全体を統合する見方

 多くの企業は、前年比で予算を組み、予算との対比で、本年の業績を評価する。
この方法は、成長を実感できる点で良いと思う。
 しかし、常に成長だけを考えていると、その企業に潜む問題の萌芽を見落としたり、無理をしたりして、ある時点で一度に問題が噴出する。
 したがって、自分の企業をとらえる、自分なりの観測ポイントを持つ必要がある。観測ポイントは、各企業ごとにいろいろだが、たとえば外注比率など、利益率に影響する要素などがあるだろう。

 こうした自分なりの観測ポイントは、それほどたくさん持つ必要はない。少数でも大事な要素を見つけるべきであり、自分なりの観測ポイントの変化を見て、自分の企業は全体にどのような実態なのかをよく考えることが重要だと思う。
 自分なりの観測ポイントは、1つの要素ではあるが、1つの要素としてだけとらえるべきではない。その要素を、自分が持つ直感的な企業のとらえ方に、統合的に加えると、全体がどのようなのかと考えるべきだ。

 こうした、全体を統合する見方が、重要な問題に気がつく道だと思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年04月08日 | Permalink

内部対立の根源

世の中の紛糾・紛争の関係者は、実務家(運営者)と論評者とがある。
そして多くの場合、論評者の方が「声が大きい」。
実務家は、常にコントロールしなければならない案件を抱えているため、断定できず、あいまいなままとなることが避けられない。必然的に声は小さくなる。
私は、どちらの立場にも立つことがあり、どちらかが良いと考えているものではない。

しかし、事態が対立・紛争まで至ったとき、両者の関係は注意を必要とする。
実務家(運営者)は、相手に対して、「自分では、できもしないくせに。」と思う。
論評者は、相手に対して、「理屈を突き詰めれば、こうなるはずだ。」と思う。
問題は、論評者が、断定したときだ。世の中では、なぜか断定する人が多い。能力・経験がないにもかかわらずだ。また、論評者は、観念的で、頭の中だけの判断であることが多い。
実務家(運営者)は、黙ってしまう。こうなると、論評者は、かさにかかってくる。実務家(運営者)は、落ち込み、場合によって精神的にまいってしまうところまで行ってしまう。結果、実務の運営ができなくなり、皆が困ることになって終わる。

こうした事態は、夫婦間でも、会社の経営者間でも、経営者と従業員間でも、起こる。テレビの論戦では、しょっちゅうだ。
よく話し合いをしなさいというだけでは、解決にならない。どちらかの全体が分かる人が、回避するしかないだろう。消極的に思われるかもしれないが、回避した人を評価するべきだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年03月11日 | Permalink

組織の悪弊(ある人から聞いた日本の軍隊)

話の概要
 三八式歩兵銃は、後で知ったが、明治38年に作られた銃であり、アメリカの兵器と比べるまでもなく、それで勝てるはずはない。
 何かミスを見つけられると、三八式歩兵銃を自分の前で掲げるよう言われた。三八式歩兵銃は、結構重く、大変だった。すると、「三八式歩兵銃は、もう許してくれたか?」と聞かれた。「まだであります。」と答えると、そのままか掲げさせられた。しばらくして、また「三八式歩兵銃は、もう許してくれたか?」と聞かれたので、もう力の限界で、「はい、許していただきました。」と答えると、「ばかやろう。銃が言葉をしゃべるか!」と言われ、叩かれた。

 軍隊では、それぞれの隊で保管する品が、きちんとあるかどうかを検査される。もしも欠けていると、その隊は革のベルトでたたかれる。げんこつや平手で叩くことは、叩く者も痛いため、このようにする。
 検査の前など、他の隊の保管品を盗みに入る輩が出てくる。それは自分の隊の保管品をそろえるためでもあるだろうし、他の隊に対する意地悪でもあるのだろう。
 兵の宿舎の真ん中に通路があり、通路の近くが下の兵隊が使い、上官は奥を使っている。侵入されやすいところには、詰めて寝るようにして、侵入を防いでいた。
 ところが、検査になると、保管品はそろっていた。
 後に、上官になったとき、前の上官から、壁の一部をはずすことができ、そこに備品を保管していることを聞かされ、引継ぎを受けた。これで補充をしていたということだ。
 軍隊では、このようなことが行なわれていた。

 日本が敗戦を受け入れてからも、備品の管理をしていたところ、砂糖や食料などがたくさん出てきて、あるところにはあるものだと感じていた。ところが、兵隊の中にはそれを盗み去るものが出てきた。このため、管理が悪いと言うことで、戦争が終わってからも叩かれてしまった。
 これに対して、自分が隊を離れるときは、大正7年製造の乾麺が少し渡されただけだった。

コメント
 日本の軍隊の行動は、滑稽とさえ映る。これでよく戦争ができたものだとさえ思う。
 しかし、組織が大きくなったとき、こうしたことはいくらでも起こりうると考え、対応するべきだと思う。組織を当てにせず、また、期待せず、自ら行なうべき事を行なうという生き方をとるべきだ。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年01月25日 | Permalink

社会の仕組

 社会の仕組の多くは、「強者」と「弱者」の調整だと思われる。
「弱者」は、自ら獲得したもの以外に援助を求める。
「強者」は、自ら獲得したもので生きていくべきだと原則を言っていても、治安が悪化したり、難民が押し寄せてきてしまっては、元も子もないので、そうならないように何らかの援助を考えざるを得ない。
「強者」と「弱者」の調整のために、政治家、官僚機構がある。

 EUでのドイツとギリシャの綱引きも、この例が当てはまるだろう。
 日本での、年金、介護保険、医療保険、生活保護の制度も、同じである。
高齢化が、ますます進む日本、世界では、「強者」と「弱者」の調整は難しい問題だ。

 しかし、ここで社会のことを考えるべきだと言いたいのではない。それぞれの立場で(自分が「強者」なのか「弱者」なのか判断して)、自分で行動すれば良いと思う。調整役の政治家、官僚機構をどのように選ぶかは、大きな問題だと思うが、そのことにも拘束されないようにしたい。調整役の政治家、官僚機構に対して、期待もしなければ、悪態もつかない。マスコミと一緒になって、批判していても、何の意味もないだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年11月08日 | Permalink

会社関係、人間関係、近隣関係での付き合い方

 国家間の外交のあり方に関し、情緒的な関係は、時に危険であることから、それを避けるために高坂正尭教授は2つの態度の大切さを伝えようとしていたと言う指摘がある(「不思議の日米関係史」あとがきに代えて)。
 第1は、国際関係は、時に冷酷になるけれども、大体は冷徹に運営していけばよいので、深くつき合わず、それでいてお互いの立場や考えが通じればよしとするのが基本であろう。
 第2は、歴史を現実から突き放し、今は昔のお話ととらえた上で、そこに表れた人間模様をエピソードとして楽しむ、というやり方である。

 私は、弁護士として、国際関係についてコメントする立場になく、むしろ、大きな問題に踏み込むのではなく、現実の自分の前にある問題に取り組もうと考えている。
 この2つの態度も、現実の自分の前にある問題に取り組むときに参考になると考えるので、書き留めた次第。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年10月05日 | Permalink

夫婦財産契約を、家族統治の観点から考える。

 夫婦財産契約は、登記をしなくとも、夫婦の間では効力がある。また、口頭でも有効である。書面によるべきという規定はない。
 したがって、婚姻届出前の合意として、文書がなくとも、実際の状況からある一定の合意の存在を認定されると、思わぬ結果が生じることに注意する必要がある。
 たとえば、「夫の収入の一切は、夫婦の共有財産として結婚生活を維持していく。」という合意がなされたケースがある。
 裁判所は、文書による合意はないものの、管理を任せた実際の状況から、夫の収入については、妻において、その収入の性質の如何を問わず全てについて自由に収支(経理)を行なうことを、夫が予め包括的に容認する内容のものであったと推認し、委託契約が継続する間、原告の収入のすべてを共有とする黙示の合意があったと推認した。この結果は、夫にとって不利な結果をもたらした。
 こうしたことを防ぐためには、夫婦財産契約として、文書による合意をする必要がある。
 弁護士の立場からは、夫婦財産契約をもっと利用してよいと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年07月19日 | Permalink

創業家の持株割合

 上場会社では、創業家の持株割合は低減することが多い。そもそも上場するということは、公器としての会社となることであり、プライベートな会社から変わることであるから、創業家の持株割合の低減は、当然のことであろう。
 また、会社のビジネスの速い成長に伴い、会社の資産規模が大きくなれば、創業家のメンバーのみで会社を所有することは至難の事柄だろう。
 しかし、持株割合の低減の結果、創業家のメンバーであったとしても、社長(取締役)を解任されたり、再任されなかったりすることが起こりうる。
 このため、会社の株式の過半数(3分の2であればもっと強い)を所有することは大きな意味があり、創業家には、その維持のために大きな葛藤があるのだと思う。
 1つの考え方として、会社が急成長しようと、そのための資金手当は自分(創業家)だけで行うものとし、株式の過半数以上は必ず所有するという立場がある。
 この立場を貫くためには、(1)資金手当できる範囲に会社の成長を抑制することが必要となり、(2)収益を生まない資産(自宅など)の購入は、課税された後に残る収益の範囲に限定しなければならないだろう。
 これは、弁護士としてこれまで見てきた立場からすると、大変にむつかしいことだろうと思われる。自らにルールを課し、厳格にそれを守らなければならないだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年04月08日 | Permalink

帝政(皇帝)と共和政(元老院)

 塩野七生さんのローマ人の物語の中で展開されるテーマの1つとして、皇帝と元老院の関係がある。独裁と民主主義も同様の問題と言って良いと思う。
 平常時と緊急時の場合分けをして、その是非が議論されるところである。
 しかし、この問題は、正解のないものだろう。
 客観的に、この場合はこうするのが最善であるという特効薬のようなものはないと思われる。
 自分が、能力のある心情の良い人間であると考えるならば、秘かに自分の目標に向けて努力するべきであるというくらいしか言いようがない。このような人々が、「テーブルを囲むような協議もなく進められる『たくらみ』」(アクエリアン革命、マリリン・ファーガソン著2頁、堺屋太一氏の序文)によって連携することにより、事が実現するのだと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年12月13日 | Permalink

規制と自由

 「三井財閥の人びと」(安岡重明編著、同文館出版)120頁に紹介されている江戸英雄氏の発言は興味深い。
 「同族会は家憲による三井家のつながりです。家憲によって全財産を共有して、病気とか結婚とか相続とかの資金は共通の積立金から出していました。(中略)その家憲を廃止された。これは財閥解体の一環です。そこで各家は自由になりました。三井同族はむしろ喜びました。(中略)結局、三井さんは清算分配金を霧消してしまいました。」
 三井財閥の人びとは、同族会にしばられずフリーになったことで非常に喜んだが、戦後の経済変動の時期を乗り越えられず、財産をなくしたということである。
 三井財閥の人びとの判断と実行は、自己責任において行われたのであるから、やむをえないのだろうが、そのご先祖様の立場から見たとき、残念であろう。規制と自由を、どのようにバランスをとって良い結果を出すべきか、現代の我々も考えなければいけないテーマだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年12月03日 | Permalink

三井家同族会

 三井家の一員は、不動産や何か財産を現実に持っていたとしても、同族会が全部を管理しており、財産の処分についても同族会の承認を得なければならなかったという。
 この点について、「戦前の三井家同族会によるマネジメントは、資本主義経済の基本である財産権の侵害にあたる面があるため、現代では運営できません。」とのコメントもある(「お金持ちのお金はなぜなくらならないの?」宮本弘之 135頁)。
 たしかに、法律上、所有者であればその処分権があるため、同族会が何を言おうと処分はできてしまう。税務上も、所有者に財産は帰属するものとして、課税関係は決められる。
 しかし、法制度とは別に、一族の中で、三井家同族会と同じように、財産の名義人は、その財産からの収益を一部得るものの、あくまでも預かっているにすぎず、一番良き管理人の判断に委ねるというあり方は、考えられて良いと思われる。法制度上、このような管理方法を、どのように実現するかは問題があると思われるが、所有者の任意の判断の中で、三井家同族会と同じ規約をもつことは、何ら問題ないと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2010年11月05日 | Permalink