残そうとする気持ち

 草間彌生の版画集に「かつての愛の億万のきらめきよ 死の静寂のしじまにそれらは一陣の風のように消えてしまった」とあった。草間彌生がどのような気持ちでこの文章を綴ったのか詳しくは知らない。
 人間の命には限りがあることのはかなさを述べたようにも思われるが、それで良いとする諦めの念も感じられる。しかし、その中で作品を通して、少しでも自分の感ずるところを残そうとする作家の姿も、改めて印象づけられる。
 その作品すらいつかは滅失し、忘却されていく運命なのかもしれないが、少しでも残そうとする気概に人間というものを感ずる。
 何も残さなくても構わないと考える人は別として、作品は記録であり、記録によって次の人々は考えるものだと思う。
 自分の仕事も、全て作品であり、記録されていくものだと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年07月27日 | Permalink

「豊かな生活」を送ること

 人生はどうあるべきかと大上段に構えて尋ねられたとしたら、「豊かな生活」を送ることと答えるだろう。
 「豊かな生活」のためには、ある分野において、その人が満足できるだけ十分に究めることが必要だろう。
 そのためには知人・友人と協力することが必要となる場合もあるだろうし、孤独になって何かに向き合うことが必要となる場合もあるだろう。
 「豊かな生活」のために何が必要かと考えるならば、誰にでも当てはまる正解はないだろう。お金との関係について言うならば、それが全くないとしても、「豊かな生活」ができないものではないだろうが、一般的には、ある程度のお金(サム・マネー)は必要だろう。
 しかし、お金があればそれに比例して「豊かな生活」が送れるかと言えば、お金だけでは決められる問題ではないだろう。「豊かな生活」を送ることができるだけの知恵は必要だろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年06月23日 | Permalink

家族のあり方

 子供が家に帰ったとき、お母さんがいる方が良いといえるか、この点は、賛否両論のあるところだろう。
 男性が外で働き、収入を上げ、女性は家の中を切り盛りするという、従来のモデルは、近頃くずれていると思われるが、意識の中に根強く残るところがある。
 このような問題は、それぞれの家族の状況に応じてどうするか決めるしかないだろう。それが、世の中の多様性というものだろうと思う。
 むしろ問題は、ある人が、自分が家に帰ったときにお母さんがいたことが良かったと思い、自分の場合もそれを無理やりにでも実現しようとすることだろう(またその逆もある)。自分の経験を絶対視しないで、現状をありのままにとらえ、柔軟に判断するべきだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年06月04日 | Permalink

子供の巣立ち

 進学・就職など、子供が親元から離れることの影響は大きなものがある。
 仕事柄、いろいろな親子関係を見てきたが、親というものは、子がいくつになってもいつまでも子供だという感覚が残る。親子とはそういうものだと感じてきたし、そのことへの反省も自分なりにしなければならないだろうと感じてきた。 
 しかし、子供の巣立ちは、意外に気持ちの面で大きなインパクトがある。子供は、ときどきは帰ってくるから、まだ完全に巣立ったものではないという感覚もあるが、いや、もう巣立ってしまったのだという感覚もある。
 子育ての期間は、大変だった(特に母親は)と思うが、子供が巣立つと意外に短かったという気持ちもある。
 このような感慨は、経験してみないとわからないところであるが、これまで親から聞かされたこともなく、既に父母のない自分としては、どんな風に感じていたか尋ねてみたかったところである。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年05月25日 | Permalink

生活の原理は、そんなに多くあるものではない

 世の中には、対象としての分野(世界)は、限りなくあると感ずるが、生活をしていく上での原理・原則は、それほどあるものではないと思う。
 20歳くらいになるまでに、生活の原理・原則を身につけ、30歳くらいになるまでに、対象としての分野(世界)を定めたならば、どこまでもその分野(世界)を楽しんで行けば良いと思う。
 そのうちに何か気がつくことがあれば、新しい分野(世界)へ進んでも良いだろう。引退(リタイア)は、新しい分野(世界)へ進むことに過ぎず、何もしなくなるものではないと思われる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年05月13日 | Permalink

財産を、いつ若い世代に手渡すか。

 若い世代の人がまとまった財産を取得する機会として、相続がある。
 親を早くに亡くした人ほど、早く財産を取得することになる。人生の中で、いつ相続を受けたかは大きなポイントだと思う。
 現在、景気回復のために贈与税の免除が検討されているが、年配者の立場からは、もっと大きな視点で「贈与」を考えるべきだろう。
 無償で与えるという面を強調するのではなく、お金の使い方として有効な使い方を考えるべきだ。意味もなくお金を蓄積するのではなく、自分以上に有効な使い方のできる者がいるようならば、チャンスを与えるべきだ。自分が抱え込むことがベストではないという度量をもつべきだ。
 こうした考え方は、若い世代が子供に見えるうちはなかなか持つことができない。しかし、私自身仕事に就いた頃から、親は本当にありがたいスポンサーだったと思う。自分の裁量を大きく認めてもらえたことに感謝している。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年04月28日 | Permalink

自分の「聾瞽指帰(ろうこしいき)三教指帰(さんごうしいき)」

空海真筆である「聾瞽指帰」(またの名前が、三教指帰)を、以前に見たことがある。そののびやかな筆の動きを見ると、その意欲をひしひしと感じたことを記憶している。

空海が、「聾瞽指帰」を記述したのは、自分の歩みと信仰を、親族を含む世の人々に示そうとしたからである。聾瞽指帰は、空海にとって、決意の表明であり、退学の弁明でもあったものである。

法然の比叡山からの下山、親鸞の比叡山からの離脱も、これに類するものである。

こうした「聾瞽指帰」が、自分にあるだろうかと考える。空海と比較することは、おこがましいことかもしれないが、自分の「聾瞽指帰」は、何かを探してみても良いのではないか。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年04月27日 | Permalink

高砂(たかさご)の世界

 能の作品の1つである高砂は、結婚披露宴の定番であるが、この年齢になるまで、その世界を実感として受けとめたことがなかった。
 先日、飛騨高山に旅行したとき、一位一刀彫の彫刻を改めて見つめてみて、学生時代には、おじいさん(翁)とおばあさん(嫗)にすぎないと一瞥しただけだったが、じっくりと見ることができるようになった。
 翁と嫗は、高砂の浦で松の木陰を掃き清めるところからスタートすることすら知らなかった。一位一刀彫の彫刻は、2人共掃除道具を持っているのだ。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年04月22日 | Permalink

親心としての子への援助

 子孫がお金に困ることがないようにしたいという親心がある。昔は、親が年をとったら、子からの援助を受けることはあたり前であったと聞くが、昨今は、親が子に援助する話の方が圧倒的に多いのではないだろうか。
 この親心から、事業の承継を考えると、子に能力がないのであれば、事業を継がせるべきではないだろう。
 子に社長を継がせたほうが全体の納まりが良いという考え方もあるが、子をサポートする番頭、同志がいないと、子には厳しい結果となるように思う。
 子の将来のために、お金に困ることがないようにしてやりたいという目的ならば、財産の残し方を工夫する必要がある。単に与えるということではなく、自分の意向が汲みこまれた管理・運用の体制を作ることを目指すべきだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年04月06日 | Permalink

親は子の職業を決められるか。

 私は、親は子の職業を決めるべきではなく、また、決めることはできないと考えている。子が職業を決めるにあたり、何らかの影響を与えることすら、慎重であるべきだろう。

 自分の職業は自分で決め、自分で切り開いていくという原則は堅持されるべきである。
 したがって、親の職業が成功した企業体となっているからと言って、子にその「承継」を求めるべきではない。現在成功しているからと言って、未来は不確定であって、現在の成功で子をコントロールするべきではない。「自分で決め、自分で切り開いていく」という点に、親は、目を配るべきだろう。

 子から職業についてアドバイスを求められた場合、自分の経験や意見を語ることになるだろうが、親が子に代わって、親が意見した職業の世界に入っていくわけではないから、答え方も自然に決められていくことになるだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年03月09日 | Permalink