D2(3) オークション

 クリスティーズ、サザビーズは、ネット上に充実したオークション情報を開示している。
 日本のオークションサイトもいくつかあるが、上記2社に比べると情報量は大きく落ちる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

D2(2) コレクター

 コレクターは、それをすることが楽しくてしているのだから、他人がコレクションの内容をあれこれ言っても、意味がないと思う。
 作品を見るとき、大きく言えば、次のやり方にまとめうるだろう。
(1)自分の感性で見て評価する。
(2)何らかの客観的価値(それが主観的なものであることもありうるが)を基準として見て、評価する。
(3)市場性のみを基準として見て、評価する。
 しかし、コレクターは、誰でも、基本として(1)によっていると言うだろう。その上で、自分の考える何らかの客観的価値についてコメントするのではないか((2)の道)。
 また、コレクターが作品を購入した時期とそのときの作家の評価状況を合わせ考えると、将来を含めた市場性も考えていることが推察されることだろう。
 したがって、上記の(1)ないし(3)は、重なりあっているといえるだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

D2(1) 芸術作品の値段は何か。

(1) 芸術作品を購入するということは、その作家の世界に入るためのチケットを入手するということである。
 芸術作品を身近に置くことにより、その作家の考えるところを日常的に考えてみることが可能になる。その作品をきっかけとして、その作家を調べることも始まり、作家をより深く理解することに繋がるだろう。
 逆に、購入することができなくとも、美術展などで見ることができれば、それだけでもその作家の世界に踏み込むことは可能であるから、それで十分だと考える人もいるだろう。それが可能であるならば購入する必要はないだろう。
(2) 芸術作品を購入することは、その作家をサポートすることに繋がる。その作家の更なる研鑽を可能とする面がある。
 芸術作品は、記録であると思う。
 現代美術になるほど、その作品のみで全てを評価することは困難である。作者がどのような考えであるか、どのような履歴であるかなどを知らないと理解できないのではないかと思われる。したがって、作品と作者の結びつきは強くなっていると考えられる。
 デイト・ペインティングなどはその例である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

D1(4) 安定した収入

 安定した収入は、その人の成長にとって是か非か。
 安定した収入をもたらすものこそ美田だと思われる。「子孫のために美田を買わず」という言葉があるように安定した収入は子孫にとって為にならないとも考えられる。
 しかし、安定した収入がないことによる悲劇は、よく見ることでもある。また、安定した収入により、生活が安定することにより、そこから新しいものが生まれることも実感として知るところである。
 この問題は、観念的に結論を出すのではなく、実例の中で具体的に検討されるべきだろうと思う。
 歴史に名前を残した人は、基本的に裕福なファミリーから生まれていることは否定できない。
 食べることだけで精一杯の人生からは、歴史的な成果が出ることは、きわめて困難である。歴史的な成果は、ファミリーの蓄積の上に咲いた花である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

D1(3) アーティストが何らかの賞を目指すことをどう見るか。

 何らかの賞を獲得することは、アーティストにとって箔付けとなるだろう。その結果として、大学での教職の道が開けることはあると思われる。こうなることにより経済的に安定し、画業に専念できるならば、賞に意味があったといえるだろう。
 賞を目指すのではなく、本来自分の考える作品を目指すべきであるという意見もあるだろう。この場合、自分の考える作品を目指すことができる基盤は必要だろう。このような基盤がないのに、自分の考える作品を目指せば良いと考えるのは、ロジスティックス(兵站)を無視して戦争するのに等しいだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

D1(2) 売るための絵(売り絵)は良くないと言うが。

 「売り絵」の定義の問題があるだろうが、作家が売れるために良かれと思って制作したかどうかの問題よりも、結果として売れたかどうかの問題が大きいと思う。
 世間に評価されるかどうかではなく、作家の信念に基づき制作すべきであるという考え方もあるだろうが、このようなプロセスの問題よりも、結果が重視されるのが市場経済だろうと思う。
 生前は評価されず、作品が売れなくとも、死後、脚光を浴びるということはあるだろうし、作品が売れなくとも生活に支障がないならば、生き方の問題として、自分の道を進めば良いと思う。
 しかし、この情報過多の時代に、生前に評価されない場合、死後も同じだと考えざるをえないし、作家も経済社会の一員ならば、自分の考える道だけ進めば良いとはいえないだろう。
 したがって、作家は、売れるためにあらゆることをするべきだろうし、作品を見て、購入を考える人は、作家があらゆることをしていることを前提として選ぶべきだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

D1(1) 金儲け

 得られたお金は、社会へ提供したもの、サービスに対する評価であると考えれば、大いに金儲けをするべきである。金儲けを蔑んではならない。
 しかし、全てが金銭評価できるものではないから、お金(経済)以外の価値を否定してはならない。その価値は知恵であり、さらに別のものもあるだろう。このような価値がどのように並ぶのか具体的にはわからない。
 お金(経済)の価値が示すものは、生きるための原初的な部分であるとすれば、それ以外の価値は、原初的部分の上に築かれる次のステージだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C3(4) 本音と建前

 裸婦画は、神話を借りた男の楽しみ(欲求)であった。
 人間は、昔からさほど変わっていない。変わってきているのは、説明の仕方である。
 説明の仕方は、そのときの社会の規範による。
 社会の規範は、大陸が移動するように変わりうる。
 裸婦画の所持(本音)が許されるのも、説明の仕方(建前)の問題だろう。
 説明の仕方の問題で、アートを論ずるのは、滑稽になるだろう。
 抽象表現主義がコンセプチュアル・アートまで行き着くと、説明の仕方の議論となり、人の心から離れてしまうだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C3(3) 美術書の記述は、むつかしすぎると思う?

 私は、そう思う。多くの人もそうだと思う。
 このため、美術は好き嫌いで見れば良いとか、わからなくとも良いとかの意見も出てくる。逆に、美術がわからない人は、放っておけば良いのだという意見もあるだろう。
 美術という、文字の世界とは別の世界は、そもそも文字では表現しにくいと思われる。したがって、誰でもただちに理解できるような文章は、むつかしいと思う。しかし、私には、美術書の記述はむつかしすぎると思われるし、読み終わっても残らない。どうやってもむつかしくしか記述できない世界があることを否定しないが、「なんとかならないか」といつも思っている。
 美術に関する記述を読んで、何か残るくらいのものとして、なんとか記述したい。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C3(2) 絵画を見るときの場合分け

 画面にある具象が描かれていると、それを見た人は、自分の経験の中で認識しているものとしてとらえる。この結果、その具象が自分の認識するものと同じか異なるかなど、比較が進み、見た人は、それなりに考察したという気持ちになるだろう。
 次に、画面にある抽象が描かれていると、それを見た人は、それが何なのかと検討するだろう。その検討の中で、その抽象について自分なりのとらえ方をまとめるだろうが、結論の出ない場合もあり、途中でやめになってしまうこともあるだろう。
 以上は、見る人の立場から、一応の場合分けをしたものであるが、作家の立場からも加えると、別の場合が出てくる。
 画面にある具象として描いたが、その具象を描くことが目的ではなく、別の事柄を表現しようとすることがある。この場合、見る人がそれに気がつかないと、双方はすれ違ったままとなるだろう。もちろん、その場ですぐに双方が理解し合える必要はないから、今後、どのように進展するかは、決まりはない。
 画面にある抽象を描いたが、それは作家の表現したいものを絵画として見えるものとしたということがある。この場合、見る人は、作家の意図を考えながら、作家の表現したいものを考察するだろう。双方は、すれ違っていることもあるだろうが、何らかのコミュニケーションがあったといえるだろう。作家のねらいは、そのことにより、ある程度達せられているといえるだろう。
 細かく場合分けをすれば、もっといろいろあるだろうが、絵画を見るときに起こるのは、以上のどれかだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink