18 ウィーン分離派

(1)グスタフ・クリムト(1862ー1918)は、貧しい家庭の7人兄弟の長男に生まれ、若くして美術工芸の仕事を始め、家庭を支えた。10代で弟や友人と建物装飾の会社「芸術家カンパニー」を設立し、当時活躍していた画家たちと同じような絵をブルク劇場の天井や美術史美術館の壁に描いて、成功をおさめ、貧しさから抜けることができた。

(2)エゴン・シーレ(1890ー1918)は、鉄道駅長の息子として生まれた。父は、梅毒で精神異常をおこし、シーレが15歳のころに死んだ。


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17 ナビ派

(1)ピエール・ボナール(1867ー1947)は、20歳のころ、画塾アカデミー・ジュリアンで好きな絵を描きながら、大学では法律を学んでいた。学業優秀なボナールは、卒業後登記所で働き出すが、絵を志す仲間たちと語り合う楽しみは何ものにもかえがたく、24歳のとき、登記所を辞め、父の許しを得て、絵を仕事とした。

(2)エドワルド・ムンク(1863ー1944)は、5歳のときに母が結核のため33歳で死ぬと、献身的な医者でありながら神経症の気味があった父が暴力をふるうようになった。家族の世話をしてくれていた叔母のカーレンが、ムンクに絵の楽しさを教え、16歳のとき、父の反対を押し切って画家になる決意をした。

(3)ジェームズ・アンソール(1860ー1949)は、父がイギリス人で、観光客向けの土産物店を経営し、母がフランドル地方の旧家の生まれだった。ベルギーのオースランデは、イギリスへの海の玄関口であり、海水浴客が集まるベルギー有数の保養地であり、カーニバルでも知られる。

(4)トゥールーズ=ロートレック(1864ー1901)は、家は古くは十字軍にまでさかのぼる系図をもち、父は伯爵の称号を継いでいた。父と母は従兄妹同士で、上流社会にありがちな近親婚だった。ロートレックは、遺伝性の骨の病をもって生まれた。


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16 後期印象主義

(1)ポール・セザンヌ(1839ー1906)は、1869年、モデルだったオルタンス・フィリと知り合い、同棲したが、父からの送金が停止されることを恐れ、父には10年以上も秘密にした。

(2)ポール・ゴーガン(1848ー1903)は、パリに生まれたが、1歳のときに一家でペルーに移住する。ゴーガンの母方の家系はペルーの王族の血をひく大金持ちだった。

(3)ゴッホ(1853ー1890)
牧師の二男として生まれた。


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15 象徴主義

(1)ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828ー1882)は、父ガブリエーレがイタリアからの政治亡命者で、詩人で、ダンテ研究家だった。

(2)ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829ー1896)は、裕福な家庭に生まれ、美少年だった。幼いころから天賦の画才を示し、両親は息子の才能をのばすため、ロンドンに転居した。ミレイは、11歳で、ロイヤル・アカデミー始まって以来、最年少の学生となった。

(3)オディロン・ルドン(1860ー1916)は、生後2日目で里子に出され、家族や兄弟と離れて暮らすペイルルバードでの生活は孤独だった。ボルドーの学校での授業、親の勧めで始めた建築の勉学は、ルドンの心をつかむことはなく、ひとの石版画を写すことに夢中になった。

(4)ギュスターヴ・モロー(1826ー1898)は、父が建築家、母が音楽家で、経済的にも裕福だった。両親は、はやくから芸術を志した息子の将来に期待し、惜しみない愛情を注いだ。

(5)オーブリー・ビアズリー(1872ー1898)は、父が、体が弱く定職をもたず、母が気丈で美しくフランス語とピアノが堪能であった。母は、裕福な家庭で育ち、身分違いの結婚のためにこうむった経済的困窮の乗り切ろうと、家庭教師やピアノのレッスンで生計を立てていた。


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14 印象主義

(1)エドゥアール・マネ(1832ー1883)は、富裕なブルジョア階級の家庭の長男として生まれた。父オーギュストは、法律家を輩出した200年来の旧家の出で、司法省の高級官僚であり、マネが画家になりたいと言い出したとき、猛反対した。しかし、息子が法律家になることはなさそうだとあきらめ、海軍士官への道を勧めた。ところが、マネは、入学試験に失敗し、再試験に必要だった練習乗船勤務のためブラジルへの半年間の船旅を経験するうちに、かえって画家になる決心を固めてしまった。
マネは、1848年、ついに父を説得し、当時人気絶頂の画家、トマ・クチュールのアトリエに入学した。
マネの母ウジェニーは、ストックホルム駐在の外交官の娘であり、マネの精神的、経済的な支えだった。

(2)イレール・ジェルマン・エドガー・ドガ(1834ー1917)は、裕福な銀行家の長男として生まれ、父が芸術を愛する趣味人だった影響を受けてか、名門リセを出るときには、すでに画家を志していた。

(3)ジェームズ・アボット・マクエール・ホイッスラー(1834ー1903)は、アメリカに生まれたが、父の仕事の都合で、9歳のとき、ロシアのサンクト・ペテルブルクに移住し、そこからイギリスに留学した。幼いときからデッサンに優れ、はやくから画家を志した。14歳のとき父が急死し、一家はアメリカに帰った。

(4)モネ(1840ー1926)
特になし

(5)ルノワール(1841ー1919)
特になし


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13 写実主義

(1)カミーユ・コロー(1796ー1875)は、帽子店を経営する親の計らいで織物商に見習いに出たが、商売には興味がもてず、風景画家を志していた。コローが織物商で働きだして8年目の1822年、ついに両親もあきらめたのか、前年に亡くなった末娘に用意した年金1500フランをコローにまわし、好きにさせることにした。コロー26歳、遅まきながら生活費の心配なしという、幸福な画家としての出発だった。

(2)オノレ・ドーミエ(1808ー1879)は、12歳のときから働かなければならなかった。

(3)ジャン・フランソワ・ミレー(1814ー1875)は、ノルマンディー地方のイギリス海峡に面した辺境の農家に生まれたが、家には本があふれ、ミレーも12歳からラテン語を学び、聖書やローマの田園話を愛読し、大好きな写生に没頭した。父は、跡継ぎ息子にもかかわらず、絵の修行に送り出した。

(4)ギュスターヴ・クールベ(1819ー1877)は、スイス国境近くのフランスの田舎町、オルナンとその近郊に広大な農園をもつ地主の息子として生まれた。近隣の高等学校を卒業すると、父の希望で法律を学ぶためパリに出た。この時代のフランスで富と名声を得る一番の近道を、父は息子に歩ませたかった。


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12 ロマン主義

(1)カスパー・ダーヴィット・フリードリヒ(1774ー1840)は、父が石鹸とろうそく製造職であり、10人兄弟の6番目に生まれた。

(2)ジョーゼフ・マラード・ウィリアム・ターナー(1775ー1851)は、父がロンドンの下町コヴェント・ガーデンで理髪店を営んでいたが、母がターナーが10歳ころから精神に異常をきたし、ついには精神病院で亡くなるという不幸に見舞われた。このためターナーは母のことをだれにも話さず、私生活全般について極端な秘密主義となった。しかし、20歳には絵でかなり稼いでいたし、24歳でイギリス美術界の中心的組織ロイヤル・アカデミーの準会員にも選任され、さらに26歳で正会員になるという異例の出世をした。

(3)ジョン・コンスタブル(1776ー1837)は、父が裕福な製粉業者であり、息子があとを継ぐことを願ったが、コンスタブルが23歳のとき、ささやかな年金を与えてロンドンに送り出した。両親は、画家になるなら需要の多い肖像画家をめざすよう現実的な忠告をしたが、コンスタブルは聞き入れなかった。

(4)テオドール・ジェリコー(1791ー1824)は、父が法律家であり、新興階層の裕福な家柄に生まれた。

(5)ウジェーヌ・ドラクロワ(1798ー1863)は、父が外務大臣や県知事を務めた政治家であり、振興階層の裕福な家柄に生まれた。


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11 新古典主義

(1)フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンラス(1746ー1828)は、父がメッキ職人、母が下級貴族の娘であった。
サン・フェルナンド王立美術アカデミーの奨学生コンクールに挑戦して、2度失敗し、当時の画家の登竜門であった、コンクールに合格し、ローマ留学することには至らなかったが、どう金銭を工面したのか、24歳のとき、イタリア遊学を果たす。27歳のときには、宮廷画家となっていたバイエウの妹ホセファと結婚し、マドリードの義兄の家に同居する。

(2)ジャック・ルイ・ダヴィッド(1748ー1825)は、子供時代から画家をめざし、5度目の挑戦でローマ賞を獲得し、イタリア留学を果たした。

(3)ウィリアム・ブレイク(1757ー1827)は、靴下職人の家庭に生まれた。

(4)ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル(1780ー1867)は、父が地方芸術家であり、幼いころからルネサンスやロココの巨匠の複製画を見せられ、デッサンの手ほどきを受けた。また、父からはヴァイオリンを教えられ、10代のころは画業のかたわらオーケストラで小遣い稼ぎをしていたほどの腕前であった。


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10 ロココ

(1)アントワース・ヴァトー(1684ー1721)は、屋根職人の息子として生まれた。

(2)ジャン・オノレ・フラゴナール(1732ー1806)は、香水を染み込ませた皮手袋  
の製造を営む一族の息子であったが、6歳のとき、父の事業の失敗から一家はパリに上京した。約10年後、母は、勤め先で落書きばかりしているという息子を連れ、画家プーシェの門をたたいた。


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9 バロック

(1)カラヴァッジョ(1571ー1610)は、父がカラヴァッジョ侯爵に使える従者集団の頭領のような存在だったらしい。

(2)ペーター・パウル・ルーベンス(1577ー1640)は、父が現在のベルギーの商業都市アントウェルペンの司法行政官であったが、宗教上の理由から祖国を離れドイツのジーゲンにいた。

(3)ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593ー1652)は、パン屋の家に生まれ、町の名士に属する家柄であったらしく、24歳のとき、新興貴族階級のディアンヌール・ネルフと結婚した。

(4)ディエゴ・ベラエケス(1599ー1660)は、11歳でフランシスコ・パチェーコに弟子入りした。パチェーコは画家としては凡庸だが、古典の素養のある知識人だった。パチェーコは、この若い弟子の才能を見抜き、独立後に娘のファナを嫁がせた。

(5)レンブラント・ファン・レイン(1606ー1669)は、ライン川沿いの裕福な製粉業者の9番目の子だった。

(6)ヤン・フェルメール(1632ー1675)は、父が宿屋を営むかたわら、画商として聖ルカ組合に登録していた。フェルメールも21歳で組合に加入している。


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