B12 ヴィック・ムニーズ

 ムニーズは、名画や歴史的出来事を身近にある素材で再現し、写真に収めた作品で広く知られる。初め立体作品を制作していたが、自身の作品を写真で記録していくうち、立体そのものではなくそれを撮影した写真を作品として発表するようになった(グローバル・ニュー・アート タグチアートコレクション♯01、283頁)。
 (ゴミアート)


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B11 大塚国際美術館

 大塚国際美術館は、世界の名画を原寸大で陶板に複製して展示している。これにより、(1)美術書や教科書と違い、原画が持つ本来の美術的価値を真に味わうことができ、日本に居ながらにして世界の美術館が体験できる。(2)元来オリジナル作品は近年の環境汚染や地震、火災などからの退色劣化を免れないものであるが、陶板名画は約2000年以上にわたってそのままの色と姿で残るので、これからの文化財の記録保存のあり方に大いに貢献する、とする。
 これは、オリジナルの意味を問うものであり、見方によっては、大胆な挑戦であるように思われる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B10 ブレイクする前の作品

 美術作家は、世界中どこでも、どのように収入を得て、生活するかという問題をかかえながら、作品の制作に取り組む。
 その作家がブレイクして、人気作家となれば、収入の不安は解消されるだろう。しかし、そうなる前の段階では、評価を得るために、作家それぞれに苦闘すると思われる。
 したがって、作家の初期、中期の作品には、このような苦闘が何らかの形で表れるのではないかと考えている。
 草間彌生の「花を踏みしだく」から「靴をはいて野にゆこう」への間にも、それを見つけることができるのではないかと考えている。
 草間彌生が世界的にも認められ、一般の人にも受け入れられるようになった後、部屋を一杯にする水玉の作品が生まれている。その作品は、巨大な画面一杯に展開するネットの作品に遡るのかもしれないが、精神的病いを感ぜざるをえない作品からそれが払拭されたものへと大きく展開している。
 このような大きな展開の起点が、「花を踏みしだく」から「靴をはいて野にゆこう」への変化にあると考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B9 同時代の人間として

 後期ポストモダン時代の芸術として、松井みどりによって「マイクロポップ」と呼ぶアートの傾向が指摘された。
 マイクロポップとは、制度的な倫理や主要なイデオロギーに頼らず、様々なところから集めた断片を統合して、独自の生き方の道筋や美学を作り出す姿勢を意味しているとされる。それは、主要な文化に対して「マイナー」(周稼的)な位置にある人々の創造性であるとする。
 しかし、そのような流れがあるとしても、現代美術の主要な流れとすることには無理があると思われる。
 現代美術をこのようにとらえてしまっては、辻(※点2つ)惟雄が「日本美術の歴史」の中で、現代美術が社会から疎外されている状況は、現在もさしてかわらない。」(420頁)と記述するように、「マイナー」な位置からぬけ出すことはできないだろう。
 現代美術の作家は、同時代の人間として、大筋をとらえるべきだと思われる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B8 現代美術の大筋

 アメリカにおける抽象表現主義(1940年後半?1960年代)とヨーロッパにおけるアンフォルメル(1950年代)を見るとき、抽象化の重要な意味を忘れるべきではない。
 また、ダダ(第1次大戦後)の大きな影響を見るとき、現実への怒り、否定、破壊といったエネルギーの重要性も忘れるべきではない。
 抽象化とダダによってもたらされたネオダダ、ポップ・アート、ミニマル・アート、フルクサス、さらにはコンセプチュアル・アートなどの到達点は、歴史として重要である。それは、モダニズムの到達点と言っても良いだろう。
 これに対して、ポストモダニズムの中から、新表現主義が出てきたことは、モダニズムの歴史の中での変化を見るならば当然のことであろう。そして、ポストモダン芸術として、いくつかの波が現れたことも理解できるところである。もちろん、ポストモダン芸術の中にもコンセプチュアルな傾向をもつものもあり、その流れをきれいに整理することはむつかしいと思われるし、整理することが目的ではない。
 しかし、大筋の歴史は理解される必要があると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B7 限りある時間

 文化など、楽しむためにある程度の時間を要する場合、自分の全人生をそれで埋めつくすことができる人は、続々と生まれているだろう。
 音楽、映画、観劇もそれを楽しむためには、時間の経過がいるから同様だと思う。
 絵画の場合、一瞬で見ること(もちろん全てが一瞬で見ることができるものではないが)はより容易だろうから、少し違うかもしれないが、絵があるところまで出向く必要があることを考えると同様になってくるかもしれない。
 しかし、「自分は、好きなことをして、一生を過ごすぞ。」と考えたとき、大いなる決断をしなければならない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B6 作家と自分との対比

 自分が、これまでしてきた仕事を想い起こし、これからやっていこうとする仕事を考えるとき、各人それぞれに、いろいろな事柄が出てくるだろう。仕事以外でも構わないが、各人の人生を想い起こし、これからを考えてみるとき、同様だろう。
 私の場合を例にとれば、大学で法律を学び、弁護士として勤務し、独立して自営してきた。自分のこれまでの年表を作ろうと思えば、作ることができる。
 たとえば、独立した年齢は、30歳であった。
 気になる作家の同じ年齢の作品を見てみるとどうだろうか。
 草間彌生が初めて版画作品を制作したのは1979年、50歳のときであった。50歳のときの自分を思い起こすとどうだろうか。
 美術の作家は、その人生を記録にとどめている。作品は、作家の人生の一断面であり、また時代を反映するものかもしれない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B5 同時代の作品に見られる共通性

 現代美術を名前に入れる美術館を見ていると、現代美術の中でも、ある特定の時期の作品を主として展示する美術館がある。美術館のオーナーが収集を始めた時期によるものである。
 こうした美術館で感ずることは、そこでの作品に価値があることを否定するものではないが、集められた作品には、同じカラーがあることである。同じオーナーが収集しているのであるから似てくる面もあるだろうが、いろいろなアーティストがいても同時代のカラーが出てくる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B4 他の作家に似ているということ

 赤塚一三の「木間の親子」を購入しようと決めたとき、松坂屋百貨店の画廊の人が、「ルオーのような絵」と評した。
 赤塚の個展の中で、新しい絵は、全般的に砂糖のようなものを感じ、その中で、人間が入れられた「木間の親子」に内面的なものを感じたため、購入を決めたものである。
 私は、ジョルジュ・ルオー的とは思わなかったが、言われてみると、絵の印象としては近いものがある。
 ジョルジュ・ルオーは、パリの美術学校でモローの教室に学んでおり、アンリ・マティスなどがその仲間とされている。マティスが「豪奢な装飾性と大胆な色面構成との統一による秩序を求めた」のに対し、ルオーは、「内面世界の表現に向かう」と評されている(西洋美術史159頁)。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

B3 芸術作品と芸術家の関係

 芸術作品は、その作品のみを通して評価されているのか、その作者である芸術家の人となりも含めて評価されるのか。
 この問題は、昔から存在する問題であろうと思われるし、既に論じ尽されているか、ひょっとして結論の出ている問題なのかもしれない。どちらが良いか悪いかの問題ではなく、その人ごとに自由に考えれば良いことなのかもしれない。
 芸術作品の中には、その作品だけでは、その意味が分からず、直感的に受けとめるにしても受けとめ方のわからないものもある。しかし、その作家のこれまでの姿や、これからの進め方についての考えがわかることにより、その作家のファンになることはあるだろう。この結果として、その作家の作品にも入っていけることはあると思う。その心理は、その作家に対する応援団的な考え方があり、作品そのものの価値を明確にしていない点で、邪道なのかもしれないが、その作品の作家を知ることにより、その作品が自分に入ってきて、自分の支えとなることもある。それは、その人にとって価値のある作品と言っていいだろうと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink