C4 ルナモジュール(LM)「イーグル」

 私は、1969年7月20日、LMが月面に着陸し、アームストロング船長が月面に足を下ろしたとき、テレビの実況を見ていた。当時、13歳の誕生日を迎える少し前で、中学1年生だった。
 ほどなくプラモデルのLMが売られ、私は、アオシマの1/48のLMを作った。同時期、タミヤの1/70のLMも売られていたようであるが、私は大きい方が良いと判断したのか(当時、比較したかどうかの記憶はない)、アオシマのプラモデルを作っている。
 このLMは、その後、棚かどこかの上に置いていたが、大学に入学する前(はっきりした時期は不明)、落として、組み立てた部品は、ほぼ細々に壊れた。
 復元するのは大変だと思ったのか、時間がなかったのか、壊れたまま、ばらばらの状態で、せんべいか何かの、カンか紙箱かに入れて保管したと思う。
 私は、子供の頃、多くのプラモデルを作ったが、LM以降に作った物は、ほとんど記憶がない。
 多くのプラモデルは、全て残っていないが、LMのみ残した。これは愛着があったためだと思う。
 ばらばらのLMは、その後、岐阜の家のどこかに保管していたが、私が結婚し、名古屋に移ってから、どこかの時点でその存在に気がつき、名古屋に持って帰った。
 カンのふたを内側を上にして敷いて、その上にばらばらになったLMを置いていた。
 そのカンのふたは、岐阜で保管していたときのものとは別のもので、箱に入れたりせず、表にさらしたまま書斎に置いていたので、LMの部品はほこりをかぶったまま時間が過ぎた。
 長男が芸術大学を目指す頃になり、いくらなんでもLMをほこりにさらしたままにするのは気になり、透明なプラスチックケースに入れることにした。
 本当は、その少し前に、LMの部品を水につけて洗い、なんとか組み立てようとしたが、プラスチックボンドのみで自立する状態にすることは不可能に思われたので、ばらばらの状態でプラスチックケースに入れた。
 プラスチックケースに入れ、ながめていると、いろいろなことを想い起こさせ、考えさせてくれるものであることに気がついた。
 そのうち、これは私の現代美術の作品なのではないかと勝手に考えるようになった。特に、アメリカ合衆国のことをいろいろと考えさせる。
 ところが、月面着陸40年を記念して、2010年3月、新聞広告で「大人の超合金」としてアポロ11号とサターンV型ロケットが発売されることを知った。
 ただちに、2個注文して購入した(イレブン、イレブンとなるように購入したものであるが、その意味は、別に記述する)。
 私の「現代美術作品」である「イーグル」を、より考えさせる舞台装置として「大人の超合金」は、大いに意味があると感じる。
 このときになって、初めて月着陸船をインターネットで探してみると、2009年、アオシマは当時の金型で復活させており、タミヤも復活させていたことを知った。ヤフーオークションで入手できることを知り、ただちに購入した。
 この2つのプラモデルは、「イーグル」の過去のコピーということになる。「イーグル」の中のLMは40年以上の時を経て、変色しているが、壊れた時点で、未来の姿となったと見ることができるだろう。
 壊れる前の姿が、現在ということになるが、その「現在」は、未来の姿から見れば、既に過去となっている。
 大国であるアメリカ合衆国のことは、それに触れるとすれば相当量となってしまう。その栄光と変質は、世界史の中で論じられているし、今後、更に論じられるだろう。しかし、それを、ほぼ一瞬で視覚的に感じるのが「イーグル」であると思う。
 大国の繁栄と衰退というような、ありきたりの記述ではなく、ほぼ一瞬で視覚的に感ずるために、栄光の封印であり、同時に、変質の封印でもあるところを示したいと思う。時間の封印と言っても良いだろう。
 また、「イーグル」の成り立ちを理解してもらえれば、それは私の履歴でもあることを感じてもらえるだろう。
 さらに、「イーグル」からの視点に立てば、世界や私を目撃してきたと言って良く、響き合う関係にあることも感じてもらえるだろう。

アオシマ、アポロ月着陸船イーグル5号
 1/48スケール
 当時の金型で再度作られたプラモデル。
 このプラモデルは、前川弘美が1969年に作ったものと同じものである。 
 色を比べると、白さに格段の違いがある。
 このプラモデルを、誰かが作りたいと考えたとすれば、子孫の判断に任せるつもりだ。

タミヤ、アポロ宇宙船
 アポロ11号月面着陸40周年記念復刻版
 1/70スケール


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C5 筆箱とシャープペンシル

・サンスター文具株式会社の筆箱
 象が踏んでも壊れない「アーム筆入」は、発売開始が1965年、テレビコマーシャルが1967年ということなので、私が、9歳か11歳のときということになる。発売されてすぐに買った記憶なので、小学校3年か4年のことだろうと思う。
 たしかに踏んでも壊れなかったし、コンパクトで、デザインもシンプルであったため、気に入り、今日でも使っている。途中、使わなかった期間もあったかもしれないが、捨てなかった。
 踏んでも壊れなかったが、小学校5年か6年のときだと思うが、どこまで大丈夫かと思い、飛び跳ねたときに、上ぶたの真ん中あたりに、ひびが入ったことはある。
 その後、机から落としたときに、上ぶたの一部が欠けた。衝撃には弱いと感じたものだ。
・ぺんてる株式会社のシャープペンシル、ペンテル11(イレブン)
 今から40年ほど前のものとヤフーオークション出品者が記載している。たしかに私が13歳、中学校1年のときあたりに買った記憶がある。
 途中、金具のペン刺しは、邪魔だと感じ、とってしまった記憶である。
 このシャープペンシルも今日でも使っている。
 2010/7/22まで気がつかなかったが、シャープペンシルに何か書いてあると思い、眼鏡をはずして見てみると、なんと名称が、PENTEL ELEVEN11(イレブン)である。11(イレブン)11(イレブン)に不思議な縁を感じているこの頃なので、神の計らいを感じないわけにはいかなかった。こんなことがあるとは、不思議だ。
 グーグル検索してみると、ヤフーオークションに出品されている。11(イレブン)11(イレブン)にするために、すぐに入札して、落札した。
 取寄せてみると、MADE IN JAPAN B1となっており、私が使っていたものが、MADE IN JAPAN B2なので、その違いがあるが、同じ物だった。
 ヤフーオークション出品者のコメント
「私は古い文具が好きなため地方へ回って探す事がよくあるのですが、その過程で文具店の倉庫の隅にあったものを発見したものがこの品です。
人目に触れないような所で保管されていたため数十年もの長きの間、売れたり捨てられる事なく無事だったかと思われます。」


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C3 11:11(イレブン:イレブン)

 いつの頃からか、時計で、11:11を見ることが多いと感じるようになった。
そういえば、車のナンバーでも、11:11を見るような気がする。(・・:・1、・・:11、・1:11も広い意味では同じだと考えることにする。)
見つけるたびに、携帯のカメラで撮影した。もちろん、見つけたものの、運転中である場合は、撮影できないことが多い。2台か3台に1度撮影できるくらいかと思う。これ以外も、11:11を見つけるたびに、撮影している。意識して、時間を待って撮影するのではなく、たまたま見たときに、11:11があれば、それを撮影している。
 今日、アポロ11号の合金モデルが発売されるという広告を新聞で見た。これだけだと11のみなので、11:11になるように、2つを注文した。月面着陸船をプラモデルで作ったことがあり、今でも印象的なのだが、それはアポロ11号だったことをはっきり意識していなかった。
 ここまで来ると、11:11は、神からのメッセージだと感じる。
 誰もが、このような神からのメッセージを受けているのではないだろうか。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C2 神の啓示

「神の啓示」ということがよく言われる。
 しかし、多くの人にとって、それは現実の話とは思えないのかもしれない。多くの人は、その経験上、「神の啓示」といえるような劇的なことは少ないと思われるからである。
 したがって、多くの人にとって、親鸞の「夢告」の話を読んでも、それは宗教上の話としか受けとめられないだろう。
 私も「神の啓示」については、現実の話ではなく、単なる思い込みか妄想だと考えていた。しかし、私自身のある体験から、「神の啓示」というものはあるのではないかと思うに至り、そう思うに至ってから、親鸞の「夢告」の話を知るに至ったため、「夢告」が単なる作り話とは思っていない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B4 美術と自分のビジネス

 自分のビジネスが成功する中で、美術品にめざめて、コレクションが始まるということは、よくあることだと思う。
 コレクションが進めば、美術館の建設に至る。
 大原美術館
 足立美術館
 大塚国際美術館
 山崎マザック美術館
 こうした美術館は、美術をサポートしてきたといえるだろう。
 (もちろん、美術に投資したという面もあるのかもしれない。)
 しかし、美術と自分のビジネスは別物であるというけじめは必要だろう。上場会社であれば、株主の目線に立つ必要があり、ビジネスに関係のない美術品の収集は、個人のものとして、分離を求められるだろう。美術そのものを扱うことを自分のビジネスとする場合は別として、世の中では、美術とビジネスとは別物と考えるのが一般のようだ。
 しかし、美術の側からは、ビジネスと全く別物とするのではなく、大いに関係づけることを工夫する必要があるだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B3 美術作品の運命

 今日、美術作品は、夥しい量となっており、これからも止むことなく作り続けられる。
 昔のものは、現代に比べれば残っている量は少なく、記録という点でも貴重とされ、保管を続けられるのだろう。
 評価の定まった大家の作品も、高価なものとして保管を続けられるのだろう。
 楽曲は無体のものであり、その演奏もデータとして場所をとらないで保管ができるが、美術作品の場合、物であり、保管の必要がある。
 ただし、物であったとしても、平面であれば写真などによりデータとして保管ができるし、立体であってもデータとして保管ができ、データにより復元ができる時代になったのかもしれない。
(この点はオリジナルとコピーの問題として論じられる点である。)
 それにしても、美術作品の場合、物として保管しないといけない点があることは、否定しがたいように思う。
 こうした美術品を保管する場所として、美術館があるのだろうが、保管スペースに限りがあるだろう。
 美術品の保管者から美術館に寄贈されることも多く、美術館としても手に余ることがあるとも聞く。
 美術館としては、所蔵する作品を、何らかのポリシーで限定し、その余の作品は広くオークションに出し、好きな人が所持することになるのかもしれない。
 この方が美術作品の相応の値段が明確となり、おそらく流通価格は安くなるのではないかと考えられ、日本が成熟した文化国家となるためには良いことなのではないかと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B2 美術のダイナモ

1 美術の展開の仕方は、人間の本性に鑑みるならば、先行者に対して乗り越えたいという美術家の心情に基づく。
  乗り越え方としては、全否定であったり(ダダ)、差異を強調して新現性を打ち出すことであったり、する。
2 美術家の動けるスペースは、具象と抽象の間にある。
3 鑑賞者の側でのとらえ方も、具象と抽象の間でのつかむポイントの差により、異なってくる。
  具象と抽象の間でのつかみ方も、誤解に基づく違いが生ずることがある。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月29日 | Permalink

B1 美術は美術だけの世界か。

 美術を美術の世界だけでとらえることは、おそらくおもしろくないと思う。
 美術を、美術以外の全ての世界とのかかわりの中で記述することがあって良いと考えている。むしろ、そうすることによって、美術は残るものとなると思われる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月29日 | Permalink

A8 軽快に使える本

 大部でないこと
 構造がわかりやすいこと
 考える余地を残していること
 全てを言葉で表現しようとしていないこと
 本は、隅から隅まで読んでも良いが、読まなくとも良い。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月29日 | Permalink

A7 要素の作り出す構造体

 ある要素とある要素は、それが何であれ、無限の接点を有する。その接点を究めるだけでも一生あっても足りないだろう。
 世界には無限と言って良い要素がある。この冊子では、その中のごく一部のみを記述したにすぎない。
 取り上げた一部の要素を、章立てて記述したが、それも一応のものにすぎない。要素と要素の関係は、記述したものもあるが、読み手にある程度わかってもらえるように位置づけたにすぎない場合もある。私自身が要素と要素の接点を分析・理解したものではないため、私の気がつかない関係性もあるだろう。
 要素と要素との接点は、柱と梁の関係に例えれば、それは1つの建物のような構造をつくるかもしれない。しかし、柱も梁もごく細いものかもしれないので、石上純也の作る建物のようだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月29日 | Permalink