人材を資産として活用しようと思えば、「従業員はコスト」と考える発想からの脱却も必要になるという指摘がなされている。
企業の経営でいつも軋轢を生むのが、この点の対立である。

企業の選択は、「優秀な人は、囲い込みたい。そうでない人は、リストラしたい。」
従業員の立場からは、「優秀な人は、企業に自由でいたい。そうでない人は、ぶら下がっていたい。」
そもそも従業員の中で、自らの能力について正しく認識している人は、そう多くはないのではないか。

経営は、常にこの引っ張り合いの中でバランスをとることが求められる。

しかし、このように一般論のみ述べて、検討を終わるのは、無責任かもしれない。

優秀な人間であれば、会社を辞めて、自らが企業家になるように思われるが、優秀であっても自分だけではできないことが分かっていれば、辞めることはできない。
これまでは、資本の蓄積がないと物的設備の面で企業化ができなかったため、従業員に辞められることがなく、救われた企業が多い。
しかし、設備が過剰になり、設備を持たなくとも企業化できる時代になると、資本の蓄積の点で従業員を引き止めることはできない。

従業員の採用の際、何年間かの競業禁止の誓約書を取ることも考えられる。
しかし、そのような誓約書が有効とみなされるのは、3年間くらいである。

結論として、企業が強いのは、企業にブランドができていて、ブランドが富の源泉である場合である。そうでない場合、企業はもろいことを認識する必要がある。

自分を企業家と考えるのであれば、企業と従業員の関係について、再度冷徹に考え直してみるべきであろう。


 企業では、経営に関する何らかの項目についてデータをとり、定期的に推移を見ていることが多いだろう。特に、上場会社などコンプライアンスが重視される環境にあれば、必要な項目はチェックしていると思う。
 たとえば、必要とされる文書が間違いなく取得されているかどうかなど、チェックする必要がある。部署ごとにその取得率を比較して、問題がある部署であれば注意する必要もあるだろう。取得率を定期的に見ていくことで、全体の管理状況が分かる。
 こうして取得率など、あるデータの推移を観察していると、良い方向に進んでいるかどうかが分かり、良い方向に進んでいるときは安心もできる。
 しかし、良い方向に進んでいるときでも、何か問題が起こることがある。なぜ定期的に観察しているのに問題が生ずるのか。こうした場合をよく見ると、観察している数値だけではつかみきれないものがあることに気がつく。それは普通に考えれば当然のことで、1つの数値だけで、リスクの全体をカバーすることはないことは、当たり前のことだろう。数値データの推移を見ているだけだと、こうしたことを忘れてしまうのだ。
 したがって、数値データを見ているときでも、その影にあるものも考える必要がある。たとえば、取得率を見ているときに、取得の時期も見る必要があると気がつくときがある。何をきっかけに気がつくかは、いろいろだろうが、数値データの影に何かがあるという意識を忘れてはならないだろう。


組織の人間は2種類に分類できる。ラインとスタッフである。

ラインは、仕事、情報の流れをたどり、顧客の開発、営業を主として活動する。


スタッフは、仕事、情報の組み立てに着眼し、作業を主として活動する。

ラインとスタッフは、組織の始まりのときは未分化であるが、やがてスタッフが分化し始める。

したがって、組織にとって、まず、ラインが必要である。

ラインは人的なつながりが強いため交換しにくいが、スタッフの交換は容易であることが多い。

スタッフは、ラインと共に活動していると、ラインの仕事に気がつかなくなるか、自分でもラインの活動ができると誤解するようになる。


 企業の中には、いろいろな数値があり、保管されている。上場会社の開示だけでなく、一般企業でも税務申告など数値が必要である。また、ホームページを開設していれば、その訪問者のデータを入手することもできる。さらに自らの経営に役立てようと、表計算ソフトなどを利用している人も多い。こうした数値は、グラフ化することも容易になっている。
 経営者として感覚的に実態をとらえていて、それが正確な人も多いと思う。しかし、感覚的にとらえていることを現実に数値化し、グラフ化すると、感覚的に正確にとらえている人ほど、衝撃的に実態を理解できると思う。また、数値やグラフは、他の人に見せられるので、自分の感覚を伝えやすいはずだと思う。
 このように数値は大事であることは、よく理解されていると思う。
 しかし、数値を大事にしている人でも、いかなる数値を観察するかとなると気がつかないことも多いのではないかと思う。
 では、どうすればよいか。ひとつは、会社の格付で述べたが、第三者のとらえ方を参考にする必要があるところだ。
 しかし、私が一番大事だと考えるのは、キャッシュフローをひとつとっても、その全体を表計算ソフトに落とし込み、大きくつかもうとする中で気がつくことだと思う。細かく分析的に見ることも必要だと思うが、統合的に(ある意味、大雑把に)把握することで、シンプルに表現することができるものがある。そこを見つけたいと考えている。


決定に参加する人が、判断の前提となる認識に欠ける場合、判断能力に欠ける場合、多数決原理によって決定しても、決定に誤りがないことは担保されない。
多数決原理は万一の場合の責任追及をかわすための手段となっている。
少数ではあったが、ある問題については判断の前提となる認識を十分に有し判断能力を十分にもつ者の判断が妥当であることは存在する。

しかし、少数であるがためにその選択が採用されなかった場合、その少数派はどのように考え、行動するべきか。
特に、多数決の結果が決定的な判断ミスである場合にどうすべきかが重要である。
この問題は、団体において発生しうる問題である。
少数者には記録にとどめる権利が認められるべきである。

決定に参加する人は誰なのかが問われるべきである。トップが決めるべき問題かどうかについて、ますトップは判断しなければならない。
トップが調整型のトップである場合には判断に注意を要する。


 組織で活動する場合、各人の担当分野を明確化し、その分野についてある程度の責任をもってもらうことになる。この場合、各人は自分の担当分野に専念し、それが組み合わされることによって、効率的に、整然と仕事が進められることを目的とする。ある程度、全体を見渡す役割の人も決めるであろうから、分野ごとの横の連携も考えて進めるだろう。非常にうまく行くはずである。
 しかし、そうでないことも多い。横の連携を考える役割の人を決めても、関係者の全ての状況を把握することは困難だろう。
 したがって、組織の中のコミュニケーションについて、考えなければならず、その能力をいかに高めるかを工夫する必要がある。各人がその担当分野に忙殺されると余裕がなくなり、全体に目が届かなくなるため、コミュニケーションの役割は重要になる。


 どの組織でも、分野を決めて動いているだろう。
 その場合に、担当者が不在の際に、その人が担当すべき事項が発生したときにどう対応するべきだろうか。
 1つの考え方として、分担をその場その場で変えると組織としての仕事にとって不都合があるとする立場がある。
 実際に、その人でないと対応できない場合もあるだろうから、他の人がよくわからないまま対応して、事故を起こすことは注意しないといけない。

 しかし、誰でもすぐできることまで、分担を理由に、他の人が行動しないことがある。その根底には、分担を決めた意味がなくなることや、やろうとしない人の分まで他の人がカバーすることは好ましくないという判断もあるのかもしれない。しかし、このような考え方は、恐ろしくスピード感のない人のもので、企業は大きな損失を受けることもある。
 スピード感のない人は、従業員間の細かな平等を考えているのかもしれないが、チームとしての力に考えが及ばない人で、全体に対するダメージを自分のダメージとしてとらえることがない人と言うべきだろう。
 チームとしてどうあるべきかが、先に考えられるべき問題であり、分担が決められているのに、それができない人は、査定で考慮して平等をはかるべきものである。

 ここで書いたようなことは、当たり前のことであり、こんなことが起きるはずはないと思っていたところ、そうでもないようだ。サッカーで言えば、スピード感のない対応は直ちに1点献上するに等しいことはすぐにわかりそうなことだ。


 組織は、参加者が増えるにつれ、いろいろな人が加わるのだから、チームでやろうとしない人も当然に出てくる。
 こうした人にどのように接するべきか。
 チームでやろうとしない人に対して、口で言っても聞かないだろうし、そもそもわからないのだろう。
 山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」なのかもしれないが、チームのあり方については、思ったとおりにいかないかもしれない。
 チームでやろうとしない人の改善に力を注ぐよりも、チームのあり方をより良くする方向で努めるべきだろうと思う。


 はったりであっても言い切る人がいる。しかも結構著名な人であったりもする。 これは、内容よりも表現方法が効果をもつことがあることを、身をもって理解されている人なのだと思う。ある意味で達人なのだと思う。 このことは、是非を論ずる前に、学ぶべきことなのだろう。


 企業は、大きくなるほど、目標の設定が難しくなる。具体性があり、現実的な目標とするためには、担当部署ごとに検討することになるが、担当部署ごとのバランスをどのようにとるのかという問題がある。中期経営計画など、意味のあるものを作ることは、難しい。(上場会社など、開示が必要な会社の場合は特に難しいと思う。)このバランスのとり方は、企業によってそれぞれなので、ここでは述べない。
 目標の設定は、少し背伸びしてでも、それに向けてがんばることが大事だという考え方もある。しかし、目標実現のために無理をし、コンプライアンス上の問題まで引き起こした例もあり、リーダーは緊張を強いられるところだと思う。
 これに対して、非公開会社のリーダーであれば、この点は柔軟にできるだろう。
 しかし、目標の設定で一番難しいのは、苦境にある会社の場合だと思う。こうした会社では、目標よりも当面の苦境打開に眼が行ってしまうようだ。どうしたら良いのだろうか。企業ごとに状況が違うので、一般的なことは言えないが、ひとつの考え方として提案したいことはある。
 たとえばキャッシュフロー上の悩みであれば、何かの入りと何かの出を観察し、そこに自分なりに考える「あるべき姿・バランス」を想定できるならば、そこから目標を設定することができると思う。こうした「あるべき姿・バランス」は、キャッシュフローの一覧表をよく観察し、そこからいくつか発見できると思われる。発見した「あるべき姿・バランス」を組み合わせれば、全体の目標になる。
 こうして作られた目標は、目指す価値があると意識されると思う。


 言われたとおりこつこつとやるのだが、工夫してほしいところで工夫ができない人がいる。
 「ここを工夫してほしい。」と伝えれば、工夫してくれる人はまだ良いが、「ここをこのように工夫してほしい。」と伝えなければ工夫することに気づかない人も多い。
 工夫ができない人は、あまり考えていない人なのだろうが、工夫してもらえるように仕組みを考える必要がある。
 世の中では、会議をもったり、インセンティブを与えたり、いろいろな方法があるのだろうが、私は、1つの方法として、次のことを考えている。
 工夫ができないのは、気づくことができないからだと思われるので、何かを気づくためのきっかけを作る必要がある。
 たとえば、人から「ありがとう。」と言われたときを記録してもらうことも1つの方法である。
 また、疑問に感じたことを記録したり、解決したことを記録することも1つの方法である。
 できるだけシンプルな事柄にしぼって、それを記録してもらい、全体で共有する企業風土とすることが有効だと考える。


経営者間で、特に親族間で、経営をめぐって争いなることは、よく見ることだ。
それを、簡単に「お家騒動」として、面白おかしく取り上げたり、嘆かわしいことだととらえるのは、表層だけを見るものだ。

経営者間の紛争は、事業の見通しに関するものであれば、そう簡単に優劣はつけにくいものだと思う。
したがって、紛争の調整の仕方は、あらかじめ良く工夫されていることが必要だ。

例えば、持ち株数の配分、社外役員の選定、会議の持ち方等々、よく考えるべきだ。
 会社によっては、先代がよく考えていることも多いと思う。

こうした工夫が、現実となった紛争の解決に向けて、働いているかどうかこそ、良く見るべきだ。
それは、「お家騒動」として思考停止するのではなく、回復機能がどのように働いているかを見ることだ。


 相続が発生したとき、遺族は、どこかの時点で遺されたものを整理するときがきます。
 このときに向けてメッセージを残すことを考えてはどうでしょうか。
 メッセージの残し方は、遺言という法的な効力をもたせる方法もありますし、手紙、日記など形式にとらわれない方法もあります。
 日記も、手書きで残す方法もありますし、データベース化して検索のできる形にする方法もあります。


1人1人が、会社という場を借りて、自分でビジネスをするという感覚の人が集まる会社が、伸びる会社の姿だろう。①
(もちろん、自分でビジネスをするといっても好き勝手ができるということではなく、成果を上げるために、コントロールは受ける。)

しかし、多くの人は、このようには動けない。あくまで雇われ人の感覚でいるだろう。

また、後輩が働いて先輩に配当するのが、組織の姿だろう。②

①と②により、自分でビジネスをできるようになった後輩が、自分でビジネスをできるようになり、その指導をした先輩に対して、報いていく形となる。


 「指示待ち族」と言われたこともある。
 相手方との対応方法として、意識的に受け身になることはありうるが、全て受け身のままでは、評価できないだろう。
 受け身となるのは、その人が、(1)その分野の基本的知識がなく、不案内であること(能力不足)、(2)案件についての今後の展開をイメージできないこと、が主たる原因である。
 したがって、(1)基本的知識の補充をしてやり、たとえば、どのような資料があるかなど、チェックすべき点を知らせる必要がある。(2)案件の全体を一通り経験させ、展開の仕方について知らせることが必要である。
 このような知識・経験があるにもかかわらず、受け身のままであるとすれば、その人の資質の問題ということになり、評価・査定で考慮することになるだろう。


 従業員間で対立が生ずるのは、日常惨事だろう。

1 どちらかが会社のルールに違反することが原因の場合、会社(上司)としては、放置できない。注意するべき対象は明確だろう。

2 問題は、それぞれの価値観の違いから生ずる行き違いの場合、どうするかだろう。

(1) この場合、価値観の優劣を論じてみても決着がつかないことが多いだろう。従業員も、そのことがわかっている場合、どちらかが口をつぐんでしまうことになる。会社(上司)としては、日常業務に支障がなければそれで良しとする考え方もあり(そもそも対立をなくすことはできないのだから、エスカレートしなければ良いとする考え方)、放置されたままということも多いだろう。

(2) 従業員の一方が、自分の価値観に相手方が合わせないことはおかしいと考え、いつまでも攻撃を続けることもある。これがエスカレートすると収拾がつかなくなることもあり、どこかで打ち止めとするしかないことになるだろう。

3 こうした場合、何か工夫はできないものだろうか。

(1) 価値観については、会社(上司)は何らかのメッセージは日頃から出しておく必要がある。

(2) しかし、価値観の違いが残ったままの状態ということは十分にありうることであり、そのことを受け入れるカルチャー(風土)は必要である。この点のメッセージも日頃から必要だろう。

(3) 従業員の一方が、相手方の価値観を変えることはできないとあきらめて、その結果、口をつぐんだままの状態となることはありうるが、そこでその従業員が努力を停止することは会社(上司)にとって好ましくないことである。
 互いに変わっていくことは十分にあることであり、自分の殻に閉じこもってしまうことがないようにしたい。そのためには、「協力・扶助の連鎖」という状態を作り出す工夫が必要だろう。

(4) 人間はなかなか変わらないものだと考える人も多いと思う。しかし、毎日見ていると日々の変化が小さいため連続しているように見えてしまい、その結果、人間は変わらないと考えるのだと思われる。
 このことは自分についても同じで、自分はあまり変わっていないと思うことも多いが、昔の写真と比べたとき、その変化に愕然とすることはあるだろう。
 人間は、時間の経過の中でしか気がつかず変われないとすれば、自分も含めて記録に残すべきだろう。昔の写真として残すように、今の状態を記録に残すことである。
 時が経過し、昔の自分に愕然となれば、人は変わることに気がつくだろう。
 したがって、自分の考えたことを記録に残し、時間が経過してから読み直してみると良いと思う。


 こちらに何か問題があればともかく、人が近づくことに嫌悪するのは、その人に問題がある。
 精神的な病気であるならば、医師の診察を受けるように誘導するべきだろう。
 問題は、病気ではなく、気分で人を避ける場合にどうするかである。このような人は、特殊な人だと思っていたが、そうでもないように感ずる。
 世の中には少なからず、世間の標準的な生き方から離れた人がいる。就職、結婚、人間関係など、これまで標準的には、こうあるべきだという人生のあり方があった。
 世の中全体が経済成長などの目標を定めて1つの方向に動いていた時代であれば、標準的な生き方もありえたが、方向が1つに定まっていない成熟時代では、色々な考え方、生き方がありうるのだと思う。
 このような時代の中で、標準的な生き方のプレッシャーがはずれ、人が近づくことについてすら、嫌悪感を示す人が目立つようになったのではないかと考えている。
 標準的な生き方から、はずれたことを悔い、心配する人もあるし、そんなことはどうでもいいと考える人もいるだろうが、今でも「標準」は生きていて、その影響が出ているのではないかと考える。
 人の生き方が変わるということは、簡単なことではなく、外から変えようとしても、いつになるのかわからないことの方が多い。
 良い方向に変わるように、配慮を続けるべきだろうが、変わらないことも想定して、どうしていくべきかを考えることになると思う。


その人に何らかの問題があるからであるが、その原因のうち注意する必要があるのは、 その人が、「他人の協力がなくてもいい。自分でやった方が早いから。」と考えている場合である。
 その人が、いつまでも平(ひら)社員であるならば、やむをえないのかもしれないが、企業としては、その人が成長してくれることを期待しているし、その人もいつまでも平社員で良いと考えているものでもない。
 「他人の協力がなくてもいい。」という意識をいかに変えたら良いのだろうか。1人ではできない仕事をやらせてみるしかないのだろう。
 この場合、「他人の協力がなくてもいい。」という意識の人は、どのように事柄を整理・分解して、どのような順序で進めるかという点を説明できない人が多いと思われる。したがって、仕事をどのように進めるのか、言葉で説明させてみるべきだろう。
 場合により説明を拒む人もいるだろうが、そこは明確に説明を求めるべきであり、上司として譲れない線だろう。
 仕事の進め方を説明させることにより、無駄も発見されるし、逆に気づかなかった工夫も見つかることがある。仕事をまかせられる人の表現力も向上するだろう。


 参加者個々の平等を重視するあまり、参加者全体の利益が減少していることは、よくあることだ。
 参加者の数が多い場合、全体の利益が何なのかわかりにくいことがあり、また、全体の利益が参加者個々の利益として、下りてこないと、全体の利益が自分の利益とは考えにくいこともあるだろう。
 人間は、全体の利益よりも個々の平等など身近な事柄の方に目が行ってしまうので、全体の利益がはかられないことがあることは、やむをえない面もあると思う。 
 したがって、全体の利益をはかることを考える人は重要な人だと思う。本来、国家レベルで、このような人を大事にしなければいけないのだろうが、全体がわからないこともあって、なかなかそうなっていないのかもしれない。
 しかし、少なくとも身近なグループ、家族の中では、全体の利益を考える能力のある人は重要だろう。


 相続人が対等の立場で、それぞれに能力を有し、協力できるならば、それに越したことはないでしょう。そのファミリーは安泰であると言って良いと思います。
 しかし、現実は、相続人の中で、多くの点で、大差があるものです。したがって、誰かがリーダー的な立場をとり、全体をまとめていかなければならないでしょう。
 こうした場合、相続人の中で、衆目の一致するリーダーがいれば良いのですが、そうでない場合どうするかを考えておかなければなりません。
 1つの方法として、会社法の定める「会社」という制度を利用して、相続人というグループの運営を行うことがあると思います。会社制度は、1つの団体運営の方法だといえるのです。
 また、信託という制度も、会社制度と同様に利用することができると思われます。
 要は、こうした法的制度を利用して、物事の決定・実行を行うという文化を作っていくことが、大事です。


 「何をやっても続かない。」と感じる人は多いのかもしれない。自分自身も、やってきたことの変遷は大きなものがある。「継続は力なり。」と、いろいろな人から言われてきたが、変遷してしまったことの方が多いと思う。
 しかし、この年になって、少しは自分の性格も分かってきたので、自分の性格に合うことは続くということは発見できた。私の場合、記録することを絡めると続いている。
 しかし、この年になって、本当にわかってきたことは、いつまで続けるかという問題の方が、重要な問題なのではないかということだ。試行錯誤することは大事なことであり、試行錯誤と言えない程度にしかチャレンジしないことの方が重要な欠陥だと思う。
 したがって、続かないことを嘆くよりも、チャレンジを続けることの方が大事だと考えている。


 速いか遅いかは、案件の内容と指示を出した人の感覚により違いがあるため、相対的な評価である。
 したがって、遅い人(評価された人)は、遅いと思われた人(評価した人)のことを十分に理解していないのだろうと思う。
 例えば部屋にすぐ入ってほしいと指示を出したのに時間がかかるので、もう一度部屋から出て様子を見ると、ゆっくり歩いてくるという場合がある。
 どれくらい待たせているかという感覚もなく、せめて少しでも速くしようという努力の姿もなく、評価はガタ落ちとなる。少々待たせられても、部屋から出て見たときに小走りであれば、「何か手が離せないことがあったのかな。」と考え、評価にも響かないことともなるだろう。
 遅い人は、結局、相手の心理が読めない人ということになる。


 マスコミは、為政者(時の権力者)に対する批判を行なう。それが任務と考えているかもしれない。(私自身は、ただやめるべきだと言う以外に、今どうするべきかということも言うべきだと思っているが、ここではマスコミの是非は触れない。)
 その結果、世間では、批判をする人が多くなっていると思う。批判もできないよりは、大いに良いことだと思うが、「批判するだけでもね。」とも思う。
 批判だけをする人は、基本的に他人任せであり、自分で事を実現することができない人だと思う。その意味で力のない人である。力のある人は、他人まかせではなく、自分はどうするかを考え、実行する人である。
 自分は、どちらに立っているかをよく考えるべきだろうと思う。また、苦境に立ち、批判にさらされている人は、我が身の優位性に感謝し、やるべきことを静かにすすめるべきだろう。


 返事は、返事を受ける人が返事と認識して、はじめて返事となる。返事のできない人は、この点がわかっておらず、コミュニケーションそのものがわかっていない人である。 返事のできない人は、逆の立場(返事を受ける立場)を経験しているはずだと思うが、基本的に共同作業をしたことがないのか、「返事がない」ことの不都合を理解していない。 
 なぜ返事ができないのか、その理由が不明のことがある。何か不満があるのかと思うが、心当たりがなく、育てられ方の問題なのかと考えてしまう。 
 どのようにしたら、返事をしてもらえるのか。基本的問題すぎて処方箋もないのかもしれない。そのような人は採用しなければ良いと言われそうだ。確かに、試用期間中に、このような問題点は発見できるだろう。 しかし、不幸にして採用した後にこのような事態に遭遇した場合、コミュニケーションをとる努力を続ける必要がある。また、その人の評価、査定で差をつけるべきだろう。


 理屈を一概に否定するつもりはない。
 しかし、自分の望むところを実現しようとするときに、理屈でそれをしようとしてもできないことがある。
 それは、理屈そのものが一般に受け入れられていない場合もあるし、「理屈はそうかもしれないけれど、このケースには当てはめられない。」という場合もある。
 ところが、理屈を述べる人は、その理屈が正しい(自分が正しい)と考えているため、それが受け入れられないことを不当と考え、憤る。このような進め方は、正解を求める生き方と言っても良いだろう。
 これに対して、理屈も考え、それを使うこともあるけれども、世間で(自分の望むところを実現したい場所で)受け入れられるためにどうすれば良いかを考え、相手を見ながら修正していく進め方もある。このような進め方は、現実解を求める生き方である。藤原和博さんが、「35歳の教科書」102頁で「納得解」と表現されるのも、これと同じだと思う。


1 時間の経過とともに知見・資料が出てくる場合、それを集約する場所を定める必要がある。
 その場所を「マスター」を付けて明確にする。
(例.マスターデータ。マスターファイルなど)
 集約する場所を定めないと、蓄積ができず、成果に結びつかない危険がある。

2 集約する場所は、自由に組み替えられる場所である必要がある。
 集約する場所では、知見・資料を並べ替え、全体の体系を探す作業が求められる。
 この作業を行うことにより、その分野の理解が深められ、皆の利用できる体系が見つけ出されることになる。
 したがって、クリアーポケット(文書を入れる袋タイプの透明ホルダー)がとじられたファイルは、資料の並び方が固定されたものに限定して利用すべきである。

3 集約の中から何か成果物を抽出する場合でも、知見・資料を集約する場所と区分し、集約の場所は継続する。
 抽出物が独り歩きすると、集約の場所が分散し、二重の作業が必要となったり、一本化されない二重の成果物となってしまう危険がある。


 全体理解は、トップのすることであり、従業員にそれを求めても無理な話だと思うかもしれない。
 しかし、私は、従業員であっても企業の全体をいくばくかはつかみ、仕事をするべきだと思うし、それが実現するような環境を作るべきだと思う。
 従業員は、得てして、自分のやりやすいやり方で事に当たろうとする。自分がわかれば、それで良しとする。それは自分の仕事が進めばそれで良いと考えるからであり、従業員の皆が同じようにやり出したら、つぎはぎだらけの仕事になってしまうだろう。
 企業のトップは、仕事の全体構造を理解しなければならないが、そのことをどこかで記述して、その全体構造との関係を見せて指示を出すべきだろう。また、指示するときだけでなく、仕事の環境に全体構造が示されていて、誰しも自然に構造をふまえなければならない状況を作るべきだと思う。
 たとえば、ルールブックも全体の構造がわかる体系にするべきである。パソコンの文書管理にしても体系を作るべきである。
 体系があることによる1番のメリットは、その体系の中で漏れた分野があるかどうか判断しやすいことである。
 たとえば、従業員がある仕事をする上で気がついたことが出てきたとき、それが体系の中でどこに位置づけたら良いか考える場面を作るべきだと思う。そのとき、いい加減な判断で適当な位置づけをしたり、「その他」に含めてしまったりするとあまり意味はないが、よく位置づけを考えると体系の漏れに気がつくことになる。ないものを見つけるのは困難な作業であるが、実は1番重要な仕事だろう。


相手の言い分をオウム返しに伝える人は、交渉力のない人だ。誰でも、これはすぐ分かるだろう。
相手の言い分の全体をきちんと評価して、筋の通るところとその限界を明確に説明する人を良しとする。

交渉の始まる前に、この点をどのように見極めることができるだろうか。
日常の業務と少し毛色の違う業務について指示を出し、どの程度のスピードで、どのくらい展開してやり遂げることができるか、新しい視点で取り組もうとするかをみると良いと思う。
こうした柔軟さこそ、交渉力に結びつくと考えている。
逆に、規則的に対応しようとする人は、交渉になりにくい。交渉を平行線のままにする場合は、良いかもしれないが。


 社員総会、決起大会、決算報告会など、企業の全社員ないし多くの社員が集まる場を見てきたが、うまくいっている企業は、チームとして人をまとめることに気を使い、それがうまく実現している。そのための手法は、社長の個性により、様々だが、信頼が基本にあることは確かであり、信頼関係ができていると思う。
 信頼関係は、当たり前のことで、いまさら何かするべきことがあるのかと感じられる方もあるだろうが、それだけに新鮮さに欠けるため、実現の方法が難しくなっているように思う。
 信頼関係については、時間をかけ、慎重に作り上げる決意が必要だ。信頼関係があれば、何か特別な出来事がなくても、企業は良くなると思う。業界のナンバーワンが赤字になる時代でも、その企業は赤字にならないことが起こる。
 信頼関係は、当たり前のことを、当たり前に実行することから生まれると思う。


 次のような指摘がある。 
「勤続15年(日本のみ14年)を100とした場合の賃金を見ると、日本は勤続年数が15年を超えると44.5%、20年を超えると73.4%、30年以上だと93%も高くなる。
これに対して、ヨーロッパでもっとも年功序列が残っているドイツでもその差は最大で53.8%、“理想の福祉社会”スウェーデンにいたっては勤続年数と賃金はなんの関係もない。徹底した能力主義で、資格を取得して昇進・昇格しなければ何年働いても給料は同じなのだ。」

 年功序列賃金については、経済状況が良いときには、良い日本的慣行として評価されたが、現実には、これからますます変更されていくことだろうと思う。
 しかし、賃金をめぐる法的な紛争を見ていると、給与表など、年功序列を意識した議論が多いと思う。無意識に年功序列を前提としている。確かに、能力主義といっても評価は簡単ではなく、労働者側も納得がいく方法は難しいのが現実だと思う。
 結局は、年功序列と能力主義との間で、何らかの調整をしていくことになる。覚悟を決めて、能力の査定を行い、忠誠心などを年功で評価するような形になると思う。


 上位役職者(ランクに見合った能力があることが前提)は、ある事柄と別の事柄とを統合して、何かを判断し、作り出す。
 これに対して、下位役職者は、この統合の力が低いため、ある事柄と別の事柄とは、ばらばらのまま放置される。
 ここでは、全く別物である事柄から、大きな発明することを、取り上げようとしているのではない。もっと身近な日常の活動を取り上げようとしているにすぎない。

 統合の力の差が、どうしてもできてしまうことは、現実だと思われる。しかし、多くの人が統合の力を上げていけば、会社としては、力がある会社になるだろう。そのためには、どうしたら良いか?
 ある事柄と別の事柄とが、どのような位置関係にあるかという情報は、共有できると良いだろう。
 それが、関連する事柄であれば、少なくとも文書は同じカテゴリで綴じられているべきだろう。紙の文書は、あまり存在しない会社であれば、単に検索で、単発的に文書を探すのではなく、コンピュータ上でも体系立てて保管されている必要はあると思う。
 文書の体系的な保管がなされていれば、統合の力をあげることに結びつくだろう。