B7 限りある時間

 文化など、楽しむためにある程度の時間を要する場合、自分の全人生をそれで埋めつくすことができる人は、続々と生まれているだろう。
 音楽、映画、観劇もそれを楽しむためには、時間の経過がいるから同様だと思う。
 絵画の場合、一瞬で見ること(もちろん全てが一瞬で見ることができるものではないが)はより容易だろうから、少し違うかもしれないが、絵があるところまで出向く必要があることを考えると同様になってくるかもしれない。
 しかし、「自分は、好きなことをして、一生を過ごすぞ。」と考えたとき、大いなる決断をしなければならない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B6 作家と自分との対比

 自分が、これまでしてきた仕事を想い起こし、これからやっていこうとする仕事を考えるとき、各人それぞれに、いろいろな事柄が出てくるだろう。仕事以外でも構わないが、各人の人生を想い起こし、これからを考えてみるとき、同様だろう。
 私の場合を例にとれば、大学で法律を学び、弁護士として勤務し、独立して自営してきた。自分のこれまでの年表を作ろうと思えば、作ることができる。
 たとえば、独立した年齢は、30歳であった。
 気になる作家の同じ年齢の作品を見てみるとどうだろうか。
 草間彌生が初めて版画作品を制作したのは1979年、50歳のときであった。50歳のときの自分を思い起こすとどうだろうか。
 美術の作家は、その人生を記録にとどめている。作品は、作家の人生の一断面であり、また時代を反映するものかもしれない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B5 同時代の作品に見られる共通性

 現代美術を名前に入れる美術館を見ていると、現代美術の中でも、ある特定の時期の作品を主として展示する美術館がある。美術館のオーナーが収集を始めた時期によるものである。
 こうした美術館で感ずることは、そこでの作品に価値があることを否定するものではないが、集められた作品には、同じカラーがあることである。同じオーナーが収集しているのであるから似てくる面もあるだろうが、いろいろなアーティストがいても同時代のカラーが出てくる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B4 他の作家に似ているということ

 赤塚一三の「木間の親子」を購入しようと決めたとき、松坂屋百貨店の画廊の人が、「ルオーのような絵」と評した。
 赤塚の個展の中で、新しい絵は、全般的に砂糖のようなものを感じ、その中で、人間が入れられた「木間の親子」に内面的なものを感じたため、購入を決めたものである。
 私は、ジョルジュ・ルオー的とは思わなかったが、言われてみると、絵の印象としては近いものがある。
 ジョルジュ・ルオーは、パリの美術学校でモローの教室に学んでおり、アンリ・マティスなどがその仲間とされている。マティスが「豪奢な装飾性と大胆な色面構成との統一による秩序を求めた」のに対し、ルオーは、「内面世界の表現に向かう」と評されている(西洋美術史159頁)。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B3 芸術作品と芸術家の関係

 芸術作品は、その作品のみを通して評価されているのか、その作者である芸術家の人となりも含めて評価されるのか。
 この問題は、昔から存在する問題であろうと思われるし、既に論じ尽されているか、ひょっとして結論の出ている問題なのかもしれない。どちらが良いか悪いかの問題ではなく、その人ごとに自由に考えれば良いことなのかもしれない。
 芸術作品の中には、その作品だけでは、その意味が分からず、直感的に受けとめるにしても受けとめ方のわからないものもある。しかし、その作家のこれまでの姿や、これからの進め方についての考えがわかることにより、その作家のファンになることはあるだろう。この結果として、その作家の作品にも入っていけることはあると思う。その心理は、その作家に対する応援団的な考え方があり、作品そのものの価値を明確にしていない点で、邪道なのかもしれないが、その作品の作家を知ることにより、その作品が自分に入ってきて、自分の支えとなることもある。それは、その人にとって価値のある作品と言っていいだろうと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B2 オリジナルは、どこに意味があるのか。

 基本的には、この世に1つしかないことに意味を見出すのだと思われる。それは、1人占めしたいという心情に発するものであろう。
 アーティストが直接に触れて作ったものであり、「劣化することに意味がある」とは、普通考えにくいが、そのように考えることもできなくはない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B1 オリジナル(真筆)の意味

 絵画の世界では、オリジナル(真筆)に価値をおいているように思われる。オリジナルとコピー(写真も含めて)との関係については、いろいろな議論のあるところだと聞く。
 オリジナルを物として見た場合、それには価値があると見るべきなのだと思われるが、オリジナルは、最終的には滅失する運命にある。日本の古来からの美術品の多くがそうであるように、色は落ち、剥離し、紙は破れる。黴も生ずる。そのとき、オリジナルはどのような価値となるのだろうか。
 物としての美術品としてみると、価値が落ちたと見るべきなのだろうか。この点について、オリジナルが作り出した世界が重要であって、物としての保管に重要な価値をおくべきではないように感じている。
 この立場からは、コピーであってもその作り出す世界に差がなければオリジナルと同様の価値と見てよいと考えることになるのだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

A9 多世界観

 世界は、全ての可能性が集積された結果として、存在する。時間は一方向に流れるイメージではなく、2次元的には360度全ての方向に、3次元的には想定される球面体の全ての方向に、4次元的には歴史が無限に重なるように存在する。
 その形は、多世界観のイメージと表現するしかない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

A8 湯治

 いろいろな温泉に行くうちに、昔から湯治があることを知った。医学的な効能がどれほどかはわからないが、体感として、気分的には良いだろうと思う。
 2010年9月23日から26日まで、増富温泉不老閣の湯治棟に、3泊したのが初めての長期宿泊であった(長期と言っても3泊だけど)。仕事をかかえる人間にとっては、なかなか長期休暇はとりにくい。少なくとも気持ちの点でとりにくい。
 食事は、非常食として買っていたマジックライスが賞味期限が切れたため、それを用意して出かけ、途中、温泉への山道に入る手前にあった食品スーパーで購入したもの(キムチ、もずく、ヨーグルト、チーズなど)を少しずつ食べた。
 不老閣では、天然岩風呂に1日3回程度は出向き(説明書には、放射線が強いので1日1回の入浴と記載されていたが、皆さん何回も入っていた)、また、宿の周辺も散策した。近くの金泉湯は閉鎖されていた。
 湯治は、おもしろかったが、3泊が限度だったかもしれない。何もしないで湯治だけに専念することは、ある程度予想していたとおり、なかなかむつかしい。
 しかし、海外旅行であれば、1週間程度、仕事から離れることは、これまでもあったのだから、湯治を転泊としたり、ある程度の距離の散歩を組み合わせると、飽きないでできるかもしれない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

A7 温泉

 温泉が好きになるきっかけは、榊原温泉の源泉風呂だった。ぬるい温度のため、ゆっくり入ることができ、温泉の香りを楽しむことができた。
 もう1つのきっかけは、一般社団法人日本秘湯を守る会を知り、宿泊するたびにスタンプ帳に押印してもらうことであった。いろいろな個性がある温泉があることを知り、各地に出かけることにより、温泉を知ることができた。
 これ以外にも、「カラー版 温泉教授の日本全国温泉ガイド」(松田忠徳著)、「温泉旅館格付ガイド」(松田忠徳著)などを参考にして、宿泊、訪問するたびに、そこをラインマーカーでチェックすることも各地に出かけるきっかけとなった。私は、基本的に、同じ場所に何回も行くよりも、新しい所へ行きたい性分であり、ガイドブックに紹介された所へは、ある程度の数は行ってみたいと思う。ただし、全制覇することを目的とするものではないから、ある程度の割合になれば良い。
 ある程度の割合になることにより、自分の到達度が大体どれ位かわかれば良いのである。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink