C1(4) 繰り返し

 美術作家は、繰り返しの中から道を見つける。
 これは、美術に限らず、どの世界でも言えることだろう。
 繰り返しの中で気がつく差異が、本質の把握へとつながる面がある。
 また、繰り返しの中で、外部の人から作家としての理解が得られる面もある。(これは、1つの作品のみで作家を理解することは困難だという前提に立つ。1つの作品のみでも、作品としての理解はできるという考え方も当然にあるだろうが、私の関心は、作家にあるということかもしれない。)


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C1(3) 自然の観察は、いかなる意味があるか。

 赤塚一三の意見では、対象物・自然への取組みと、自分の中の成生物とは、かみ合わされる必要があるという意見を聞いた。そうすることにより、自然の中にある豊かな情報を生かすことができるという。
山内亮典は、雑誌などの写真を基にして油絵を描く。その理由は、現実の場面(自然)から描く(写生する)と情報量が多すぎて自分では収拾がつかないこと、収拾の努力をしているとその構図から自由に展開することが制約されてしまうこと、にあるということだった。
ゲルハルト・リヒターも写真から油彩をつくる作家であるが、リヒターが写真をほぼそのまま絵画とするのに対し、山内は、写真からの展開を行う点で異なるということだった。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C1(2) 描くべきものが何かはっきりしているかどうか。

 描くべきものが何かはっきりつかんでいれば、後は、どのような手法によるかの問題となる。
 描くべきものが何かはっきりつかんでいないと、描きながら探し、どこかでつじつま合わせをすることになる。
 また、どこかからいくつかの材料を引っぱってきて、それをアレンジすると、それは描くべきものなのか手法なのかはっきりしなくなるだろう。
 描くべきものをどのようにつかむかは、体感であったり、思考であったり、人それぞれであろう。したがって方式化しにくいと思われるが、材料を客観的に並べ、描くべきものをつかむ道筋を明確にするべきと思う。
 ゲルハルト・リヒターの「アトラス」は、こうした道筋を明らかにするものと考える。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C1(1) プリニウス「博物誌」

 「なぜ、これがアートなの?」(アメリア・アレナス著)の中で、大プリニウスが書いた自然に関する本のなかではじめて紹介された、ラブ・ストーリーが示されている(189頁)。

 「昔々コリントに、陶工の父をもつひとりの娘がいました。二度と再び会うことのできない男と一夜をともにした彼女は、その夜、口に出してはいえないよう衝動に駆られて、壁に映った恋人の影を線でなぞりました。翌日、娘の絶望的な思いを知った父は、その輪郭線に粘土を埋め込んだのです。こうして、はじめての彫刻がつくられました。」

 アレナスは、このコリントの娘の物語を、ソフィ・カルの美術作品「盲目の人々」を例にとり、アートの本質を語るアレゴリー(寓話)として、とらえている(193頁)。
 「アートにたいする私たちの反応もまた、この作品(ソフィ・カルの作品)が語るように、私たちが感じることと想像することの、そして私たちが知っていることと、知っているつもり(、、、)のこととの、気ままな組み合わせの結果だからである。それは知覚と期待、閃く直感と「美しき誤解」の絡み合った迷路。美術作品からどんな感動を得ようとも、それはこういった錯綜したプロセスから生まれるものなのだ。それはアーティストが「生」や「現実」のまわりの影をなぞって描いた微かな輪郭を、私たちが自らのイメージで埋めていく作業なのである。」
 美術作品を見ることの意味を具体的にとらえていると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B13 絵合(えあわせ)(源氏物語)

 絵合の巻を読んだとき、紫式部の時代から、互いに名画の数々を出して優劣をつけ、対戦するという遊びが行なわれていたことは、驚きであった。しかし、現代においても、富裕層がサロンにおいて、見せびらかすように絵画を見てもらうことはあるようだから、昔から変わっていないのかもしれない。
 村上隆は、アートは基本的に大金持ちのためのものと断じている。これも、この伝統に基づく意見だろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B12 ヴィック・ムニーズ

 ムニーズは、名画や歴史的出来事を身近にある素材で再現し、写真に収めた作品で広く知られる。初め立体作品を制作していたが、自身の作品を写真で記録していくうち、立体そのものではなくそれを撮影した写真を作品として発表するようになった(グローバル・ニュー・アート タグチアートコレクション♯01、283頁)。
 (ゴミアート)


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B11 大塚国際美術館

 大塚国際美術館は、世界の名画を原寸大で陶板に複製して展示している。これにより、(1)美術書や教科書と違い、原画が持つ本来の美術的価値を真に味わうことができ、日本に居ながらにして世界の美術館が体験できる。(2)元来オリジナル作品は近年の環境汚染や地震、火災などからの退色劣化を免れないものであるが、陶板名画は約2000年以上にわたってそのままの色と姿で残るので、これからの文化財の記録保存のあり方に大いに貢献する、とする。
 これは、オリジナルの意味を問うものであり、見方によっては、大胆な挑戦であるように思われる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B10 ブレイクする前の作品

 美術作家は、世界中どこでも、どのように収入を得て、生活するかという問題をかかえながら、作品の制作に取り組む。
 その作家がブレイクして、人気作家となれば、収入の不安は解消されるだろう。しかし、そうなる前の段階では、評価を得るために、作家それぞれに苦闘すると思われる。
 したがって、作家の初期、中期の作品には、このような苦闘が何らかの形で表れるのではないかと考えている。
 草間彌生の「花を踏みしだく」から「靴をはいて野にゆこう」への間にも、それを見つけることができるのではないかと考えている。
 草間彌生が世界的にも認められ、一般の人にも受け入れられるようになった後、部屋を一杯にする水玉の作品が生まれている。その作品は、巨大な画面一杯に展開するネットの作品に遡るのかもしれないが、精神的病いを感ぜざるをえない作品からそれが払拭されたものへと大きく展開している。
 このような大きな展開の起点が、「花を踏みしだく」から「靴をはいて野にゆこう」への変化にあると考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B9 同時代の人間として

 後期ポストモダン時代の芸術として、松井みどりによって「マイクロポップ」と呼ぶアートの傾向が指摘された。
 マイクロポップとは、制度的な倫理や主要なイデオロギーに頼らず、様々なところから集めた断片を統合して、独自の生き方の道筋や美学を作り出す姿勢を意味しているとされる。それは、主要な文化に対して「マイナー」(周稼的)な位置にある人々の創造性であるとする。
 しかし、そのような流れがあるとしても、現代美術の主要な流れとすることには無理があると思われる。
 現代美術をこのようにとらえてしまっては、辻(※点2つ)惟雄が「日本美術の歴史」の中で、現代美術が社会から疎外されている状況は、現在もさしてかわらない。」(420頁)と記述するように、「マイナー」な位置からぬけ出すことはできないだろう。
 現代美術の作家は、同時代の人間として、大筋をとらえるべきだと思われる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B8 現代美術の大筋

 アメリカにおける抽象表現主義(1940年後半?1960年代)とヨーロッパにおけるアンフォルメル(1950年代)を見るとき、抽象化の重要な意味を忘れるべきではない。
 また、ダダ(第1次大戦後)の大きな影響を見るとき、現実への怒り、否定、破壊といったエネルギーの重要性も忘れるべきではない。
 抽象化とダダによってもたらされたネオダダ、ポップ・アート、ミニマル・アート、フルクサス、さらにはコンセプチュアル・アートなどの到達点は、歴史として重要である。それは、モダニズムの到達点と言っても良いだろう。
 これに対して、ポストモダニズムの中から、新表現主義が出てきたことは、モダニズムの歴史の中での変化を見るならば当然のことであろう。そして、ポストモダン芸術として、いくつかの波が現れたことも理解できるところである。もちろん、ポストモダン芸術の中にもコンセプチュアルな傾向をもつものもあり、その流れをきれいに整理することはむつかしいと思われるし、整理することが目的ではない。
 しかし、大筋の歴史は理解される必要があると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink