資産管理会社に帰属させる資産

1 収益を生む財産
2 長期でもつ財産

 賃料収入のある不動産は、帰属させるべきである。
 長期保有することにより、値上がりを見込めるものは帰属させて良いだろう。
 家業である事業会社の株式も適当である。
 上場株についても、値上がりを見込むのであれば、資産管理会社が持つことに問題はない。ただし、管理を委ねられた者の負担とならないことは必要だと考える。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年01月29日 | Permalink

資産管理会社の持株比率(マネジメント)

 管理能力のある者が、会社を運営できるだけの持株をもつ必要がある。

1 持株比率が、過半数か3分の2以上かは、兄弟仲なども含め、検討するべきだと考える。管理能力のある者が安定して会社を運営するためには、3分の2以上の持株があった方が良いかもしれないが、兄弟間の平等感も無視しにくいこともある。
 ただし、平等感を優先するあまり、例えば2人兄弟の場合、50%ずつ持株をもつことは避けるべきである。

2 管理能力のある者には、過半数の株をもたせるべきであろう。
 その代わりに、過半数の株をもつ者には、資産管理会社を自己中心に運営してはならないことを、よく理解させる必要がある。

3 3人以上の株主がいる場合、そのうちの何人かが組めば過半数の持株となるように配分することはありうると思う。ただし、組む人間の数は、できるだけ少ないに越したことはない。また、組む人間は、それぞれに道理のわかる者に限定する必要があるだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年01月28日 | Permalink

資産管理会社の基本モデル

1 小さく作り、大きく育てる
 資産管理会社の株式は、子供(後継者)の出資とする。
 収益を生む財産を資産管理会社に取得させる。自分は、資産管理者が安定して収益を得られるように働く。

2 資産管理者の管理者(代表取締役)は、管理能力のある者を就任させる。
 その持株比率は、会社運営ができるだけのものとする。

3 資産管理会社から資金を出す場合のルールを明確化する。
 資産管理会社は、基本的に投資会社であり、収益は全て投資に向ける。ただし、ファミリーのための会社であり、当然、誰かに資金が必要になった場合は、支出することになる。
 その支出は、教育費に限定するとか、ルールの決め方はファミリーの考え方による。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年01月27日 | Permalink

銀婚式

私事で恐縮ですが、実は、銀婚式を迎えました。

銀婚式をどのように祝うのかは、いろいろだと思いますが、私たちは、北海道の銀婚湯という温泉へ行きました。函館から車で1時間半のところにあります。良い温泉でした。
私は、ここ3年くらい、秘湯めぐりにはまっていまして、日本秘湯を守る会の宿を中心に、回っているのですが、その中に銀婚湯があったため、知っていたものです。

銀婚湯と名前をつけたのは、温泉を掘り当てたときが、大正天皇の銀婚の佳き日にあたり、温泉を掘り当てた初代の銀婚式も重ね合わせたところからと聞いています。
発案は、初代の奥さんであり、ここが重要だと感じました。銀婚式の年齢であれば、まだ動けます。日本全国から銀婚式の人たちが訪れます。おかみさんは、頭のいい人だと思いました。

銀婚湯では、銀婚式の前後2か月の宿泊では、祝い膳を出していただけるということであり、そこを狙って行ったのでした。あまり深い目的とか、なかったのです。

祝い膳では、大根をうまく使い、立ち姿の鶴が作られていました。そして、一緒に、「祝銀婚」と筆で書かれた、木でできたプレートが渡されまして、そこに毛筆で、自分たちの書いた言葉(原稿)を、達筆で書いてもらえるということでした。見本も見せていただけたのですが、まさかそのようなセレモニーがあるとは考えていませんでしたので、本当に悩みました。食事が終わる頃には、原稿をお願いしますと言うことでした。

我家では、私の家内の発案で、「原稿は、あなたが書きなさい。」ということになりました。

これは、ある意味、司法試験の2回試験に匹敵する、結婚の中間テスト、と言ったものでした。

皆さん、何を書かれますか?
どちらかが、どちらかに、感謝する言葉を書く、我家で言えば、私が家内に感謝する言葉を書くのではなく、主語は、「私たち」とするべきだろうとか、いろいろ考えました。

実際のところ、私は、「25年間、健康に暮らすことができました。」としか書けませんでした。
そして、「息子2人の成長を楽しみに次の25年間を。」と続けました。これしか思いつきませんでした。
そのときは、何とか原稿を渡せたということで、ほっとし、それ以上何も考えられませんでした。

書いてもらったプレートは、書棚に飾り、今でも、何が良かったのだろうと思い返しています。
しかし、このプレートは、我家の歴史の一部となっています。
皆さんも考えていただければと思い、お話させていただきました。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年01月22日 | Permalink

健気(けなげ)

 いろいろな人の姿を見てきて、こちら側でなんとかしなければいけないと感じさせる訴える力があるのは、健気さではないだろうか。
 「健気」という言葉は、辞書では、「勇ましいさま」という意味もあるようだが、ここでは、かいがいしいさま(甲斐甲斐しいさま)という意味で使っている。  
 「伊藤博文」(伊藤之雄著)の中で、「少年伊藤博文は、困難が起こっても努力すれば必ず何とかなる、という楽天的な人生観(中略)を育成していったと思われる」との記述があった(25頁)。このような楽天的な人生観に基づいた生き方は、健気なのではないかと思う。
 三枝成彰氏は、「ベートーベンの音楽は、健気に生きることを肯定する。」と記述されていた(2009年12月29日の日経新聞)。これも納得できる点だと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年01月08日 | Permalink

企業をどこまで大きくするべきか

 自らが選んだ事業に専念し、成功させ、ある程度の規模になった。すると、自分の年齢と相談し、いつまでこの仕事をやるのだろうかと考える時期がくるだろう。
 飲食店を経営するよりも客として行く方が楽であるように、事業を維持するよりも、どこかの時点で事業は後進に譲って、自らは生活を楽しんだ方が良いという考えも生まれてくる。
 妻や子供からも「これからは生活を楽しみましょう。」と言われることも多くなる。
 「事業を大きくすることは、あなたの野望にすぎないでしょう。」と言われることもある。

 企業をどこまで大きくするべきかについて、私自身、明確な基準はもっていない。
 企業は、どこまで取り組んでも際限のない対象であって、ここまでやれば大丈夫というものはない。したがって、まだまだ足りないと考えるのは、経営者の常だろう。
 また、「あまりにも多くの人が、生きるために働き、幸せのために生きている。それもよかろう。だが、それでは高い生産性は望めない。高い生産性が欲しい?それなら、働くために生き、その副産物としての幸せを得るべきだ。簡単なことではない。働くために生きる人たちは、恵まれた少数のエリートたちだ。だがこうしたエリートは、新入りに寛容で、自ら選んだ道を生き、前向きな考え方を力説するタイプの人間だ。」(「強国」論 D・S・ランデス 三笠書房 494頁)という指摘は、大事だと考えている。
 自分の健康と能力と、よく相談して自分で決めるべきだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年12月15日 | Permalink

癌細胞のように進む

 ここでは、癌細胞に善悪の評価をせず考えることとしたい。
 (人間からすれば、癌細胞は消失させるべきものであろうが、癌細胞からすれば、自分の存続がかかっているに過ぎない。)
 癌細胞は、人間の生命の仕組みに密接に結びついていて、容易に癌細胞のみ攻撃して消失させることはできないようだ。
 企業を癌細胞に例えることは、適当でないかもしれないが、企業が世の中に浸透していく姿は、癌細胞のようにあるべきなのかもしれない。
 どこにでも静かに進められていくこと、場合により体の維持装置の招きによっても進んでいくことなど、考えさせられることは多いと思う。
 企業は、固定的、静的にとらえるのではなく、社会全体への浸透を念頭において、種をまくように色々な局面を想定して流動的、動的にとらえるべきものであろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年12月09日 | Permalink

テキストの多すぎる時代

 一生かかっても読みきれない量の本を買うことは、それほど困難なことではない。本があれば後は何も要らないという人は多くはないかもしれないが、一生を楽しむためのお金は、さほど大きくはないだろう。
 問題は、本の内容量が多いことだろう。本を読み、時間をつぶすことに目的があるならば別だろうが、1冊の本が厚すぎる。必要な所をピックアップして読もうとしても、全体の構造がはっきりつかめず、選別することが困難な本も多い。
 後輩のために文章を残す人は、適切な分量をよく考えて書くべきだろう。エッセンスというものを残すべきだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年11月26日 | Permalink

経済力

 「渋沢栄一 近代の創造」(山本七平著 祥伝社)25頁に、幕末に渋沢栄一が、領主の御用金の上納をめぐり、代官から嘲弄された話がある。
 渋沢家は、「農」であり、「百姓は死なぬよう、生きぬように収納申付ける」対象であった百姓である。しかし、渋沢家は、「天下の豪商」ではなく、また栄一の家は、「村第一の富裕な家」ですらなかったが、藍と養蚕により経営型豪農としての基盤を築いていたのである。

 これに対して、経済的にもうどうにもならなくなったらしい領主が、「その方の身代で500両くらいはなんでもないはずだ。」と、渋沢家(父)の名代(みょうだい)として出向いた渋沢栄一に対して、申入れているのである。

 ありときりぎりすの話に近いところもあるが、現代の官と民との関係に通ずるところもあって、おもしろい。
 士農工商の身分制度の中で、経済力がどのように育つのか、これまでの画一的な認識をいったん解除して考えているのが、山本七平の著書である。
 経済力がついた層が生まれたときに、その層がどのように経済力を使ったのかを、次に考えてみるべきだろう。ここに武士と農民の逆転が生じたといえる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年11月09日 | Permalink

親族の付き合い

 槇原稔さんの日本経済新聞の「私の履歴書」に次の記述があった。

 「当時岩崎一族には私とほぼ同じ年ごろの子供たちが15人前後いた。三菱創業者の岩崎彌太郎から数えて第4世代にあたる兄弟やいとこたちだ。彼らは週末になると湯島の岩崎本邸に集まり、仲良く遊んだ。父の死後、その集まりに私も招かれるようになり、楽しい時間をともにした。」

 岩崎彌太郎から数えて第4世代にあたる兄弟やいとこたちが、週末になると湯島の岩崎本邸に集まり、仲良く遊んだというのは、驚くべきことだと思う。
 当時の日本は、これがよくあったことなのか知らないが、現代の日本で考えると驚異的なことである。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年11月02日 | Permalink