他人の評価から離れる。

SNSで出てくる「いいね!」の数、友達数、フォロワー数、アクセス数などの評価を重視する考え方がある。
 こうした数字を利用して、新しい評価基準を打ち出すアプリを作る人もいるくらいだ。

これに対して、「老後は銀座で」山崎武也著(154頁)に書かれている、「高級かつ高額なために話題になっているところには、安易に行かないことだ。(中略)評判を聞いてから、多分何度も行くことになるだろうと推測できて初めて、足を運んでみる」という考え方がある。

行過ぎた評価に対して、自分はどのように対応するかは、いつも難しい。
 投資であれば、他人の評価が高いため、評価額が際限なく上昇していることは、いくらでもある。
 それに乗った方が儲けやすいのは事実だ。しかし、いつそれから降りるかも同時に問題となる。

 美術品の高額な落札価格が話題になる。
  自分は、とてもそのような値段で買えないので、関係のないことであるが、そのような価値があると考えた人は、そうすればいいことだ。

他人の評価から一切離れることも考えるべきだろう。
 自分が好きなものを選んで生きていく道は、落ち着けると思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年02月14日 | Permalink

もっと日本を知る必要があると考えている。

「狭い日本、そんなに急いで どこへ行く」という標語があったが、日本は、陸地だけに限定しても、狭いものではない。自分が行ったことがない所は、いくらでもある。

まして、深く理解したかといえば、とてもそうとは言えない。

自分の関心を振り返ってみると、温泉、巡礼、美術、陶磁器だ。
これを立体的に組み上げていくと、自分なりの日本の理解が深まると思う。
 関心が広がるに連れて、立体化する。

巡礼は、信仰の対象であるが、同時に、その時代の文化・技術の中心であったと思う。
しかし、現在の寺は、ご利益(ごりやく)という曖昧な目的は残されているが、時代の文化・技術の中心ではない。
 この点で、巡礼の意味を明確にとらえることは難しくなっている。歴史の視点で見るということだろうか。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年01月12日 | Permalink

社会は、道路を走る車の流れで説明できる。

複数車線を、多くの車が走るとき、次のような車が出てくる。
 前の車との車間距離を不相応に広くあける車
 車線を無理に変更して、事故を起こしたり、起こしそうになったりする車

前の車との車間距離を不相応に広くあける車は、ゆっくり自分のペースで走りたいのだろう。「狭い日本 そんなに急いで どこへ行く」という標語が採用されるくらいに、日本は、スピード制限には前のめりだが、効率には無頓着な社会だと思う。
しかし、すべての車が車間距離を1キロメートルあけたとしたら、どうなるかを考えてみれば、明らかだ。後ほど渋滞する。恐ろしく非効率な、道路を浪費する社会となるだろう。

社会福祉でも、同じように実感することができる。社会福祉の必要性は認めるが、効率的な運用をしなければ、財政は破綻することは明らかだ。年配者だけが、自由気ままな福祉を享受すれば、若輩者は、支えきれないだろう。

したがって、社会は、効率のために、一丸となって進む必要がある。道路に例えれば、車間距離は、事故防止のために必要な距離をあけるものの、それ以上あけてはならず、アリの隊列のように進む必要がる。

車線を無理に変更して、事故を起こしたり、起こしそうになったりする車は、非効率を何とかしたいと考えるから出てくる。隊列のように進むならば、車線を変更する必要性は、出入り口近辺くらいしかなく、それ以外は、禁止してもいいくらいだろう。事故も減るだろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年12月12日 | Permalink

東京と名古屋が、リニアで40分で結びつくとき、何が起こるか?

単純に考えれば、東京と名古屋が1つの街になるということ。
 地域差を考えると、仕事は東京で行い、休みは名古屋ないしその近郊に住むという形をとりやすくなる。

 人に、直接・現実に会うことが容易になる。

 人だけでなく、個性的な物・イベントを見に行くことも容易になる。

東京と名古屋のそれぞれが、そのハブとしての機能が問われることになる。
 東京と名古屋のそれぞれから出かけられる場所として、どこが魅力的かが問われることになる。

 東京からの東北・上信越への新幹線は、名古屋にとって魅力だと思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年10月11日 | Permalink

映画「雨あがる」

腕の良い刀の使い手で、気が優しい男が、任官しても続かず、浪人のまま諸国を放浪していく。
その妻は、そのような夫の世話をし、その姿は、日本女性の理想だ。

男は、気は優しくて力持ちだ。しかし、気の優しさが、相手(殿様)の側では、哀れみをかけられていると感じさせ、逆に気分を害することとなる。

こうしたことが起きうることは、自覚するべきだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年09月11日 | Permalink

デフレ期?インフレ期?

インフレが予想されるとき、不動産と株にシフトするべきとされる。
 株は、生活に不可欠なものを提供する会社の株。

この考え方は、マネーの膨張に対して、生活に根ざした現物による資産構成を勧めるものだ。

経済学では、インフレ、デフレという言葉が歴史のあるものであり、その言葉を使うことが普通なのかもしれないが、貨幣価値で比較するのではなく、その人の価値で比較するべきだろうと思う。
 こうなると客観性が失われると批判されるだろう。
 社会政策として全体を把握する必要がある人は、客観性が必要だとは思うが、正確に把握しようとして、かえって間違えることが多いのではないかと思う。

世はデフレの時代と言われて久しいが、その時期でもマネーの膨張はあったと考えている。
 経営者(特に外国人)の報酬が、膨れ上がっている。
 それは、マネーの膨張による価値の低下を補おうとするかのごとくだった。
 それは、インフレ期と言ってよいのではないか。

それでは、どうするか?
先ず、自分の生活に必要なもので財産を構成する考え方が必要だ。
 不必要に高価なものは、はずす。

次に、それ以上のものの扱いを決める。
 ここから考え方が分かれる。
  不要として、所持しない。

  収益を生むものだけに限定する。

  自分の好みを貫く。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年09月01日 | Permalink

バブル・マネーゲーム

株式取引を見ていると、バブルとはこういうことだ、と感じざるを得ないことがある。
これは株式に限ったことではなく、あらゆるものに現われる。
 美術品、外国会社の取締役報酬など。

ある新しい会社が、同じ業界の大手会社の時価を超えたということも同じだと考える。
新しい会社の技術・手法に一部優れたところがあったとしても、それをあたかも会社全体のこととして評価することに強い違和感がある。
 マネーゲームの世界ととらえるしかない。

マネーゲームから逃れるためには、ある事象が、自分の現実の生活とどのように関連するのかを考えることだと思う。関連のあるものを思考の対象にし、関連の度合いより経済評価する。
こうすることで、バブル部分を確認することができる。バブルはバブルとして扱い、それに巻き込まれないことだ。

「老後は銀座で」山崎武也著(154頁)で、「高級かつ高額なために話題になっているところには、安易に行かないことだ。(中略)評判を聞いてから、多分何度も行くことになるだろうと推測できて初めて、足を運んでみる」という考え方は、参考になる。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年07月25日 | Permalink

攻めているのか、我慢しているのか。

いつも先手を取って進める気持ちでやってきた。攻める気持ち。守りも重要だが、自分には守ることを考えるだけの基盤はないと思っていた。

いつの頃からか、攻めても動けないときがきた。我慢のとき。攻めるのに良い時期なのか、その判断を求められる。時期尚早ならば、我慢して待つしかない。
もちろん、ただ待っているのではない。調査・研究しながら待つ。判断のためには、常に調査・研究が必要だ。

リスクも当然にとる。リスクをとるかどうかの判断のためにも、常に調査・研究が必要だ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年07月19日 | Permalink

何度も読み返す本があるか。

三谷太一郎さんの「日本の近代化とは何であったか」 274ページに、「(以前購入した本について)以来、再三にわたって熟読し、傍線やコメントを書き込んだ書物ですが、漱石に刺激され、改めて読み直しました。」とあった。

本を多く読む人は、得てして本を1回しか読まないことが多いのではないか。これに対して、本を実行のためのきっかけにする人は、本を何度も読み返すと思われる。

読み返し方は、最初から最後まで通読すると言うやり方ではなく、必要なところを 目次などから探して読むこともできる。

私自身を振り返ってみると、本は一度読んだらそのまま書棚に置いておくことが多い。これは別の新しい本を読みたいという気持ちがそうさせているところもあるが、何度も読み返すことも考えたい。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年05月29日 | Permalink

情報の海をどのように泳ぐか?

現在の状況は、文書の量が極めて大きくなっている。また発信する文書も増えている。音声入力が進めば、文書の量はさらに拡大するだろう。

自分にとって何が必要かの観点が必要である。
Google検索できっかけをつかみ、ある程度の知識を得られれば、それで良いと考えるならば、さほど問題にはならないかもしれない。

しかし、世の中の本は、行動のためのきっかけとなることが重要だと考えるならば、情報の海をどのように泳ぐかが問題になる。社会にとっては、文書の要約が必要となるだろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年05月24日 | Permalink