ファミリー集会、ファミリー評議会

 欧米の書籍を見ると、ファミリーの運営にあたり、ビジネスの世界での株主総会、取締役会に相当するものとして、ファミリー集会、ファミリー評議会が紹介されている。
 日本では、ファミリー集会、ファミリー評議会というような名前を使って実施していることは少ないだろうが、それに相当するような会合は開いているのではないだろうか。
 家族の中では気恥ずかしくて、そのような名前を使いにくいのかもしれないが、名前にこだわるかどうかは後から考えても良いが、現在、それに相当するものが開かれているのか全く開かれていないのかは考えてみるべきだろう。
 核家族と言われて久しい現在、意外にファミリー集会、ファミリー評議会に相当するものは開かれていないのかもしれない。もしも自分のまわりがそうであるならば、ねらいをよく考えて試みても良いのではないかと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年06月19日 | Permalink

因果の法則

 レコーディングダイエットを続けている。毎日、起床すると、体重と体脂肪を測定する。食べた時刻、食べた物、そのカロリーを記入し(食品によってカロリーが表示されているし、毎日記録すると大体の食品のカロリーがわかってしまう)、寝る前に総カロリーを計算する。
 特に、ダイエットをしようという心意気はなく、ただ記録しようよいう心意気はある。これが私の性格なのかも。
 記録すると、明確な因果の法則が存在することに気づく。明日の体重を予報できる。カロリーが、体重を支配している(病気であれば別だろうが)。「私は水を飲んでも太る体質なんだ!」と言訳していたけれども、全くのウソである。因果の法則が、この世にはあることを痛感させられる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年06月18日 | Permalink

先祖の苦労を物語るものこそ家宝である。

徳川家康は、武田信玄との三方ヶ原の合戦の中で、命からがら逃げ帰った際の疲労困憊した姿を描いた絵を子孫代代見せたという。
本来ならば、あまり見せたくない姿のように思われるが、全く別の考え方をとっていて興味深い。

我家には、先祖が店先で座っていた、木の折りたたみ椅子がある。
その簡素なつくり、使い込まれた跡は、自分のできる範囲のことをきちんと実行した姿が読み取れる。機を見るに敏であったかどうか、事業を拡大させたかどうかの前に、きちんと守った姿を想像するべきである。

また、我家には、誰が描いたか不詳であるが、竜の絵や家紋を墨で描いた物がある。
器用な手先、熱意を感じることができる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年06月12日 | Permalink

承継は、単に親から受け継ぐことだろうか。

 事業を維持・展開してきた親は、その事業が成功しているほど、その事業が世の中で1番重要なものと見る。そうは見ないよと言う人でも、自分にとって1番重要なものと見るだろう。
 すると、その重要なものを、どのように子に承継させるかという考え方になる。そうなると子の方でも、親の持っている重要なものをいかに引き継いでいくかという考え方になる。
 しかし、私が経験し、観察するかぎり、事業の承継とはそのような単純なものではない。物の所有権(会社の株式)であれば、親から子に単純に移転するだろう。しかし、事業を維持・展開していくためには、親のものを子が承継するという考え方では成功しないだろう。そもそもそのような考え方の子では、事業を維持・展開するだけの力量がないだろう。
 私が観察するに、子は子で自分の事業を創出し、展開していることが不可欠である。同じ会社の中では、法的な意味で、子の独自の事業とは認識されないかもしれないが、子は、自ら、また、自らのスタッフと協力して事業を創出しなければならない。そして、それを成長させる中で、子自身も力量をつけていく。
 そのうちに親に万一のことがあっても、子は親の事業を吸収するように自分のものとする。これが承継のイメージである。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年06月09日 | Permalink

現在を全体的に理解し、将来を考える役割の人

この役割の人が、必須である。
その人は、一族のメンバーのための、ロジスティックス(後方支援)を担うであろう。
お金がないために、是が非でもしなければいけない事柄が、できなくなってはならない。
一族のメンバーには、才能をどこまでも伸ばしてほしい。そのためには、必要なお金を惜しんではならない。
もちろん必要性の検討は、厳格に行う必要がある。
将来的には、一族のメンバーだけでなく、有能な人材にも拡大する必要があるとは、考える。
しかしながら、現時点では、一族のメンバーのためと考えても良いだろう。

以上のようなことを考えると、一族(ファミリー)が、将来、基本的生活ができること、能力発揮のために思い切った支出ができること、のために、ファミリー企業を創ったらどうだろう。
ファミリー企業の管理は、この目的のために行われる必要がある。
その管理は、一族の中で最も能力、品性の優れた者が行う必要がある。
ただし、その管理は、名誉であって、報酬が伴うものではないとしたい。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年06月03日 | Permalink

子は、親に認めてもらいたいという心情が、根底にある。

子が、不安を感じた時、その原因をとことん追究していくと、親に認めてもらえるだろうかという心情に達する。
したがって、子が、「どうしたら良いか分からない。」という悩みを発するとき、「こうしたらよい。」という答えが適切とは限らない。それよりも、親は、子を認めているということが伝われば良いのである。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年05月27日 | Permalink

自分(親)の力量は、どこにあるか。

 この問題は、人それぞれにより異なっており、大事なことは、それを十分に考え、書き出して、活用するということである。
 
その上で、税務が対象とするところと比べ、その差を明確にすることである。
 
また、ファミリーの心情から、何が求められているかについても考えてみると良いと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年05月20日 | Permalink

自分(親)は、誰のために働くか。

 自分とファミリーのため(または、順序を逆にして、ファミリーと自分のため)という人が多いだろう。

1.それでは、自分のために働くというのはどういうことか。衣食住のためにお金を稼ぐ必要があるという人が多いかもしれない。
 しかし、この点については、D.S.ランデス著「強国論」(三笠書房)494頁の指摘以上のものはないと感じている。
 「あまりにも多くの人が、生きるために働き、幸せのために生きている。(中略)働くために生き、その副産物としての幸せを得るべきだ。」

2.次に、ファミリーのために働くというのはどういうことか。単に、ファミリーにお金や物を与えることだろうか。逆に、生き方を教えるというような抽象的なものだろうか。
 このあたりの議論は、哲学的なところもあり、ここでは深入りするつもりない。
 しかし、ファミリーのために働きたいという心情は理解できるところであり、実利的な面に限って考えてみたい。

 自分(親)が働き、所得を得て、税金等を支払い、その残りの中から生活費を負担する。これが一般の(特に給与所得者の)感覚であろう。
 実際に、裁判所も、夫が妻に生活費(婚姻費用)を渡さない場合、子の人数・年齢、夫と妻のそれぞれの収入を基準として、相当な生活費を決めている。
 しかし、資産性所得も考えると、資産が働き、所得を得て、税金等を支払い、残りが出るのである。そこでの自分(親)の役割は、資産が働けるようにマネジメントすることになる。このマネジメントをボランティア精神で行うならば、自分(親)の所得は発生しない。

 このように、働き方を柔軟に考えるならば、実は、法律的にいろいろな形態を設計できる。その工夫をする必要があると考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年05月15日 | Permalink

「堤家の遺訓」…その深淵にあるもの

かつて、テレビ朝日の報道ステーションで、巻物となった「堤家の遺訓」が再現されて、紹介されていた。
そこでは、トップ(家長)は、財産の管理人であると規定されていた。
この考え方は、「総有」という考え方に近いものがある。

ところが、報道ステーションでは、堤義明氏のワンマンぶりから、西武鉄道の株式名義借り事件を、財産への執着として取り上げるのみであった。その捉え方は、「財産の管理人」と規定する「堤家の遺訓」の考え方を、全く理解しないものであった。

「堤家の遺訓」が、単に、堤家の繁栄のためにのみ創られたとするならば、狭いという感もある。
しかし、財産を、社会に役立つよう「管理する」ことを述べたものだとすれば、立派なことである。
結局、財産を何のために作り、維持するかを明確にすることが必要である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年04月28日 | Permalink

財産という観点から見た家族観

高木桂蔵著「客家(ハッカ)の鉄則」(ゴマブックス)の中に、次のような記載がある。

 客家人は自分の財産は子どもに残すのではなく、一族のために残すという考え方をしている。自分の繁栄は一族のためであると考える客家人にとって、その没落もまた一族の凋落であることを意味しているからだ。
 もちろん子どもにも遺産は残すが、客家人のあいだではいまも“公嘗(こうしょう)”と呼ばれる共有財産制度がある。公嘗とは皆で受けるという意味で、一族の子弟の教育や先祖の祭りごとのときに使われることになる。これは“公嘗田”という形を取ることも多く、家族単位で耕す田のほかに、一族全体で田を耕しそこで収穫されるものを共有財産にするというシステムである。
 科挙の制度があったころは、この共有財産は子弟の教育費にあてられることが多かった。財産を残すことより、子どもに教育を受けさせ官吏に登用されることのほうが、はるかに一族の繁栄のためになると考えたのだろう。

このような考え方は、日本にもある。

三井家では、財産は共同所有という「身上(しんしょう)一致」の家法を定めたとされる。

この共同所有のあり方は、民法上の「共有」ではなく、学説で議論されている「総有」や「合有」に近いと思われる。

「総有」とは、数人の1つの物に対する共同所有ではありながら、共同所有者の持分が否定されるか、あるいは不明確なものとして潜在的なものにとどまるとみられ、その結果、共同所有者は、主として物の利用権を有するのみで、持分処分の自由や分割請求の自由は否定されるところの所有形態をいうとされる。
物についての管理権も各共有者が行うのではなく、一部の者に委ねられるのが通常であるとされる。

一族の財産の管理のあり方として、合理的ではないだろうか。

近代になり、民法が「共有」について、持分処分の自由や分割請求の自由を認めたことにより、個人主義が徹底された。このことは、個人の意識を変え、民主主義の考え方の普及となり、社会の活力となったと評価される。
しかし、個人主義・民主主義の理想とする個人のあり方を、全ての個人に期待できない状況も認められる。
ここでは、個人主義・民主主義と、集団主義・独裁主義の間で、綱引きがある。

財産の管理を委ねることができる、有能で、志の高い人をいかに見つけ、団結できるかが重要である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年04月22日 | Permalink