C2(8) 抽象画の宿命

 写真のなかった時代の絵を見るとき、当時の習俗を知る参考資料としての意味合いがある。作家の創造性を見るよりも、参考資料として見るという面が強いと思われる。これは、作家の意図するところとは違うかもしれないが、作家は、見る人にわかってもらうために、現実にある物を材料として絵を描いていることから、可能となる。
 写真のなかった時代に抽象画があったのかどうか、私は詳しくない。しかし、美術館や画集で見る限り、大部分は具象画なのではないか。(もちろん具象画でも、部分的に抽象化されたところは多数あると思うが、それが何かは、ある程度わかるものだと思う。)抽象画では、参考資料として利用することはむつかしいのではないかと思われる。
 抽象画も、作家は無目的に描いているものではないだろうから、1つの言語の世界が展開されていると言っても良いだろう。そして、その言語は、未知の世界のものだろう。
 こうして考えてくると、抽象画は宿命的に難解さがあり、大きなハンデがあることを感じざるをえない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C2(6) 美術作品への愛着は、その作品のみにあるのだろうか?

 愛着があるという場合、その作品を入手したり、作品そのものを入手しなくとも、その絵葉書を購入したりするだろう。
 美術作品を購入すると、気がつくことがいくつかある。
 その中で大きな点としては、その作品を通してその作家を理解しようと大いに遊ぶ(努力する)ことである。
 美術作品を購入するのは、その作品に何かを感じてであろうが、その作品のみで判断するものでもないだろう。
 また、何かの縁で入手してから、その作家について調べてみるということはあるだろう。そこから愛着が生まれ、深まるということはある。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C2(5) 美術作品の理解の前に、その作家を理解することがあって良いと思う。

 美術作品は、数も多く、変化に富んでいて(富みすぎていて)、作品の分析は確たる答えがなく、作品のみから入ることは困難を伴うと思われる。
 逆に、作家から見ると、作家も同じ人間であって、理解のきっかけがつかめると思われる。もちろん、作家の伝記とか発言とかを先に読んで判断するものではなく、それも利用していこうという考え方である。また、作品も当然に見るのであるが、それを制作した作家にまず着目しようとする考え方である。
 そんなことはあたり前と言われる方があるかもしれないが、これまでの美術の提供の仕方は、必ずしもそうなっていないと思う。展覧会は、まず作品を並べ、その作品の解説が添えられる。そのような中で、作家の姿やそのアトリエの写真があることにより、少しは作家を意識できると違ってくるのである。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C2(4) 資料を徹底して集めて検討すること

 インターネットで検索すれば、何事も調査のきっかけをつかむことができる。また、書籍も、中古本も含めて購入しやすい。
 現地に出向くにしても、地図を容易に入手できるし、交通機関も時刻表を含めて容易に調査できるため、計画を立てやすい。
 したがって、データ、資料を入手することに関しては、昔の賢人に比べても、劣ることはないものと思われる。問題は、データ、資料から何に気がつくかということだろう。この点は、才能、能力による差がつくところであろうが、少なくともデータ、資料を集めることにおいて劣ってはならないと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C2(3) 頭でっかち

 私は、頭でっかちと言われようが、感性とは別に、頭でも作品を見ていこうと考えている。それは、どこまでも客観性を求めたいと思うからである。
 分析の道具を見つけ、分析ができたから、それでどうだということもないように思うが、客観的なコメントがなされることにより、何らかの共通基盤ができることも何か意味があるように考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C2(2) アートは、感性のみで選べるか。

 2011年7月30日、アートフェア東京の会場を回り、考えた。
 感性で選ぶという意味が、単に好きか嫌いかだけであれば、可能かもしれない。「私は、これが好きなんです。」と言われれば、「はい、そうですか。」と答えざるをえない。主観の問題には、踏み込むにしても限界がある。
 しかし、アートをもう少し客観的な基準で選べないだろうかと思う。この点が、ここでの議論のポイントである。
 アートフェアなどで多くの現代アートの作品に出会うとき、どれを購入するかという観点で見ると、私は迷ってしまう。
 自分の感性を信じるならば、それに従って選ぶことができるのかもしれないが、そのときは気に入っても、未来もそうである保証はないように思う。
 逆に、市場での評価を気にすると、まずは自分の感性を横において、市場で評価される作品の良さをどこかに見出そうとする。自分の感性とは異なる作品でも、何度か出会ううちになじんでくることがあるから、自分の感性だけで決めるというのも、狭い了見のように思う。
 多くの作品を見て、また、気になった作品の周辺を調べ、さらに作家についてその全体をとらえようとするうちに、やっと1つの作品についての自分なりのコメントができるように思う。コメントを考え、コメントをするうちに、自分の感性というものが見えてくるかもしれない。
 感性というものは、自分のこれまでの経験や、積極的な学習の積み重ねの上に維持されるものであり、客観的に記述する努力を求められるものだと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C2(1) 神は細部に宿る

 人(人々)が生きるか死ぬかが問題となっている国、場面を考えると、芸術の差異は、取るに足りないもののようにも感ずる。
 人が生きていく上での大きな枠組は、政治、経済上のシステムが作るものであろう。その中で芸術家が追求するものは、あまりに細かな違いのようにも思える。
 しかし、細かな違いであっても、時間とともに大きな変化がもたらされることは、実感できることと思う。「神は細部に宿る」という言葉は、いろいろな意味を汲みとることができる言葉だと思うが、スタート時点の細部の違いがもつ意味を深く考えるべきことを教えるものだと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink