お金に働いてもらう時代だと言われて久しいのですが、このことを意識して実行している人は少ないように思います。
 原因は、いろいろあります。
(1) 自分の生業に当面忙しくて、わかっていても実行できない。
(2) お金に働いてもらうことを、一般に「投資」と言ってよいと思いますが、投資そのものにリスクを感じて  踏みきれない。
(3) 何も考えていない人も多い。

 弁護士として、遺産分割事件、離婚事件に取り組んでいるときや、遺言の作成をサポートするとき、その人の資産の全体を拝見します。資産の全体を拝見すると、どうしてもその人の資産に対する見方を考えてしまいます。
 近時は、まとまった資産をつくり、早期退職をすることを望む人が増えているように感じます。まとまった資産ができれば、後はその運用で生活できるというわけです。インターネット上で、このような立場を明言する多くのサイトを見ることができます。こうした人たちは投資について、いろいろ研究し、その成果を公開しています。
 ただし、世の中全体を見たとき、このような人は、まだまだ少数でしょう。何もそこまでしなくとも普通の生活はできるからでしょう。
 しかし、弁護士として、いろいろな紛争を振り返って見たとき、資産をどのように配置するかは重要な問題です。
 それは、収益性を高めるという問題だけでなく、安全性の問題でもあり、代々承継するための問題でもあります。
 弁護士としての仕事だけならば、紛争に決着をつければ良いのかもしれません。しかし、その人にとって、本当にベストの解決のためには、資産の配置まで踏み込んで考え、修正するべき所は修正しなければなりません。
 そもそも、紛争にならないように、資産の配置を考えなければなりません。


遺留分制度は、ファミリーの生活保障として、前向きに受けとめる必要がある。
すなわち、資産の半分は、ファミリーの生活保障に充てる。

遺留分にしばられない部分は、資産をもつ人の考え方で決めることができる。
   
資産は何のためにあるか。
客家人は、自分の財産は子供に残すのではなく一族のために残すという考え方をしているという。客家人の間では、「公嘗」と呼ばれる共有財産制度がある。この共有財産は、子弟の教育費に充てられることが多かったという(「客家の鉄則」P.130)。
 
三井家では、財産は共同所有という「身上(しんしょう)一致」の家法を定めたと聞く。
この共同所有のあり方は、民法上の「共有」ではなく、学説で議論されている「総有」や「合有」に近いと思われる。

「総有」とは、数人の1つの物に対する共同所有ではありながら、共同所有者の持分が否定されるか、あるいは不明確なものとして潜在的なものにとどまるとみられ、その結果、共同所有者は、主として物の利用権を有するのみで、持分処分の自由や分割請求の自由は否定されるところの所有形態をいうとされる。
物についての管理権も各共有者が行うのではなく、一部の者に委ねられるのが通常であるとされる。

一族の財産の管理のあり方として、合理的であると考える。

近代になり、民法が「共有」について、持分処分の自由や分割請求の自由を認めたことにより、個人主義が徹底された。このことは、個人の意識を変え、民主主義の考え方の普及となり、社会の活力となったと評価される。
しかし、個人主義・民主主義の理想とする個人のあり方を、全ての個人に期待できない状況も認められる。
ここでも、個人主義・民主主義と集団主義・独裁主義の間で、綱引きがある。

財産の管理を委ねることができる、有能で、志の高い人をいかに見つけ、団結できるかが重要である。


 「子孫のために美田を残す」は、当然の事柄であり、正しい考え方である。
 「子孫のために美田を残さず」でやっていける子孫であれば、美田があっても、なくてもなっていける。むしろ、美田があった方が、よりやっていける。
 問題は、「子孫のために美田を残さず」でやっていけない子孫のためにどうするかなのである。
 歴史を振り返った時、偉大なリーダー、芸術家は、全くの無産の家からは出ていないことに気づく。
 したがって、問題は、子孫が、より良い人生を手にするために、どのようにサポートをするかという点にある。
 「美田の残し方」に眼目があるのである。


裁判所の判断について、不思議と思うことがあります。
「収益不動産の評価が本当に低い。」
 1億3000万円で建築された建物(築3年8月)
 ファミリータイプ(2LDK)12室。現在、満室。
 平面駐車場14台付。
 月額108万円の賃料収入あり。
 不動産鑑定を行うと、建物については、5800万円と評価された。
 借入金の返済は、月額50万円。
 土地の評価額は、9000万円(これについては、双方、争っていない)であり、土地建物の合計は、1億4800万円。利回りは、8.8%。
(建物について、実際の取得価額で計算すると、土地建物の合計は、2億2000万円。利回りは、5.9%)

 問題は、この土地建物は、借入金債務を差引くため、評価が、1800万円となることです。
 仮に、借入金の残っていない自宅マンションがあり、その評価が1800万円としたとき、収益不動産と自宅マンションと、どちらを選びますか?
 誰が見ても、収益不動産ではないでしょうか。
 ところが、裁判所の判断は、どちらも評価は同じで、どちらが選ばれても不公平はないというものです。
 うーん、財産観の違い?これを公平と考えて疑問を感じない裁判官が分からない。私なら、収益を生むものを財産と考えますけどね。
 しかし、大事な点は、裁判官は、このように考えるという現実を、素直に見つめることです。このような「違い」を利用することによって、自らの遺産分割協議を有利にすすめることはできるでしょう。


 父親(または母親)(被相続人)が生きているうちに、相続人が集まって、次のような合意ができ、合意書まで作ったとします。
1 相続人の一人が全てを相続する。
2 その代わり、その相続人は、東京での仕事をやめて、親元に帰り、同居して親の面倒をみる。
 父親(または母親)が死亡した後、親の面倒をみた相続人は、合意書に基づき、全てを相続できるでしょうか。
 結論は、できないのです。合意書は無効というのが裁判所の認定です。相続人の一人が全てを相続するというのは、他の相続人が相続を放棄するということであり、相続放棄は、父親(または母親)(被相続人)の存命中は、法律上できないから、というのが理由です。
 その結論は、私には違和感がありますし、同じように感じる方も多いのではないでしょうか。しかしながら、裁判官は違和感を感じられないようです。
 裁判所の理屈から判断すると、自分以外の相続人を、東京から親元に呼び寄せるために、「全て相続させてやるから」と条件提示し、合意が無効であることをわかっていながら、合意書にサインをしても、同じ結論になると思われます。
 うーん。これで良いのだろうか。
 しかし、これが現実です。


遺産分割事件で、賃貸アパート、貸ビルなどを個人名義で建設され、亡くなられた方のケースをよくお見受けします。
裁判所は、遺産分割でもめた場合、共有で相続させることを、極度に避けます。
確かに、共有状態にしてしまったら、その管理をめぐって別の紛争になることはあります。したがって、共有は避けた方が良いとは思いますが、その結果、分割の方法がかなり制限されてしまうことがあります。
私は、収益物件は、個人所有とせず、会社所有として、相続の対象にならないようにした方が賢明であると考えています。
そもそも収益物件を建設されたのは、子孫全体のためだったと思います。そうであるならば、収益の分配を柔軟にできる方法を考え、実行すべきではないでしょうか。


楽しい人生であったと言って死ねたらいいという意見がある。おおよそはそうであろうが、では何が楽しい人生でなのか、今、分かるだろうか。
おいしいものを食べて、楽に暮らすことが人生の目的であると明言している人がいる。
それは、結果として、そうなることがあるだろうが、人生の目的ということはできない。

人生の目的は、どこまでも行っても、社会との関係で考えられるものである。人々の役に立つこと、有用な人材を数多く育てたことなどである。
楽しい人生も、社会との関係の中で考えられるべきである。

近時、この点が曖昧になっているため、個人主義的な幸福が前面に出過ぎている。そのため、経済的な規模で判断し過ぎている。お金があれば、それに比例して幸福になれるという考え方が強い。
しかし、お金だけでは、味わえない境地があることをもっと知らせなければならないと思う。

お金があれば大概のものは手に入るという意見があるが、この点は、もっと正確に教えるべきである。
人間の考える力、理解する力、伝える力など、その人が後天的に獲得した人間の中にある要素こそ大事である。もちろん先天的な要素も大きいであろうが、なぜ獲得できたかが分からなければ、それは真に自分のものとなったとはいえないだろう。

お金があれば幸福になれるという人は、お金があれば、おいしいものを食べて、楽に暮らすことができると考えるかもしれない。
しかし、お金がほとんどない時と比較すればそうかもしれないが、ある程度のお金があると、必ずしもそうでないことは、分かるのではないか。お金で簡単に手に入るものは、飽きも早いのである。お金だけでは、その先に進めないのである。
その先に進むために、人間の考える力、理解する力、伝える力などが必要になるのである。
人間の考える力、理解する力、伝える力などを使い、さらに新しい境地に踏み込むことこそが、楽しい人生であったと言えるために必要である。


自分一代で結論が出るほど世の中の仕事は簡単ではない。
だから、自分だけで何ができたかできないかを判断し、自慢したり、逆に絶望したりする必要はない。
自分には後継者があり、それが代々続いていくものだということを感じとることが大事である。

この代々続いていくということが重要な価値である。
 
人生は基本的には苦であると思う。

年配者を敬うのは、長くこの苦を体験された人だからであり、年少者を思いやるのはこれから彼らがこの苦を体験するからである。
 
こうした人生の中で代々続くためには、自分は後継者のために働くのだという気持ちを忘れてはいけない。

現在の税制の中での承継を考えるとき、自分名義のものを後継者に譲るということではいけない。

最初から後継者のために働き、伝えるべきものは最初から後継者のものとして渡すべきである。


「1955年体制」とは、高度経済成長期に、稼いだ富を幅広く国民に分配して中流社会をつくっていこうとした時代をいう。結果的に自分は中流だと考える人が国民の6割となった社会が実現した。
 しかし、中流化というが、それはフローに着目しての評価であり、資産というストックに着目する考え方が、マスコミでは少ないように感じる。

 「日本のお金持ち研究」という本があるが、「お金持ち」を、国税庁「全国高額納税者名簿」により?2001年度版で年間納税額3000万円以上?2000年度版記載者で決定している。しかし、これは、フローに重きを置きすぎた方法であると思われる。

世間の人の「お金持ち」のイメージが、どうも違うように思う。「お金持ち」の姿を訂正させる書籍も多いが、紛争の現場にいる一人として、このあたりがいつも気になる。


 ある程度まとまった財産を築いたと考えたならば、その配置をよく考えるべきである。
 まだ築いていなくとも、築いた場合にその配置をどうするかを考えてみるべきである。
 ある程度まとまった財産とは、どれくらいか。
 5%の運用利回りで、1年間に必要な金額がまかなえる金額くらいに考えてもいい。
 5%の運用が本当に可能かという問題もある。
 しかし、本当の問題は、1年間に必要な金額とは何かということ。
 単純に生活費じゃないかと思われるかもしれないが、ファミリーの将来に思いをいたすと考えるべきことはいろいろ出てくる。
 いつ頃、いくら必要かは、それぞれファミリーによって違ってくる。
 子が、収入は安定しないけれども、やる気をもって取組んでいる職業に就いている場合、孫の教育費だけは最低限補償してやりたいという場合もある。
 こうしていろいろ考えたことを、子孫が評価してくれるかどうかは、わからない。
 しかし、いろいろ考えたことを子孫にきちんと伝えるべきだ。


養子縁組の話がまとまり、養親と養子とは、証人2人の判をもらい、届出をなしました。
このとき、養子縁組をなしたことは、当事者だけの問題とし、親族にも公表しませんでした。
届出書の判は、実印を利用しませんでした。
証人は、親族ではない人でした。
ところが、10年経過し、養親は、養子に対し、養子縁組をした覚えはないと、養子縁組の無効を争いました。
こうなると、養子の方で、養子縁組をしたことの立証をしなければなりません。
証人は、10年前のことを覚えておらず、確かに証人になったけれども、どのように養子縁組の意思を確認したか覚えていませんでした。
届出書の養親の署名についても、本人の署名と確認できる資料がありません。
実印でないため、印鑑は誰のものかはっきりしません。
周囲の人は、養子縁組があったことを知りません。
結果として、養子は、養子縁組の立証について、苦境に陥ってしまったのです。
このようなことは、特殊なケースと思われるかもしれませんが、思わぬことが裁判では起きます。


自宅、ビル、アパート、会社の株式、大きな土地などの遺産分割は、なかなか円満に解決できません。

Aが亡くなり、その妻Bに大きな遺産を相続させることは比較的容易ですが、その後Bが亡くなって、A、Bの子供が兄弟間で分割相続する二次相続を迎えると、大きな財産についての分割は遺言書だけでは簡単に解決できません。
親は、生前に自らの意思で分割できる財産にしておく必要があるでしょう。

不動産やその他大きい財産については、分けられない、不公平の無いように、との理由から、共有にしてしまう場合があります。
しかし、共有は後々大きな問題を引き起こすことがよくあります。可能な限り単独所有できるよう、分割可能な形で遺産を残すことは有益です。

一方、法制度はどうなっているでしょうか。
民法は兄弟姉妹に平等に相続権を与え、遺言書で一人だけに相続させようとしても、他の相続人にも遺留分の請求を与えています。
このことをみても、財産を分割可能な単位で残す必要性をお分かりいただけると思います。


一人住まいの老親が増えていると感じます。
その面倒をどのようにみるかという問題もありますが、その老親が亡くなられてから、自宅の相続をどうするかという問題も切実なものがあります。
子供は、既に独立し、仕事の関係で親元には戻る予定がなかったり、既に自分の家を持っていることもあります。
使う予定のない自宅が出てきます。
この場合、空家にしておくか、誰かに貸すことになります。
空家は無用心ですし、使わないとかえって傷むという問題があります。
誰かに貸すとなると、建物が標準な作り方でないと、なかなか適当な人が見つかりません。
こうなってくると、自宅は本当に資産なのかと疑問も出てきます。
遺産分割事件でも、誰がそれを取得するのか、誰も取得を希望しないこともあります。
自宅が余れば、良好な賃貸物件が市場に多く出てくるでしょうから、それはそれで良いことでしょう。
しかし、貸すことを考えて自宅を作らないといけないでしょうね。
建築請負に関する事件を担当していますと、皆さん、自宅に対し、強い思い入れがあることがわかります。自らの個性を発揮するのは大事だと思いますが、第三者としての眼も必要でしょう。
古い建物があると土地を売却しにくいということで、次から次へと建物が壊されていくのを見ると、もう少し方法があるのではないかと感じます。


人生において経済的に成功したならば、自分(家族)のためにお金を遣わなければ意味がないという考え方がある。
「自分へのご褒美」という言い方もある。
「お金は儲けることよりも、遣うことの方がむつかしい」という言葉もある。
将来、自分はどうしたいのかを明確にして、その実現のために何に投資していくのかを考えるべきだという考え方もある。
無制限にお金を欲しがることに対して注意するという面ならば妥当な提案もあるだろう。
しかし、お金の目的を、消費という方向へ小さく限定してしまうことには危惧を感じる。
子供や孫に対する教育の充実など、考えるべきことはいくらでもあると思われる。


この共同所有のあり方は、民法上の「共有」ではなく、学説で議論されている「総有」や「合有」に近いと思われる。

「総有」とは、数人の1つの物に対する共同所有ではありながら、共同所有者の持分が否定されるか、あるいは不明確なものとして潜在的なものにとどまるとみられ、その結果、共同所有者は、主として物の利用権を有するのみで、持分処分の自由や分割請求の自由は否定されるところの所有形態をいうとされる。
物についての管理権も各共有者が行うのではなく、一部の者に委ねられるのが通常であるとされる。

一族の財産の管理のあり方として、合理的であると考える。

近代になり、民法が「共有」について、持分処分の自由や分割請求の自由を認めたことにより、個人主義が徹底された。このことは、個人の意識を変え、民主主義の考え方の普及となり、社会の活力となったと評価される。
しかし、個人主義・民主主義の理想とする個人のあり方を、全ての個人に期待できない状況も認められる。
ここでも、個人主義・民主主義と集団主義・独裁主義の間で、綱引きがある。

財産の管理を委ねることができる、有能で、志の高い人をいかに見つけ、団結できるかが重要である。


以前、テレビ朝日の報道ステーションで、巻物となった「堤家の遺訓」が再現されて、紹介されていた。
そこでは、トップ(家長)は、財産の管理人であると規定されていた。
この考え方は、「総有」という考え方に近いものがある。

ところが、報道ステーションでは、堤義明氏のワンマンぶりから、西武鉄道の株式名義借り事件を、財産への執着として取り上げるのみであった。その捉え方は、「財産の管理人」と規定する「堤家の遺訓」の考え方を、全く理解しないものであった。

「堤家の遺訓」が、単に、堤家の繁栄のためにのみ創られたとするならば、基本的な考え方に誤りがあったと考える。しかし、財産を、社会に役立つよう「管理する」ことを述べたものだとすれば、立派なことである。
結局、財産を何のために作り、維持するかを明確にすることが必要である。


人間は、幸福なことと不幸なことが同時にあったとき、不幸なことに引きずられる。
それは、幸福なことが白い絵の具、不幸なことが黒い絵の具とすると、2つが混ぜ合わされたとき、少しでも黒が入ると白にはならず、それを白にしようとしてどれだけ白い絵具を足してもなかなか白にならないのと同様である。
 
したがって、人間の幸福を感じるためには、不幸を減らすことにつきる。
不幸を減らすためには、不幸となるリスクがあることをできる限り減らすことになる。
やるべきことを減らす方向で生きることになる。


若いころは、何を捨てていいかが分からず、何でもそろえて持っていた。

ところが、年をとるにしたがって、面倒くさくなることもきっかけとして、余分なものを捨てようと思うようになった。
そもそも保管しておくスペースもなくなってくる。

捨てるからには必要かどうかの判断がいる。

自分の残りの人生から逆算して、あまり活用する見込みのないものは捨てられるようになる。
持っていても使わなかったものが累々と並ぶため、決心もつきやすい。

この辺の捨てる決心が年寄りの強みだと感じる。


生まれるにあたっては、そのファミリーに多くの蓄積があったからである。

いろいろな蓄積(土壌)の上に、偉大な人(花)が登場することを理解するべきである。
いろいろな蓄積とは、経済的なものだけでなく、人脈、価値観、育ちなど、ファミリーの全てが含まれる。

しかし、ファミリーの内輪まで見ることは、通常、難しいし、紹介されることも少ない。したがって、偉大な人が生まれた背景について、その全体を理解することは、至難のわざだと思う。

注意深く検証し、洞察力を働かせるしかない。


相続税対策として、財産をどのような形にすれば相続税を軽減できるかについて書かれたものは多くあります。
しかし、ここで提案したいのは、自らが子孫のために頭を使い、働いて、子孫に財産を残す方法です。
子孫が持っている財産(最初は、子孫に贈与してあげれば良いでしょう)の管理人となって、子孫の財産を増やすことを手助けし、同時に、子孫に財産の管理方法を伝授していくことが、大きな相続税対策となります。


 西郷隆盛の「子(児)孫のために美田を買わず」という考え方を、どのように受け止めるかは、正直なところ、現時点で、私には確信を持った考えはできていません。
 むしろ、私自身は、「子孫のために美田を買う」といった、正反対の考え方をとっています。
具体的には、子孫の教育費を安定的に確保するために、収益不動産を取得し、管理することは、検討してよい課題だと考えています。


1 お金を使うと言っても、飲み食いに使うのであれば、胃袋の大きさは知れたものですから、その金額も知れたものでしょう。
2 高価品を買うために使うことは、どうでしょうか。
 ここは、人によって差があるところでしょう。欲しいものがいくらでもあるという人もいますが、どこかで飽きがくるのではないでしょうか。
 お金を稼ぎたいと考えている人は、なかなか使えないでしょうし、お金がお金を生む力を知っている人は、ますますお金の投資的効果を考えてしまい、高価品を買うために消費することはできないでしょう。こうした人は、お金を使うと言っても、投資になってしまうでしょう。
3 ギャンブルはどうでしょうか。
 競輪、競馬などに使うと言っても、遊びの範囲ならばともかく、身を崩す程使う人の心境は、私には、よく分かりません。
 こうしたギャンブルよりも、毎日の仕事の方が、刺激的でおもしろいと思います。

※ 結局、お金を自分のために使うことは、知れたものではないかと思います。

4 異性のために使うのはどうでしょうか。
 このあたりになってくると、状況によって、様々です。
 男であれば、大事な妻・恋人のために使うということから、愛人のために使うこともあるでしょうし、異性でない場合もあるのでしょう。
 人のために使うことで、自分もいい思いをするというお金の使い方は、初めの一歩かもしれません。
5 世のため人のために使うのはどうでしょうか。
 ますます、人によって様々でしょう。
 公器ともいえる企業・学校・病院をつくること、芸術のためのパトロンになること、寄付をすることなどなど。
 この段階になると、全人格を投入する世界となり、それは、お金を使うことなのか、投資なのか、はたまた単に世の中のお金を管理しているだけなのか、かなり曖昧です。これは、弁護士としての実感でもあります。
 


たとえば、資料、備品を集約して、先祖と対話できるスペースを創ってみたらどうだろう。

資料は、個別のファイルに保管されて、日常業務のために使われることが大部分であると思われる。
たとえば、学校からの配布物は、紙ファイルにとじて保管してみえる方も多いのではないだろうか。

しかし、そのファイルが不要になった時点で整理する必要がある。
たとえば、卒業した時点で、前記紙ファイルは不要になるから、整理するべきである。

整理の方法としては、歴史的に判断して、残すべきものをピックアップして、時間順の「歴史ファイル」に綴じることとする。

しかし、自分で全てを決めるのではなく、いくらか絞込みをするくらいにする。
歴史的判断は、後のファミリーの担当者の判断に委ねるしかない。


ご先祖様は何を価値ある財産と見たのかをよく確かめるべきだろう。弁護士としても、そう思う。

単に金銭価値があるものではなく、ご先祖様の苦労が偲ばれ、勇気づけてくれるものこそ、家宝と言っていい。それは単なる紙切れであることもあるが、歴史的価値は計りしれない。
たとえば、徳川家康は、今川義元との合戦の中で、命からがら逃げ帰った際の疲労困憊した姿を描いた絵を子孫代代見せたという。
本来ならば、あまり見せたくない姿のように思われるが、全く別の考え方をとっていて興味深い。

何を財産として残してくれたかという問題は、自分自身がご先祖様になるとき、どうするかを考える機会になるだろう。

日常生活は忙しく、そこまで考えられないという思いの方も多いかもしれないが、今一歩踏み込んでみることで少しずつ変わってくると思う。




 国民栄誉賞作曲家である吉田正氏を相続していた未亡人が亡くなられた後、著作権などの遺産がどうなったかについて、週刊新潮(2011.8.25)の記事があった。
 著作権などの遺産の行方について、私は評価できるだけの判断材料をもっていない。
 しかし、こうした記事を読み、弁護士として思うところは、財産を残す人は、その財産の行方・あり方について、もう少し考える必要があるということである。
 財産は、相続した人がどのように使おうが全く自由であり、この自由は大事なところである。吉田正氏の相続人が、相続財産をどうするかは自由である。
 しかし、吉田正氏も、その未亡人も、週刊誌の記事でこのように報じられることは全く考えていなかったのかもしれない。
 財産を残す人は、その財産の行方について考え、その考えを実現する方策を実行するべきだろうという思いを強くした。