ご先祖様のとらえ方

柳田国男「先祖の話」によると、先祖という言葉は、2通りの解釈があるとされる。
1 家の最初の人ただ1人が先祖だと思う立場
2 自分たちの家で祀るのでなければ、どこも他では祀る者の無い人の霊、すなわち先祖は必ず各家々に伴うものと思う立場

しかし、この点については、私は、多くの人が具体的に先祖として思い浮かべるのは、2の立場でではないかと思う。

1 実際問題として、自分の家の初代は、探しようがない。
そもそも記録が残されていない。
何代も続く家であっても、家の最初の人ただ1人を特定することはできないだろう。せいぜい何百年だろう。

2 先祖の祭(祀り)は、もとは正統嫡流の人の権利であり、それ以外の人は、たとえ本家の先祖が分かっていたとしても、これを祀らなかったという。

3 資料などで、自分がさかのぼれる先祖までしか、具体的な祀る意識は及ばないであろうと思う。

この結果、「御先祖になる」という言い方が出てくる。
「御先祖様になりなさい。」というのは、新たに初代となるだけの力量を備えているということを受け合った言葉だと言う。


柳田国男は、以前の日本人の先祖に対する考え方は、人は亡くなってある年限を過ぎると、それから後は御先祖さま、またはみたま様という1つの尊い霊体に、融け込んでしまうものとしていたようであるとする。
この結果、家が旧くなり亡者の数が多くなると、短い生涯の主人や、子も無く分家もせぬうちに、世を去った兄弟などは、祀ることもなくなり、大抵はいわゆる無縁様になってしまうが、そのような差別待遇はしなかったことに至る。

柳田国男は、この考え方は、神様にも人格を説こうとする今日の人には解しにくいことだとする。

しかし、私には、以前の日本人の先祖に対する考え方の方が、しっくりくる。
親鸞の考え方に近い気がする。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2019年05月28日 | Permalink