるように意識して協議の場をもつべきだろう。
 ただし、正面から形式ばって協議の場をもつのが良いのかどうかは、注意する必要があるだろう。
 ファミリーのうちの誰もが、自分たちの事業(職業)を考えた上で、将来に向けて事業(職業)を選択していく必要がある。
 これまで行なってきた事業(職業)を継承してくことこそが重要だとする考え方もあるだろうが、時代の変化に対応していくことの方が重要である。
 事業(職業)を選択する力というのは、高度な能力・経験を必要とすると考えるので、単純な多数決になじまないと思う。どこかで誰かに委ねるもののように思う。しかし、ベースとしてファミリーのうち誰もが事業(職業)を選択することについて考えていることが必要である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年06月08日 | Permalink

生命保険は必要か。

一般に、被保険者(一家の柱)が亡くなったときを考えて、生命保険に加入する。
しかし、加入の必要があるのか、自分の場合はどうか、よく考えるべきである。

資産収入のない家庭の場合、一家の柱の死亡は、大きな打撃であろう。したがって、生命保険の必要性はある。
逆に、資産収入のある家庭の場合、生命保険は不要であり、むしろ保険料を投資に回せない分、不利となるだろう。

借金のある場合、一家の柱の稼ぎで返済しているのであれば、一家の柱の死亡の場合に備えて、生命保険は必要だろう。
しかし、資産収入で返済ができるのであれば、生命保険は不要である。

したがって、資産収入を目指して投資をし、その投資が完成するにつれ、生命保険を少なくするべきだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年05月21日 | Permalink

自分は自分という生き方

 南蔵院、林覚乗さんの「心ゆたかに生きる」の中に、次の記述があった。

「ドジャースの野茂英雄投手が大活躍しています。四番打者のボンズが日本人記者から『ノモを見て、だれを想像しますか』とたずねられ、『ノモはノモにしか見えない』と答えていましたが、その通りです。
 ところが、日本人一般の見方は、そうではないんですね。例えば、ノーラン・ライアンを思い出したとか言いがちです。長嶋二世とか、王二世とか、落合二世とか、すぐだれかのイメージをダブらせて比較します。」

「人と比べることのない『自分は自分という生き方』は、今ある自分に喜びも悲しみも含めて感謝することです。」

 自分を振り返ってみると、学生時代(特に初等の時期)は、人との比較の中に置かれていたこともあり、「自分は自分という生き方」からは遠かったように思う。
 しかし、年とともに自分の生きる場が決まってくると、潮目が変わり、「自分は自分」と考えざるをえなくなったと思う。むしろ、孤独すら感じて生きることもあるのではないか。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年05月14日 | Permalink

先祖の読んでいた本

 父母がどのような本を読んでいたかは、生前は、書棚をちらりと見る程度しか知らなかった。
 しかし、父母がそれぞれ亡くなった時に、遺品の整理をする際、じっくり見ることとなった。
 どのような本を読んでいたかは、その人の考え方を知る一番の方法だと思う。自分が読んだ本の前の装丁の本があったりすると、先祖との共通点を感ずるし、本の装丁そのものも面白い。
 父の書棚に、ピーター・F・ドラッカーの「現代の経営」(昭和41年11月1日 第71版発行)があり、前から読んでみようと思っていたため、驚いたことがあった。私が10歳の時に発行された本であり、その頃に父が読んだということは興味深いものだった。
 また、先祖は、なぜ、このような本を読んでいたのかと考えさせられることもある。自分の嗜好を広げる機会ともなる。
 このように感じたので、自分の書斎は、家族にはオープンにしている。本の持ち出しは全くの自由としている。
 逆にどんな本が持ち出されたかは、家族を考えることにもなる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年05月07日 | Permalink

ファミリー規約

 ファミリー規約と書くと、「家族なのに大げさなことだ」という印象をもたれるかもしれない。しかし、どのように呼ぶかは別として、ルールとして確立する必要がある。
 多くの場合、暗黙のルールの状態かもしれないが、どこかで明確化することが必要だと思う。
 自分のファミリーを見つめ直すことで、何がルールかを考えると、新しい発見もあると思われる。また、ルールの順序、体系を考えると、そこに考えた人の価値観も表れてくる。こうした価値観を示すことは、一族(ファミリー)の設計にあたっては不可欠だと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年04月28日 | Permalink

本家と分家

1 本家は、一般に、昔から続くものを継承する立場にあると考えられている。
 その結果として、一族の出身地から離れず、旧来の仕事を維持する傾向がある。
 継承する財産があるため、それを担保として利用し、資金調達するには、有利な立場にある。
 しかし、本家は、昔からのものを維持しようという思考が働くため、思い切った転換、投資ができないことは、よくある話である。
 
2 分家は、どこに拠点を置くかは、本来自由である。しかし、不動産を主要な財産ととらえると、不動産の所在地に影響を受ける。場合によっては、本家と分家が隣同士ということもある。
 分家がどのような仕事につくかは自由である。
 日本の高度成長期は、長男は田舎に残り、農業に従事し、二男以下は、分ける土地がなければ都会に出て、サラリーマンとなった。
 時代の変化により、どのような仕事が日当たりがいいかは変遷する。このため一族の本業が悪くなることはよくあることである。
 仕事内容による差も当然にあるが、大きいのは地域差だろう。
 ロスチャイルド家は、フランクフルト、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリに分家している。分家の盛隆は、地域差による影響が大きいと思われる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年04月22日 | Permalink

年をとるにしたがって変わってきたこと

 年をとると共に関与している案件が増えてくるためか、1つの案件に投入できる時間が減ってくる。
 判断のスピードは、経験を積めば速くなるため、投入時間が減ったとしても、仕事に支障になるものではない。
 しかし、ある時、仕事を離れて、じっくり味わいながらやってみたいことに取り組んだ時に、その持続時間が短くなったように思われた。先を見てしまうためか、悩みながらとか、考えながら続けることができなくなっている。息が短くなっていると感じる。
 このことはやむを得ないことなのか、どこか改めるべきことなのか、自分としてはよく分からない。しかし、自分に生じた変化として、注意することにしている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年04月16日 | Permalink

難解な文章

 小林秀雄氏の文章は、学生時代に多少読んだが、理解できなかった。(そういえば、大学受験に向けた現代国語の試験問題でよく出されていた気がする。)
 これと同じような経験は、最近、現代美術に関するいくつかの評論を読んだときにもあった。
 よく理解できないものは、自分の側に問題があるからだという教育を受けてきたように思うため、それなりにがんばってみるのだが、最近はがんばりが効かなくなっている。
 このため、自分に理解できないのは、相手側に問題があると、だんだんに考えるに至っている。自分に残された時間に限りがある以上、やむをえない。
 自分も真理を追究したいのであれば、簡明に(シンプルに)表現したいと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年04月02日 | Permalink

収入を得る道(お金儲け)は、常に考えられなければならない。

親の仕事を継いでいれば良いということはない。自分が選んだ仕事ですら、今のままで良いということはない。常に時代の動きをとらえ、収入を得る道を探さなければならない。

収入を得る道として良いものを見つけたならば、それを徹底して繰り返し、自己のものとするべきである。

投資は、それに投入する時間との兼ね合いで、何をするか決めるべきである。時間が多くかかれば、それは家業になっていく。頭脳のみで完結するならば、それは有利な点だろう。

一族のリーダーは、常に以上のことを考える必要がある。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年03月25日 | Permalink

困った文章

 わかりやすい困った文章は、主語と述語との内容が不明確であったり、どの部分がどの部分を修飾しているか不明確であったりするものだろう。これでは、正確な伝達にならず、法律上は紛争になることもある。
 それでは、わかりにくい困った文章は何か。
 それは、書いている内容について、その全体を示さない文章だと思う。場合分けをしたのであれば、それぞれについてコメントがあるべきだろう。また、その場合分けがどのように区分されているのか示すべきだろう。
 おそらく世の中の多くの文章・書籍は、全体を示さない。自分の言いたいことのみを書くスタイルだ。分量に限りがあるためやむを得ないのだろう。また、書かれていないものに気がつくことが大事だと言われるように、読み手に委ねられたところもある。
 しかし、自分の考えを伝えたいのであれば、全体の構造を示し、全体解を示すことが大事だろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年03月15日 | Permalink