多くの人は、Web上で保管されている資料について、連続して読み返したり、細かく比較しながら読むということをしない。また、紙であれば、いろいろと書き込みもできるが、Web上の文書に対しては、(技術的には方法もあるのだろうが、)書き込みはなされない。したがって、その記載内容がどの程度頭に残っているかと考えると、その人の関心があるものしか残っていないと思われる。
また、議論をする場合でも、目の前に掲示されている資料に関してしかコメントがなされない。
このため、紙の資料をつきあわながら読み返す人に比べれば、理解の程度は浅く、これまでの蓄積を活かせないものとなっている。
この理解の程度が浅く、これまでの蓄積を活かせていないということは、重要な事項については、決定的に危険だと思われる。理解が大雑把なまま、物事が決定されているということだと思う。
あまり細かいことに気を取られないで決定する方が良い場合もあるとは思うが、かなりずぼらな進め方になってしまうと思う。


自らが事業主として仕事をしていると、給与や経費を支払って、家族の生活費を確保して、税金を支払って、その上、投資も行なって、とやっていると、「ぎりぎり」となる。いつもお金が足りない!という気持ちになる。

この気持ちは、ストレスから来るものなのか?
「忙しい。」という言葉を、弁解に使うことはできないことは、よくわかっている。

しかし、「お金は無駄なく使いたい。」と考える立場からすると、「ぎりぎり」になるのは、当たり前のことにもなる。
「ぎりぎり」の心地よさを感じるべきなのだろう。


人を使っている人は、おそらく全て感じていることと思う。
しかし、尊敬できる経営者から、同じような思いをもった話をきくと、見識も能力も経済力も格段に劣る自分は、「ああ、この人でさえ同じ思いを持つことがあるのだ。」と感じ、我が身を慎むことができる。


共和政から帝政へ移行する時期のローマは、国力が真に拡大する時期にあった。

拡大する組織にとっては、いつまでもこの拡大が続くと誰もが考える。
 
しかし、当時のローマの賢人は、そのような国力の拡大期であっても、防衛ラインを決め、防衛ラインの内側をローマ化して統治することを考えた。

防衛ラインを越えて侵攻する場合でも深追いはせず、防衛ラインを堅固にする目的に限定された。
 
当時のローマにおいてすら無限定な勢力の拡張を考えなかったという点は重要である。

組織のためには組織が働く圏域を決めることが必要である。

これは全ての組織は一定のエリアに存在した後にいずれ滅亡する理(ことわり)から明確に導き出されることである。

全ての組織はいずれ滅亡するというのは、組織には必ず時間的、地域的限界があるということである。
 
地域的限界があることは身近に考えてみても明らかである。
 
部屋の中を見回してみると、自分が日常使っている物は別として全てほこりをかぶっていることに気がつく。

1つの部屋ですらこの状態なのだから、他に部屋がある人の場合、他の部屋は一層ほこりをかぶっている。
 
結局、人間は今ほこりをかぶっていない物程度しか十分に使いこなせないのである。
 
いや、もっと多くの物を使いこなせるのだと言い張ってみてもほこりを払わなければ使う気にならないだろう。

すると、ほこりをとるべく掃除をする。掃除をして人生を終わることになる。


倒産企業を見る機会は、多いと思います。そのとき感じる事柄には、共通したものがあります。

業種イメージより豪華な設備、内装、玄関、トイレ、会議室

ほこりをかぶった倉庫、備品棚、文書棚

決定的な弱点のある設備  
  ロケーション、前面道路幅、天井高

不要スペースの抱え込み

昔から変わらない取扱商品
  玄人の眼で見た変化だけではなく、素人の眼からも変化が分かるくらいの改善が必要である。

以上は、ハンデであり、長期になればなるほど、強いマイナス要因である。


先祖の事業を継承することを美徳とする「考え方」がある。
しかし、事業内容を同じくすることに意義はない。
もちろん、社会から事業内容が評価され、利益を生むものであるならば、事業を変換する必要はない。業態を維持することにより企業が立ち行かなくなるならば、変換しなければならない。

人は、慣れたことしかやりたがらないものである。慣れないことを始めることによる不安、面倒さから、変換しなければならないときでも、そのことを先送りしてしまうものである。
「創造的破壊」という言葉があるが、そこまで強く言わなければ、人は惰性に流れ、業態の変換がはかれないということだと思う。
「大黒柱に車を付ける」という家訓があるように、常に変化に対応し、業態も変換しなければならない。たとえそれが収益源(大黒柱)であったとしても、新たなる収益源を探さなければ、いつか企業は死んでしまう。大黒柱は動かさないものと考えるのではなく、大黒柱こそ動かさなければならない。

人は、未来はこのまま続くものと考えてしまう。過去の成功体験がどうしても重くのしかかる。過去を振り返って、10年の変化を実感できるが、未来を見て、10年の変化を実感できない。
変化が明らかになった時点では、対応は遅すぎることになる。

自分だけであれば、変化に対応できる人でも、集団となると変化のためには障害が大きい。


物事の良さを判断するとき、慣れ親しんできたことからくる心地良さを厳密に区別すべきである。
 
慣れ親しんだことから一番良いと思うことがあるが、それが全てではないことを知るべきである。これからも慣れ親しむことにより、良いものは生まれてくる。こうした可能性に対する寛容
さをもつべきである。
 
そして、それとは別に物事の真の良さを評価すべきである。


同じビジネスでも、ロケーションが変われば雲泥の差を生じる。
ある薬局の場合、人通りの少ない路面店での薬の小売店から、力のある病院のそばの調剤薬局へとロケーションが変わったことにより、劇的に変化している。

人はともすると、現在の延長線上に未来を考えるが、断絶もあるということを忘れてはいけない。


 企業の代表者は、自ら自動車の運転をすることは控えた方が良いという考え方もあります。
 自ら自動車を運転することは、楽しみである面もあります。
 しかし、企業の代表者が、自らの運転で自動車事故を起した場合、問題が大きくなることもあります。
 重大な事故となり、刑事責任を問われる場合は、なおさらです。特に、近時は、刑事罰が厳しくなっていると考えられ、注意が必要です。
 企業の安定のためには、考えるべき点が多いのだと思います。


裁判になったとき、紛争になる前の相手方とのメールのやりとりは、大きな意味をもつことがあります。

電話のみで、いろいろなやり取りをしていた場合と異なり、メールは、客観的な証拠としての価値があります。
コンプライアンスに関連して、社外のメンバーによる調査がなされる場合も、メールの調査は重要であると聞きます。
メールの保存は、重要な意味があると言って良いでしょう。

しかし、メールは、個人の管理に委ねられており、保存の仕方にルールが必要でしょう。
また、メールの表現は、意外にあいまいであり、誤解されたり、逆の意味に利用されたりすることもあります。

担当者のみのやり取りに任せ切りにするのではなく、第三者的なチェックが必要であると感じます。


 失火の場合、重過失がなければ、不法行為の責任を問われません。
 つまり、類焼の被害者は、火元に対して賠償請求できません。
 これに対して、借家人の過失で借家建物が火事となった場合、借家人は賠償金を払わなければなりません。これは、借家人と家主との間には賃貸借契約があり、借家人は借りた物を返さなければならない義務があるのに火事で返すことができなくなったときは、金銭賠償しなければならないからです。
 類焼の被害者としては、自ら保険をかけて財産を守るしかない場合もあるのです。


 人間は、自分の利益を中心に考えるから、誰しも自分の立場から発想すると言えるだろうか。
 当然に、そうだと考える人がいるかもしれないが、確かに目先の利益に関しては、そうだろう。目の前に全く同じ物が100円と70円で売られているとするならば、安い方で買うだろう。
 しかし、判断を迫られるのは、そんなに簡単でない場合が多い。どうしても将来の見通しや自分の立ち位置を踏まえて判断しなければいけない。
 ところが、その場合、なぜか世間一般に流れている基準で判断してしまう。すると、その基準をドグマ(教義)のように考えて具体的な判断ができなくなる。たとえば、「日本は人口が減少する国だから、不動産は余ってくるので、投資対象と考えるべきではない。」という人がいる。
 しかし、そのようなドグマと言って良い基準で物事を考えると、当面の自分の立場を考えたときに誤まることがあるだろう。現在の自分の立場(足元)から考えて判断するべきだろう。


近時、時間外労働が問題となっています。法令遵守の立場から、確認をする必要があります。

? 労働時間及び休日について 
1 原則
(1) 労働時間は、一般には1日8時間、1週40時間以内とされている(労基法32条1項)。
(2) 使用者は、労働者に対して、毎週少なくとも1回の休日を与えなければならない(労基法35条1項)。

2 例外
 過半数組合等との労使協定書を締結した場合、または就業規則に定めがある場合には、下記の変形労働時間制を組む   ことができる。
(1) 1ヶ月以内の一定期間(対象期間)を平均して、1週間の労働時間が40時間を超えない範囲内で、1ヶ月単位の変形労働時間制を組むことができ(労基法32条の2)、この場合には、特定された週、もしくは日において、1日8時間、1週40時間を超えて労働させることができる。
  
   変形労働時間の限度は、31日の付きは177時間、30日の月は171時間である(40時間×変形期間の日数/7)。

(2) 1ヶ月を超え1年以内の対象期間を平均して、1週間の労働時間が40時間を超えない範囲内で、特定された週、もしくは日において、1年単位の変形労働時間制を組むことができ(労基法32条の4)、この場合には、特定された週、もしくは日において、1日8時間、1週40時間を超えて労働させることができる。

   変形労働時間の限度は、1日10時間、週52時間である。
   ただし、対象期間が3ヶ月を超える場合には、以下の制約がある。
   ⅰ 労働時間が48時間を超える週を連続させることができるのは3週以下。
   ⅱ 対象期間を3ヶ月ごとに区分した各期間において、労働時間が48時間を超える週は、週の初日で数えて3回以下。

   なお、変形労働時間においても、週1回の法定休日は必要である。


 時間外労働時間の限度 
1.時間外労働時間の限度
 労働基準法36条に基づく過半数組合等との一定の労使協定書(いわゆる「36協定」)を締結すれば、下記の時間まで時間外労働をさせることができる(労基法36条)。
(1)通常の勤務時間制の場合及び対象期間が3ヶ月以内の変形労働時間制の場合
    1週15時間、1ヶ月45時間、1年360時間

(2)対象期間が3ヶ月を超え、1年以内の変形労働時間制の場合
    1週14時間、1ヶ月42時間、1年320時間

2.特別条項付き協定
  納期の逼迫など、特別の事情がある場合、労使間で特別条項付き協定を締結することで、上記の制度を超えて時間外労働させることができる(時間外労働の限度に関する基準(平成10年労働省告示第154号))。
  ただし、以下の点に注意する必要がある。

(1) 特別条項付き協定では、延長時間の法的な上限は定められていない。
   しかし、協定であまりに非常識な時間を定めると、労働基準監督署の指導・調査が入る可能性が高い。
   なお、延長時間の法廷の上限はないが、協定で定められた限度を超過すると法令違反となる。
(2) 特別条項付き協定の回数は、年間の半分までにしなければならない(1ヶ月単位で定めれば6回まで、1週単位なら26回まで等)。超過すると、法令違反となる。
(3) 1週間に1日は、必ず休日を設けなければならない。
(4) 時間の上限の法的規制はないが、長時間労働による事故、病気等には会社の責任が問われる。

 (特別条項付き協定の例)
「一定期間についての延長時間は1ヶ月30時間とする。ただし、通常の生産量を大幅に超える受注が集中し、特に納期が逼迫したときは、労使の協定を経て、1ヶ月50時間までこれを延長することができる。この場合、延長時間をさらに延長する回数は、6回までとする。」


 世の中には、新しい試みに対して、「まずやってみよう」という気持ちと正反対の発言をする人がいます。それも、大体は、いつもいつもです。

 リーダーとして、このような人に対しては、何をすべきでしょうか。
 リーダーの負担として大きなものは、改善のための新しい試みに対して、いつもどこかから出てくる現状維持しか考えない人の反対です。改善策を考えようともしないのに、要求だけは一人前以上です。
 リーダーは、自分の気持ちを維持する工夫をしなければなりません。
 しかし、組織(企業)の構成員は、様々な性格の人がいるのが通常ですから、思ったとおりに改善が進まないのが普通だと、まず考える必要があります。
 その上で、改善が必要な事柄であれば、思いきって進める覚悟も必要でしょう。
 リーダーは、こうした精神の葛藤の中で苦しむのですが、それを記録に残すシステム(発言の日時が自動的に記録されるシステム)があると、時間が経過してからふり返ることができ、自分の成長や組織の成長に有効でしょう。


京セラの稲盛名誉会長ですら、社内では、思ったとおりに、言うことを聞かせられないという。
身近にいて、その日常を知る者は、小さな粗(あら)を見ているために、本質的な事柄に気がつかない。
この点、外の人間は、本質を捉えうる。
経営者が、外の活動に魅力を感じるのは、やむをえない気がする。


日常生活を送っていると、生活ができれば良いという気になる。
生活ができるだけの収入が確保できると、事業をそのままにして、当分、大丈夫と考えて、何もしないことがある。
欲のない生活という点では、意味もあると思われる。

しかし、そこで終わって、展開ができないという場合が多い。
事業をそのままにして、ジリ貧となり、そのうち、生活がやっとという状態になる。
そうなると、何もできなくなる。
未来のために投資まで踏み込むべきである。

いろいろな人生や企業を見ていると、生活ができる資金、ないしは、事業が回っていく資金を超えて、どれだけ残し、それを何に使ったかの差であると思える。
当初、残せた金額の差は、ごくわずかでも、時間とともに、その差は、大きくなる。そして、埋めようがない差となっていく。


無限大の碁盤に石を打っていく気分。
 
はたして1つ1つの石は、つながるのかすらわからない状態です。石と石との間隔は疎であり、密度も一定しないでしょうが、それでもどこかでつながっていることが別の誰かに発見してもらえれば、大いに良しです。


 仕事や生活をしていく上で多くの書類が送られてくるし、また、自らも作成する。
 こうした文書を折りたたんで、封筒の中に保管している人を多く見かけるが、おそらく、そのようにして保管できる量は限られているだろう。頭の中に、この封筒の中の文書は何かを貯めておくことは、よほど貴重なもの以外、それほど多くはできない。むしろ、毎回、封筒から出して、広げ、何かを確認せざるをえないだろう。それならば、最初から広げて保管した方が良いだろう。
 
 このような事態になるのは、文書の保管の体系ができておらず、保管場所が明確でないことによる。そして、保管の体系は、関係者(家族、仕事仲間)の共通理解となっている必要がある。
 文書がどこにあるのかを論理的に探せるようにするべきである。
 保管の体系は必要に応じて新設したり、統廃合したりする必要がある。
 どこに保管して良いかわからない文書が出てきたときも、これまでの体系を見直し、仕事に進め方も見直す必要があるだろう。


 資料・データを取得した場合、その場でただちに整理・保管するべきかどうかを判断して、捨てるものはすぐ捨てるという生き方を薦める本が多いように思う。確かに、整理・保管の必要がないとただちに判断できれば、それは捨てて良いだろう。
 しかし、証拠書類として保管しなければいけないものも多く、組織として取り組む場合は、自分だけで決めがたい場合もある。また、その資料・データ1枚だけでは何もわからないが、ある一定期間蓄積することにより変化がわかるという場合もある。さらに、自分の興味の対象となるかもしれないと思うものも多い。
 したがって、整理・保管の体系は、自分だけの理解で作るのではなく、グループ全体の理解を得て作り上げるべきだろう。また、保管期間を想定する必要もある。さらに、個人的な必要性も取り込む必要がある。

 まずは、こうした整理・保管の体系を明確に作るべきだろう。保管するべき資料・データは、必ずどこかに位置づけられる必要がある。しかし、保管期間を設定し、期間を経過したものは捨てやすい区分とする必要がある。
 次に、このような体系を作ってみると、思わぬスペースが必要という場合もあるだろうが、全体の量が明確になり、保管期間を決めれば、そこそこの量となることがわかる。
 スペースに限界があるならば、その限界となる前に処分するルールを作れば良いだけのことだと思われる。
 このように体系が安定して運営されると、落ち着いて考えることができるようになる。また、体系の修正を考えることにより、新しい分野は何かをつかむことができるようになると思われる。


 古い感覚だと思われるかもしれないが、戦国時代の武将になったつもりで、自分の手持ちの駒として、お金を考えたらどうだろうか。
 仮に1万円を馬1頭として考えると、自分の手駒は何頭であり、現在、どこに配置しているのかイメージができる。手駒には十分に働いてもらわなければならないし、大事にして討死にしないように考えなければならない。馬に名前まで付けるかどうかは別として、馬を失えば悲しみも一層となる。
 お金は無機質なものであるが、馬に例えると、俄然スペクタルになる。まぁ、世の中には百万円が馬1頭の感覚の人も多いかもしれませんが。


 企業は、取締役会の決議に基づき、代表取締役が対外的活動を行う仕組みになっている。取締役会の承認を必要とする事項は定められており、金額等によって具体的に定めることもある。上場会社の場合は、こうした仕組みは不可欠であり、内部統制システムの問題ともなっている。
 しかし、いろいろな企業を見ていると、先見性があり、優れた代表者の判断に基づき、俊敏に行動している企業が多いと思う。しかし、それでは危険だと考える人もいる。これは、橋下大阪市市長が「独裁」と言われる問題と同根の問題だろう。政治の世界と経済の世界では異なると思うが、委任・委託する面と、そのチェックをする面とのバランスは、現場の感覚を第一として、決められるべきだろう。そこに賢さがないと良い結果が得られないだろう。


 このとき私は生きているかどうかは分からないが、企業の後継者としては、少しはイメージし、2025年あたりは、ある程度考えなければいけないのだと思う。私は、5年先でも簡単に見通せないから、あまり先を想定して具体的に準備する必要はないと考えているが、未来への感覚は持つべきだと思う。

 年金、介護保険、医療保険がどうなっているかは、多くの人が感じているように、悲観的に考えるしかない。経済面でも、健康面でも、自分では立ち行かない人が続出する。高齢者の貯蓄も減少していく。
 社会は、「絆」を強調して、助け合いの精神を賛美するが、弁護士として紛争の矢面に立っていると、他人に対してきびしい人が増えているように感じ、社会の運営は、ますます難しくなるだろうと思う。

 余裕のある人は、余裕のない人を助けるべきだ言っても、それを受け入れる人がどれだけいるだろうかと考えてしまう。日本は、中福祉の国だと考える人がいるが(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2798.html)、今以上の福祉が本当に実現できるのかと思ってしまう。

 こうした状況で、企業家は、人件費を抑え、不要なものをできる限り排除し、現金を確保するのは、当然だと思う。これは、企業家が、自分の助けたい人を助ける(同時に企業も助けられる)という仕組が、ますます強くなると言うことだと思う。この考え方には、各方面から、制限が加えられるだろう。しかし、自由主義社会の根幹となる考え方だと思う。


 革新的な科学技術の発明がなくなったことが、世界的な株価の低迷の根本にあると言う考え方がある。
 たしかに、ダウ・金倍率が、1999年から低下し続けている。1999年は、IT(情報技術)ブームの年だった。ダウ・金倍率は、30年から40年の波で動くと言うことであり、大底は2倍割れなので、反転はまだ先ということだろうか。

 企業は、パテントを含め、研究開発が重要であることを認識されていると思うが、自社で何か革新的な技術が生まれているだろうか?弁護士の仕事の上では、IT以来、革新はないように思うが。
 週刊新潮で、マスコミなどで名だたる人たちの資産構成が紹介されていたが、株式は少なく、普通預金が多い。

 こうして見てくると、悲観的になってしまうが、科学技術に関連した企業の記事も見つけられる。熱核融合炉の素材受注、超電導モーター開発などがある。科学技術の展開は、イメージしにくく、評価しにくいのだろう。
 しかし、「一番でなければ、いけないんですか?」という発想ではなく、少なくとも科学技術では、一番を目指さなければいけないだろう。


 「育てる」と「育つ」は、よく対比されるが、違うようでいて、似ているところがある。何もない中で、「育つ」を期待しても、虫がいいやり方でしかないだろう。逆に、「育てる」ことばかり考えても、荷が重くなり、また、独善に陥る可能性もある。「育てる」と「育つ」は、見方の違いのようにも思う。

 しかし、言われたことを繰り返す、単純労働ではなく、相手に応じて対応する必要がある仕事になるほど、「育てる」と「育つ」という2つの見方を意識する必要性が高くなるだろう。デザインなど感性の求められる仕事や、顧客の強い要望が出てくる仕事などが、そうであるし、弁護士の仕事も同様だ。

 基本的には、「育てる」という工夫は、先ず最初に必要になるだろう。しかし、それだけでは自発性が出てこなくなり、足りない。人が育つ場とは何かを考えざるを得ない。
 そのためには、その仕事で求められるアウトプットは何かをはっきりさせ、各人に対して、それに向けた準備・行動を求めていくしかない。形が柔軟な箱をつくり、そこでのアウトプットを示し、その中の一応のルールを明示して、ボスは、そこでの各人の展開を観察するというやり方である。
 仕事により、やり方は様々であるけれども、「自分は、人が育つ場をどうしているか?」を考えてみることは必要だと思う。


 これまでの対処手続を改善することは、常に行なわなければならない。
 しかし、これを行なうと、そのねらいを実質的にとらえて、改善の効果を出すことを考える人だけでなく、形式にこだわる人も出てくる。右側に記入するのか左側に記入するのかといった類の形式である。
 大組織で、他との調整が必要な場合があり、形式を考えることも必要なこともあるだろう。いわゆる役所的な発想だといえる。しかし、今の組織の中で、なぜ改善をするのかを第1にとらえようとしない点で、問題が大きいように思う。
 リーダーは、改善のねらいを実質的にとらえることは、当然だと考えるだろうが、そう考えない人が出てくることも理解する必要がある。その上で、そう考えない人に、ねらいを理解させる方法を工夫しなければならない。


 一番先に思いつくのは、相手が「のろい」と感じたときだろう。
 すぐにできることを、何か理屈をつけて後回しにする人は多い。しかし、その理由が、単に忙しいというだけのとき、口には出さないが、「バカだな。」と思う。要望が出たとき、すぐにそれに答えるのが、効果が高いことを知らないのだろう。自分の優先順位で仕事をするのではなく、効果の順で仕事をすれば、楽になるのにと思う。短時間でできることならば、ある程度時間のかかる今の仕事を中断して、さっと済ませるべきだ。
 所作が遅い人もいる。自分がそうならば、大きなハンデだと考える必要がある。障害のためであれば、理解もされるだろうが、障害に原因があると外から見て分からない場合、ハンデとなるだろう。人は、「のろい」と感じると、熱意までないように感じてしまうものだと思う。
 年とともに、あまり怒らないようにしようと考えているが、怒れてしまうものはなんとも仕様がない。怒れてしまった自分に向かって、よく観察するしかない。


 会社が順調であれば、社長はすることがないかもしれない。特に、事業形態が確立していて、人に任せられるときは、そうだろうと思う。
 逆に会社が逆境にあるときは、気が休まらないだろう。
 こうした振幅があるだろうが、社長は、従業員と全く同じ仕事をするものではなく、顧客の応対にきりきり舞いということはないだろう。結局、暇に映る。
 しかし、暇そうに見えるときこそ、何をするかの真価を問われることになる。野球のトップバッターであれば、どんな球でも手を出すのではなく、打つべき球を狙って打つことになる。一振りすれば良いのだと思う。この状態を暇とは言わないだろう。
 社長は、時間つぶしになってはいけない。何をなすべきか、常に考え、準備することになるだろう。


 設備を入れ替えたり、人を採用したり、改善を計画するとき、お金をどうするかの問題が出てくる。
 日常の資金繰りに追われると、こうした改善ができなくなり、じり貧となるだろう。倒産に至った企業を見たとき、第一印象は、ずいぶん昔のままということが多い。
 それではどうすればお金のかかる改善ができるのか?
 これは資金手当を計画するしかないだろう。借入を起こすのか、少しずつ蓄積するのか、の差はあるけれども、当たり前のこととして、計画するしかない。
 そして計画に対しては、愚直に実行・実現にこだわるしかない。


 これまで日本では、年功序列給が維持できた面があるため、経営者にも労働者にも、その発想の人が多い。経営者としては、年功序列給に経営上メリットがあるならば、維持すればよいが、現代は、能力のある若手の採用にとって、デメリットなることが多いと思われる。
 賞与についても、業績連動の運用をしていないと、固定制でもらえるものと考える人が出てくる。

 こうした中で、どのように考えるべきだろうか。日本では、雇用の流動性が低く、成長期であれば可能な雇用も、現代では無理となっている。業績の良い企業は、業績に応じて、人件費を負担するべきだと思うが、現代は、多くの企業は、業績が上がらず、苦しんでいるものと思う。
 経営者としては、自分なりに数値により業績を把握する方法を確立し、そこに自分なりの基準で数値として譲れない線を明確に出す必要がある。
 自分なりの基準は、自分の報酬を合理的に決定して、決める必要がある。自分の報酬を明確にしないことから、改善が行なわれなくなり、事業の将来性の判断も行なわれなくなることが多いと感じている。

 こうして当面の対策をとることになるが、さらに将来の人員構成の方向性を自分なりに明確にして、それに向けて少しずつ進んでいく必要がある。この意識がないと、改善しないと思われる。
 ぶら下がらない、自営業者としても通用する人を、見つけていくしかない。


 自分の会社で決断したと思っていたことが、実は、他の会社でも始められていたということは、よくある。どちらかが真似をしたというよりも、ほぼ同時に始めたということである。
 自分は独自で考えていると言っても、実は、環境が同じならば、同じようになるということだと思う。
 このように考えてくると、自分の会社の行動が、社会の出来事として報道されることと、関連していることに気がつく。社会とシンクロしていると感じるときである。
 自分が独自で考えたと思っていたことを、さらに発展させるときに、こうしたシンクロに気がつくことは、有効だと思う。


・債権者側の目線
 中小企業が金融機関等より事業資金を借り入れる場合,経営者個人を連帯保証人とするのが融資慣行です。貸主側としては,借主が破綻しても,経営者個人に責任追及すれば債権回収が可能と思っているかもしれませんが,保証契約の担保性能は極めて不安定です。例えば,経営者個人の財産を調査すること自体,個人情報保護の観点から多くの障害が存在します。また,経営者個人が破産手続を取られてしまうと,凡そ債権回収は困難になります。単に,保証契約を取り交しただけで安心することなく,融資以前に信用状況の調査をすることが肝要です。

・経営者個人側の目線
 中小企業が金融機関等より事業資金を借り入れる場合,経営者個人を連帯保証人とするのが融資慣行です。この融資慣行は,?新規融資を困難にするばかりか,?中小企業の経営者交代にも悪影響を及ぼしています(債権者の承諾なく保証人の地位を移動できないため)。現在,日本商工会議所と全国銀行協会が「経営者保証に関するガイドライン」を公表し,その現状を変えようとしています。
 当事務所所属弁護士が,中小企業基盤整備機構が主催する同ガイドラインのセミナー講師として活躍しておりますので,お気軽にご相談下さい。