C1(12) 師の存在
師とは直接の面識があった方が、良いだろうとは思う。
特に、自分が未熟な場合は、直接の面識があり、コミュニケーションの中で気づきを得ることが必要だろう。
しかし、時空を超えて、師を見つけることも可能である。
特に、ブログなどで個人の発言が容易になり、発言を知る中で、師と考えることも可能である。
師とは直接の面識があった方が、良いだろうとは思う。
特に、自分が未熟な場合は、直接の面識があり、コミュニケーションの中で気づきを得ることが必要だろう。
しかし、時空を超えて、師を見つけることも可能である。
特に、ブログなどで個人の発言が容易になり、発言を知る中で、師と考えることも可能である。
選択は、偶然であったり、縁であったりする。
自分の仕事、趣味、配偶者、友などなど、全ての可能性を検討して選択することは、ほとんど不可能だろう。
大事なことは、選択してから、また、選択の進行中に、それをいかに深めるかにあると思われる。
徳永英明のコンサートに先日出かけ、レイニーブルーを初めて聴き、良いなあと思い、車の中でも聴いている。作詞は、大木誠。
別れを扱った歌詞であるが、世の中にはいろいろな別れがあって、人それぞれに別れを想い起こすのだろう。
レイニーブルーという言葉が、どの程度の落ち込んだ気持ちを表わしているのか詳しくないが、終わりの熱唱を聞くと、大きなもののようにも思える。
歌詞には、「帰り道」、「交差点」、「あなたの白い車」などがあり、その連想や、終わりの熱唱の感覚からは、事故死という別れもありうるのだろうかと考えてしまうが、歌詞を正確に理解するならば、それは誤りだろう。「事故死だったら、普通、あのような思いは抱かない。あたりまえじゃない。」と言われそうだ。
ある具体的な別れが、歌詞になることにより、抽象化が始まる。抽象化の中では、誤解も生まれる。抽象化により、いろいろな人の思いを乗せることができて、広がりとなる。広がりの中から、多くの人は、自分の「具体」へと戻ることもあるだろう。
具体と抽象を自由に行き来する中で、客観視もできるだろう。
美術の世界の、具体と抽象にも共通するものではないかと考えている。
(1)省略へと向かう抽象・・・ミニマル・アート、コンセプチュアル・アート
(2)現実データ(具象)で構成される抽象・・・モランディ、アペルとの対話
スポーツでは、例えばフィギュアスケートの採点方法が変更になることにより、選手にとって有利不利に影響する。したがって、ルールの設定の仕方は重要な問題であることは、明らかだろう。スポーツの場合、参加者はルールに基づき競技することは、当然の前提であるため、ルールの設定が重要であることは、わかりやすい。
経済行為についても、ルールの設定があり、その設定方法が利益等に影響するため重要であることは明らかだろう。金融取引に対する規制など、報道されているところである。
これに対して、現代美術の世界はどうか。村上隆さんの指摘では、ルールがあり、それを踏まえる必要があるとのことである。私は、美術の世界に詳しいものではないが、フォーマリズムが、モダニズム芸術の規範とも言えたことや、アメリカの抽象表現主義から、ミニマル・アートやコンセプチュアル・アートへの流れを見ると、ルールというべきものがあるのだと思う。
私は、世の中の「競い」は、基本的にはルールを踏まえたものであり、そのルールの設定をめぐるものであると考えている。
現代美術の世界でも同様ではないかと思う。
ポストモダン芸術の中で、アレゴリー、パスティーシュ、アプロプリエイション、シミュレーションなどは、広い意味で「引用」である。
現代美術での引用は、科学論文の世界で引用がなされることに似ている。現代美術は、科学論文のようになってしまった。
内部/外部、自己/他者、善/悪、男/女など、古代ギリシア以来の西洋形而上学は、二項対立を確立してきた。
その二項対立を解消し、そこに潜む欲望を指摘するものとして、1960年代半ばころ、フランスの思想家ジャック・デリダは、「脱構築」という思想を提唱した。
しかし、日本では、二項対立という考え方は決定的なものではないと思われる。
日本人が西欧人のように絵画を描いても、西欧人の眼からは、違和感を感ずるか、無理をしていると思われるだけだろう。したがって、日本人によって描かれた西欧人の描くような絵画は、国際性があるとはいえない。
逆に、日本人のテイストがあった方が、国際的には評価されるだろう。
美術作家は、繰り返しの中から道を見つける。
これは、美術に限らず、どの世界でも言えることだろう。
繰り返しの中で気がつく差異が、本質の把握へとつながる面がある。
また、繰り返しの中で、外部の人から作家としての理解が得られる面もある。(これは、1つの作品のみで作家を理解することは困難だという前提に立つ。1つの作品のみでも、作品としての理解はできるという考え方も当然にあるだろうが、私の関心は、作家にあるということかもしれない。)
赤塚一三の意見では、対象物・自然への取組みと、自分の中の成生物とは、かみ合わされる必要があるという意見を聞いた。そうすることにより、自然の中にある豊かな情報を生かすことができるという。
山内亮典は、雑誌などの写真を基にして油絵を描く。その理由は、現実の場面(自然)から描く(写生する)と情報量が多すぎて自分では収拾がつかないこと、収拾の努力をしているとその構図から自由に展開することが制約されてしまうこと、にあるということだった。
ゲルハルト・リヒターも写真から油彩をつくる作家であるが、リヒターが写真をほぼそのまま絵画とするのに対し、山内は、写真からの展開を行う点で異なるということだった。