D2(1) 芸術作品の値段は何か。

(1) 芸術作品を購入するということは、その作家の世界に入るためのチケットを入手するということである。
 芸術作品を身近に置くことにより、その作家の考えるところを日常的に考えてみることが可能になる。その作品をきっかけとして、その作家を調べることも始まり、作家をより深く理解することに繋がるだろう。
 逆に、購入することができなくとも、美術展などで見ることができれば、それだけでもその作家の世界に踏み込むことは可能であるから、それで十分だと考える人もいるだろう。それが可能であるならば購入する必要はないだろう。
(2) 芸術作品を購入することは、その作家をサポートすることに繋がる。その作家の更なる研鑽を可能とする面がある。
 芸術作品は、記録であると思う。
 現代美術になるほど、その作品のみで全てを評価することは困難である。作者がどのような考えであるか、どのような履歴であるかなどを知らないと理解できないのではないかと思われる。したがって、作品と作者の結びつきは強くなっていると考えられる。
 デイト・ペインティングなどはその例である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

D1(4) 安定した収入

 安定した収入は、その人の成長にとって是か非か。
 安定した収入をもたらすものこそ美田だと思われる。「子孫のために美田を買わず」という言葉があるように安定した収入は子孫にとって為にならないとも考えられる。
 しかし、安定した収入がないことによる悲劇は、よく見ることでもある。また、安定した収入により、生活が安定することにより、そこから新しいものが生まれることも実感として知るところである。
 この問題は、観念的に結論を出すのではなく、実例の中で具体的に検討されるべきだろうと思う。
 歴史に名前を残した人は、基本的に裕福なファミリーから生まれていることは否定できない。
 食べることだけで精一杯の人生からは、歴史的な成果が出ることは、きわめて困難である。歴史的な成果は、ファミリーの蓄積の上に咲いた花である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

D1(3) アーティストが何らかの賞を目指すことをどう見るか。

 何らかの賞を獲得することは、アーティストにとって箔付けとなるだろう。その結果として、大学での教職の道が開けることはあると思われる。こうなることにより経済的に安定し、画業に専念できるならば、賞に意味があったといえるだろう。
 賞を目指すのではなく、本来自分の考える作品を目指すべきであるという意見もあるだろう。この場合、自分の考える作品を目指すことができる基盤は必要だろう。このような基盤がないのに、自分の考える作品を目指せば良いと考えるのは、ロジスティックス(兵站)を無視して戦争するのに等しいだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

D1(2) 売るための絵(売り絵)は良くないと言うが。

 「売り絵」の定義の問題があるだろうが、作家が売れるために良かれと思って制作したかどうかの問題よりも、結果として売れたかどうかの問題が大きいと思う。
 世間に評価されるかどうかではなく、作家の信念に基づき制作すべきであるという考え方もあるだろうが、このようなプロセスの問題よりも、結果が重視されるのが市場経済だろうと思う。
 生前は評価されず、作品が売れなくとも、死後、脚光を浴びるということはあるだろうし、作品が売れなくとも生活に支障がないならば、生き方の問題として、自分の道を進めば良いと思う。
 しかし、この情報過多の時代に、生前に評価されない場合、死後も同じだと考えざるをえないし、作家も経済社会の一員ならば、自分の考える道だけ進めば良いとはいえないだろう。
 したがって、作家は、売れるためにあらゆることをするべきだろうし、作品を見て、購入を考える人は、作家があらゆることをしていることを前提として選ぶべきだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

D1(1) 金儲け

 得られたお金は、社会へ提供したもの、サービスに対する評価であると考えれば、大いに金儲けをするべきである。金儲けを蔑んではならない。
 しかし、全てが金銭評価できるものではないから、お金(経済)以外の価値を否定してはならない。その価値は知恵であり、さらに別のものもあるだろう。このような価値がどのように並ぶのか具体的にはわからない。
 お金(経済)の価値が示すものは、生きるための原初的な部分であるとすれば、それ以外の価値は、原初的部分の上に築かれる次のステージだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C3(4) 本音と建前

 裸婦画は、神話を借りた男の楽しみ(欲求)であった。
 人間は、昔からさほど変わっていない。変わってきているのは、説明の仕方である。
 説明の仕方は、そのときの社会の規範による。
 社会の規範は、大陸が移動するように変わりうる。
 裸婦画の所持(本音)が許されるのも、説明の仕方(建前)の問題だろう。
 説明の仕方の問題で、アートを論ずるのは、滑稽になるだろう。
 抽象表現主義がコンセプチュアル・アートまで行き着くと、説明の仕方の議論となり、人の心から離れてしまうだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C3(3) 美術書の記述は、むつかしすぎると思う?

 私は、そう思う。多くの人もそうだと思う。
 このため、美術は好き嫌いで見れば良いとか、わからなくとも良いとかの意見も出てくる。逆に、美術がわからない人は、放っておけば良いのだという意見もあるだろう。
 美術という、文字の世界とは別の世界は、そもそも文字では表現しにくいと思われる。したがって、誰でもただちに理解できるような文章は、むつかしいと思う。しかし、私には、美術書の記述はむつかしすぎると思われるし、読み終わっても残らない。どうやってもむつかしくしか記述できない世界があることを否定しないが、「なんとかならないか」といつも思っている。
 美術に関する記述を読んで、何か残るくらいのものとして、なんとか記述したい。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C3(2) 絵画を見るときの場合分け

 画面にある具象が描かれていると、それを見た人は、自分の経験の中で認識しているものとしてとらえる。この結果、その具象が自分の認識するものと同じか異なるかなど、比較が進み、見た人は、それなりに考察したという気持ちになるだろう。
 次に、画面にある抽象が描かれていると、それを見た人は、それが何なのかと検討するだろう。その検討の中で、その抽象について自分なりのとらえ方をまとめるだろうが、結論の出ない場合もあり、途中でやめになってしまうこともあるだろう。
 以上は、見る人の立場から、一応の場合分けをしたものであるが、作家の立場からも加えると、別の場合が出てくる。
 画面にある具象として描いたが、その具象を描くことが目的ではなく、別の事柄を表現しようとすることがある。この場合、見る人がそれに気がつかないと、双方はすれ違ったままとなるだろう。もちろん、その場ですぐに双方が理解し合える必要はないから、今後、どのように進展するかは、決まりはない。
 画面にある抽象を描いたが、それは作家の表現したいものを絵画として見えるものとしたということがある。この場合、見る人は、作家の意図を考えながら、作家の表現したいものを考察するだろう。双方は、すれ違っていることもあるだろうが、何らかのコミュニケーションがあったといえるだろう。作家のねらいは、そのことにより、ある程度達せられているといえるだろう。
 細かく場合分けをすれば、もっといろいろあるだろうが、絵画を見るときに起こるのは、以上のどれかだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C3(1) 現代美術は、ある言語で展開されている世界のようだ。

 現代美術は、現在生きている芸術家が中心となって展開されている世界であり、その評価がある程度確定してる古典(現代美術の前くらいの意味)と異なり、評価は様々である。
 このため、登場してくる現代美術の作家の数は非常に多く、その考え方、評価も多様となっている。これに対して、古典の世界は、もっと多くの作家が存在していたことはまちがいないが、大部分は忘れさられて、紹介されることも少ないため、名前の通った作家の世界となっている。
 したがって、現代美術の世界を見て歩こうとすると、その歴史だけでも、様々なアート・○○イズム(考え方)が展開され、ある言語(英語圏とか日本語圏とか)の世界に放り込まれたような印象を受ける。
 現代美術の作品も、作品をそのまま楽しめば良いという考え方もあるのだろうが、現代美術の作品が理解しにくいと感じるのは、それがある言語の世界だからではないかと思われる。
 このように考えると、現代美術を理解し、楽しむためには、語学の習得に近いところがあると思う。言葉を覚え、ボキャブラリーを増やし、ある程度の文法に基づいて組み立て、実際に声に出して使い、文章を書き、相手方の様子を見る、コミュニケーションを行う、というような手順を踏むことになるだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C2(14) クラシック音楽

 「クラシックの名曲・名盤」(宇野功芳著)の中で、交響曲ベスト・ナインが紹介されている(77頁)。
1 モーツァルト「ジュピター」
2 モーツァルト「第40番」
3 ベートーヴェン「エロイカ」
4 ベートーヴェン「第9」
5 ブルックナー「第8」
6 ブルックナー「第9」
7 マーラー「大地の歌」
8 ベートーヴェン「田園」
9 モーツァルト「プラハ」
 野球の打順にならっているので、野球チームの打順についての理解がないと十分な理解はできないかもしれないが、ある程度、「なるほどね!」と思う。(私は、小学生時代はプロ野球が好きであったので、その頃の理解である程度のイメージをもつことができるが、現在は、サッカーの方がおもしろいと思っているので、物事を例えるときはサッカーを用いている。しかし、順に1つずつ並べようとするときは、野球でないと説明がむつかしい。)
 それでは、アートについても、ベスト・ナインを組むとすればどうなるか。人それぞれにベスト・ナインを組むことはできるとは思うが、クラシック音楽のように、ある程度「なるほどね!」とはいかない。
 これは、クラシック音楽が、時間の経過の中で順に演奏されるものであるため、多くの人にとっても共通したイメージができ上がるのに対し、アートは、一瞬で見ることができる反面、能動性を求められるため、共通したイメージができにくいからだと思われる。
 このような制約はあるものの、アートについてもベスト・ナインを構成してみるのも、1つの試みとしておもしろいと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink