6 日本美術に見られる展開

 日本の絵画について、古来からの展開を大きくとらえると、経典という信仰に根ざした価値観から、現世を肯定的にとらえる考え方が独立していく姿として見てとれる。

a 統治者の側には、来世志向がある。
来世を実感すること、来世との結びつきを感ずること、来世志向の価値観を広めることなど、統治者の側からの作品は多い。
六道絵
二河白道図
来迎図

b 現世志向は、どこから生まれたか。
現世を肯定的にとらえるということは、現世をより豊かに生きるという意思の表れである。
(1)日本の古代、中世絵画は、仏教の経典(言葉)の世界を視覚的に表現したものであった。
「地獄草紙」は経典に忠実であるのに対し、「餓鬼草紙」は経典から少し離れ、「病草紙」に至っては、経典から大幅に逸脱している。
  これは、餓鬼は、人間には見えないが人間世界に近い所にいる存在であり、人間世界がオーバーラップして表現されたためである。
  また、「病草紙」が人間世界の事柄を扱っているためイマジネーションがより働くためである。
  鎌倉時代、浄土と六道絵はペアとなってとらえられていた。その中で、浄土のイメージは限界があったが、六道絵の世界は、イマジネーションがふくらんだ。
  観想という手法は、良い方向では浄土を、悪い方向では六道世界を想いうかべる。その両方をしっかり理解した上で、仏の世界へ行くことを重視していた。
(2)日本では、九相図に関し、経典(本来は、僧の世界)だけではなく、漢詩、和歌、説話など、大衆・世俗の要素と結びついて多用な展開がなされた。
  このように大衆・世俗の要素と結びついたのは、日本人が、そこに何らかの魅力を感じたためである。
(3)地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天という六道の中でも、畜生の絵は多い。
  動物の親子を描き、情愛を感じさせるものもある。これは、型の中の展開とは異なり、自然の描写という新しい形式といえる。
  また、人間の世界については、現世の楽しさを描き、現世肯定的である。
(4)土佐光信の「槻峯寺建立修行縁起絵巻」には、それ以前のやまと絵には見られなかった、現実の観察に基づくみずみずしい自然が描かれている。これは、まさに中世の日本人が、「風景」を発見した瞬間であるとされる(山本聡美)。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

5 共通した変化のパターン

 萩原守衛(碌山)の一連の彫刻を見るとき、東大寺南大門の金剛力士立像(運慶、快慶)から、無著・世親菩薩立像(運慶)に至る変化を見る思いがする。
 外面的に筋骨隆々とさせ、力強さを表現する段階と、内面的な芯の強さを表現する段階とは、別物として存在する。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

 宗教的教義を視覚化するとき、わかりやすさが求められることから、具体的な形(具象)をとることになる。
 しかし、現実の具体的な形をそのまま宗教的教義の形とすることはできず、そこには想像が入り込まざるをえない。ただし、教義に忠実であろうとする気持ちは、多くの作者にあるところである。
 したがって、教義と想像との間で表現がなされることになる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

2 

 何をスタート地点に置くかは、むつかしい問題であるが、美術の歴史をたどるとき、わかりやすい所作として、宗教的教義の視覚的な表現がある。
 キリスト教美術
 仏像

 もちろん、宗教的教義がある前の人間の所作があることは明らかであり、それは何かという問題がある。
 原始美術
 古代オリエント美術
ギリシア美術
 ローマ美術
 縄文美術
 弥生美術
 こうした時代は、現代に比べれば、作品の数は限られており、背景の記録が少ないため、現代から推測するしかない。
 宗教的教義の視覚化として、日本に残るものとして、古いものの多くは、仏像である。
 その他のものとしては、密教美術としての仏画である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

1 世の中(世界)は、自然の摂理(科学)に基づいて動いている。

 原始の頃、人間は、自然のルールの中で狩りや採集をして食物を得ていた。
 時代が進むにつれ、人間は、社会のルールの中で狩りや採集をしている。
 しかし、自分(人間自身)は、その中でカオスの状態にある。もちろん自分も、生物的には、自然の摂理の中にあるが、自分の生き方、考え方は、混沌としている。
 生まれてから受けた教育によって、何らかの道筋はつけられるが、それにしても自分の全体が整頓されるものではない。
 人は、カオス状態の中で、何らかの理想、望みを見つけるだろう。それは、宗教的教義からかもしれないし、独自の欲求の中でかもしれない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

A カオス状態からのスタート
B 歴史の底流となるもの
C 人生の段階(オディロン・ルドン展 神秘の創造を参考として)
D 戦略
E 画家が社会に出るとき


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

D3(3) 現代美術と法律事務所

 名和晃平が、ある本の中で、アメリカでは弁護士が美術コレクターとして活躍しているが、日本の法律事務所では、日本画の大家の作品を掛けているかもしれないが、もっと現代美術の作品を掛けても格好いいのではないかと述べていた(立ち読みだったので大体の趣旨)。
 精神科医の高橋龍太郎は、医院に現代美術の作品を展示されており、そのコレクションは、高橋コレクションとして有名であるが、法律事務所でも展示できるだろうと思う。
 しかし、自分の意識は、現代美術の受け入れについて大きく変わってきたと思うが、依頼者・相談者がどのようにとらえるかは、少し不安もある。
 私は、コレクターと言えるような数を持つ者ではないが、身近に現代美術の作品を置いて見ていると、感覚が変わってくるので不思議だと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

D3(2) 金融

 金融は、あらゆる事象の根底にあるものだ。戦争も戦費の調達が大問題であり、金融が根底にある。むしろ金融こそ、戦争の仕方を左右すると言うべきだと思われる。
 金融は、あらゆる事象の根底にあるがために、その全体を把握することは、容易でない。経験的にも、自分の理解が、真に現実の理解として誤っていないかを見定めることはむつかしいと思われる。
 世の中には、専門家と言われる人たちが多く存するが、真に知識と経験を有する人は少ないように思われる。
 世間では、「金貸し」は軽蔑される対象として扱われることが多いが、このような扱いは、金融に対する理解をむつかしくするために、予防線として張られているようにも思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

D3(1) アートが広がる社会

 アートをおもしろいと感ずる人は、アートと何らかのつながりをもつだろう。それは鑑賞であったり、購入であったり、制作であったりする。
 そのためには、大きな金銭的負担がなく、それができることが必要である。
 これまでのアートの世界は、購入にあたっては、相当な金額となっていたように思う。その原因は、作家の生活維持、ギャラリーの収支などによるものだろうが、一般の生活者から見れば高いと言わざるをえない。
 作家としては、もっと広く購入してもらうための価格設定、自分を知ってもらうためのインターネット利用などに取り組むべきである。
 ギャラリーとしては、インターネット時代は、作家が独自の情報開示をし、価格の明確化も進み、大きな変化が求められている。
 プライマリー価格がセカンダリー価格においても維持されるかどうかは大きな問題だろう。
 アートを楽しむ者としては、アートを楽しむことのアドバンテージをよく理解するべきだろう。それは、優越感かもしれないし、密かな楽しみかもしれないが、豊かさをどのように感ずるかということだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

D2(9) コレクターは、想いをとげられるか。

 いわゆる出口戦略と呼ばれるものが、美術のコレクターにも必要なのだろうか。
 アート作品を売ったりすることは考えていないというコレクターもいるだろうから、誰もが出口戦略を考えるものではない。
 しかし、人生には限りがあるから、子孫(相続人)の立場も含めれば、どこかで出口戦略は必要なのだろうと思う。
 出口戦略としては、通常次のような点を考えることになる。
(1)高価な金額で購入した作品が、より高価に売却することができたこと(もっと正確に言う   
 ならば、インフレ率以上に売却できたこと。)
(2)高価な作品を入手することにより、物質的、精神的に得られたものが十分であったこと。
 この世に1つしかないものに対する人間の欲望は尽きないから、作品の人気が落ちないかぎり、これまで美術品は価値があった。
 しかし、オリジナルの意味を考えると、アート作品には、別の問題が生ずる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink