男も女も、どんな場合であれ、自立しているのが好ましい。
結婚は、相互依存の面があるが、その仕方は良く考えられるべきである。

離婚の際、「あなたが離婚の原因を作ったのだから、それがなかった状態を保証してほしい。住まいもちゃんと確保するべきだ。」と、妻側が言うことがある。
しかし、法律は、そこまでの保証を求めていない。離婚の原因について、慰謝料は払われる。結婚中にできた財産の分配(財産分与)は行われる。そこまでである。
離婚すれば、女も自立することが、前提である。


 離婚で財産分与が問題となったとき、夫(または妻)は、財産がどこにあるかわからなくて、悔しい思いをすることがあります。
 「自分はこれだけ働いて、稼いだのだから、預金がこれぐらいあるはずだ。」と言っても、どこの銀行のどの支店に預金があるのかがわからないと、調べることは大変です。
 住まいや働いている場所の近くの銀行を利用していると推測して、そこに裁判所を通じて調査をかけることはできますが、何の関係も見い出せない場所に預けられていると、そこを見つけ出すことは非常に困難です。
 夫婦の財産を、日ごろから(離婚の危機のないときに)どのように管理するのかは、よく考えておかなければならないテーマです。


 たとえば、夫婦関係が破綻している状態で、夫が他の女性と不倫関係になってしまったというケースを考えてみます。

 夫婦関係が完全に破綻してしまってから不倫関係になった場合、不倫関係により夫婦関係が破綻したという因果関係はないのですから、責任を問われることがないのが原則です。
 しかし、夫婦関係の破綻が、妻の側から夫に他の女性と不倫関係があるのではないかと邪推した(本当は不倫関係はなかった)結果であった場合、不倫関係の有無、夫婦関係破綻の時期などが争点となってきます。
 このような場合、妻の側からは、不倫を裏付ける決定的な証拠は出せません(不倫の事実がないから当然なのですが。)
 ところが、妻の側からのたび重なる攻撃の結果、夫と不倫を疑われた女性とが、本当に不倫関係になってしまった場合、この結果から、不倫関係のなかった時期までさかのぼって、不倫関係が認定されてしまうことがあります。
 真実には反するのですが、結果からさかのぼって不利な認定を受けてしまうのです。
 このことの是非は、ここでは問題としません。
 これが現実なのだということです。
 


ここで言う男は、社会で有用な仕事をしている者のことです。女性も、社会で有用な仕事をしている人は多くいますので、「女を壊す男たち」という場合も多くあると思います。

離婚の相談は、男性側からも、女性側からも受けます。いろいろな相談を受けている中で、気になる場合がいくつかあります。

その1つが、離婚の紛争によって、社会的に有用な仕事をしている人が壊されることです。
「社会的に有用な仕事をしているからと言って、離婚の原因を作ってはいけない。」とか、「離婚の原因を作るような人は、社会的に有用な仕事をしているとは言えない。」と、考える方もみえるでしょう。

しかし、社会的に有用な仕事をしている人、できる人が離婚の紛争に巻き込まれ、その力を十分に発揮できなくなるケースは多くあります。これは、倫理上の問題ではなく、現実です。

社会の中で、いろいろな人と折衝し、多くの課題を解決していかなければならないポジションにいる人を、プライベートな問題で追及するということは、いろいろな場面でありますが、いわゆる公人だけでなく、ごく一般の社会人の場合もあるのです。

このような場面では、プライベートなこととはいえ、問題を作った人には弱みがあるため、うまく反論できなくて、袋だたきに遭ってしまいます。

しかし、離婚の場合、離婚の原因を作った人を追及する人も、離婚の原因を作った人の経済的基盤に依存していることはよくあることです。離婚の原因を作ったことを攻撃するあまり、その人を壊してしまっては、元も子もないのです。また、離婚の原因を作った人も非として認めるべきところは認め、本来、その人の仕事を十分にしてもらった方が良いのです。

離婚をめぐる紛争は、感情的な面が多分にありますが、合理的な判断が求められる案件なのです。


一般的には、弁護士に相談される段階で、子供さんには説明されていることが多いと思います。

離婚の話は、子供さんにとってはショックなことだと思いますが、親としての考えをきちんと説明されれば、十分に受け止めてくれることが多いと思います。

また、子供さんなりに、いろいろと感じているところもあり、親が考える以上に「大人」として対応されるのではないかと思います。このような経験をされた子供は、しっかりしてくることが多いように感じます。
(もちろん、子供さんを放置することがあってはいけないのですが。)


離婚問題の解決にあたり、離婚するかどうかという根本問題こそ十分に考えるべきです。

ところが、紛争状態になると、細かな付随的な問題が次から次へと出てきます。例えば、健康保険証を使いたいとか、荷物を届けてほしいとか、電話料金を払ってほしいとか、いろいろ出てきます。

このような細かな問題は、簡単に解決できるように思われますが、意外に手間取ることが多いものです。
この結果、本来、十分に考えるべき問題に時間をかけられず、いつまでもごたごたが続くこととなります。

こうした場合、細かな問題に動じないことが必要です。
そのために法律事務所が窓口となり、問題点を整理して、相手方と折衝することが有効です。


 妻の方が収入が高い場合や、妻が相続などで資産を多く持つ場合など、夫の側から経済的援助を求めることがあります。
 夫(男)の収入で夫婦・家族は暮らすものという観念は、今では弱くなっているでしょうが、しかし、依然としてそのように考える人は、男性、女性共にかなり残っているといえるといえるでしょう。こうした人にとって、夫が妻に対し、経済的援助を求めることは、価値観の違いから、トラブルになります。
 夫が妻に経済的援助を求めることが良いか悪いかは価値観の違いであり、どちらの立場もありうると思いますが、トラブルとしないことが大事です。


 週刊新潮(2009年12月24日)に、タイガー・ウッズの嫁と山拓さんの妻とを比較した記事が出ていた。
 タイガー・ウッズの嫁の怒りが醜聞合戦を招き、ツアー出場の無期限自粛に追い込まれたのに対し、山拓さんの妻の方がずっと偉かったのではないかという内容である。
 1人の男性として見たとき、大いに納得できることであるが、離婚事件にまで至った案件を担当する弁護士としての立場から見たとき、現実にはなかなかそのとおりにならないと感ずる。
 しかし、世の中には離婚事件にまで至らないケースも相当数あるから、賢妻も多いと思う。
 賢妻を得た者は幸せであると思うが、賢妻を育てることはいつからできるのだろうかと考えてしまう。
 多くの離婚の相談を受けていると、その中には、離婚した方が良いのかどうかという相談も相当数あり、それは法律相談とは別の次元の話となる。
 弁護士としては、基本的に依頼者の意向を第一に考えるため、離婚するかどうかの判断は、ご自身の判断であると申し上げるが、離婚しない方が良い場合があることも確かだと思う。

 なお、この記事については、次のような指摘を受けました。
「週刊新潮の記事を読まずにこの文章だけを読むと、『妻は夫の不貞を怒ってはいけない』『夫が不貞をしても何も言わず我慢するのが賢妻だ』と言われているように感じます。記事の内容をよく知りませんが、『夫を叱ることは叱るが、対外的には感情的にならず、落ち着いて対応できるのが良い妻だ』ということなのではないですか。」
 私も同意見です。


 私は男性なので、その立場で離婚の相談を受ける。相談を受けながら、ときどき感ずるのは、相談者(女性)の男性を見る眼は、私が一人の男性として、その男性(相手方)を見る眼(見方)と少し違うということだ。
 (このことは、相談者(男性)が女性を見る眼についても、女性の立場(相談を受ける立場)からその女性を見る眼とは少し違う場合があるだろうと思う。)
 したがって、女性が男性を見る場合、男性がその男性を見る眼も参考にした方が良いと思う。
 自分が男性を見る場合、その性格を把握するのは少し時間を要するかもしれないが、その能力を判断するのは、それ程の時間を要しないと思う。この点は、別にそれほど自信をもって断言できるものではないかもしれないが、多くの男性には理解してもらえるところではないかと思う。


 これは、野末陳平さんが1984年に出された本である。今から見ると当然のことだと思うが、当時は必要な指摘だったのだろう。
 この本を改めて読み直してみると、なんと第1章は次の文章で始まっていた。
 「妻の財産のうち、何といっても一番大きいのは、夫です。土地やお金はこれから形成できるけれど、夫という財産は即席で簡単に作るわけにはいきませんし、何しろこれまで数十年人生のモトがかかっています。『夫のどこが財産なの?』と問われるまでもなく、ズバリいって、夫はほっといても給料を運んでくれる、ありがたい、お金の運び屋です。おまけに、年金と保険つき。これが財産でなくて何でしょう。」
 「『それにしちゃ、給料が安いわ』こんな愚痴いったら、バチがあたる。給料とるのはどんなに大変か、パートに出たり内職やれば、お金を稼ぐ辛さがわかるでしょう。夫はたとえ体調が悪くても会社へ行く、お店に出る。イヤなことがあっても、ガマンして仕事に励む。そして必ず給料を運んでくるのです。給料が安いからといって文句いわれちゃ、夫の腹の虫がおさまりません。」

 男性の立場からすると、当時はこんなことを言ってくれた人もいるんだと驚く。
 男性からの相談を受けていると、こうしたことを理解していないという不満が根底にあることが多い。
 女性の立場からすると、子育ても大変だし、仕事をもっている人も多いから、その場合、家事の負担も大きいと言えるだろう。
 しかし、経済的基盤をつくることについては、もっと評価されても良いと思う。


 投資といっても、自分で事業を起こし、そこに投資していく場合や、株式投資、不動産投資、金投資などもあり、さらに価値のはっきりしない投資もあって、その意味するところは広いが、将来の価値に向けた取得行動であるとする。

 生まれたときから投資をする人はいないので、誰しも投資をしない人から投資をする人になったといえるだろう。したがって、投資をする人は、投資をしない人(時期)について一応の理解はあるが、投資をしない人は、投資をする人について理解できないことが多々あるように思う。

 普通に働く事業主として、自らの生活費を稼ぎ、給料を支払って、税金を払い、その上で投資と考えることも行なうことは、結構大変なことだと思う。それは、常に消費と投資の板ばさみに合うからだ。

ジム・ロジャーズ氏も「大投資家ジム・ロジャーズ世界を行く」8頁で「私は仕事への情熱を理解できない女性と二度ばかり短い結婚生活を送った。私には、私たちのために市場で働いてくれるそのお金で新しいソファーを買うのが必要なこととは思えなかったのだ。若者が節約し、正しく投資する1ドル1ドルは後になって20倍になって返ってくると私は信じていたし、その思いは今も変わらない。」と記している。

 離婚までするかどうかは別として、お金の使い方については、いつも板ばさみに合って、カリカリする。投資をしない人は、そこが理解できないと思う。
 お金の使い方をめぐっては、離婚の場合でも問題となることがあるが、投資をする人としない人の差が基本的にあると思われる。
 邱永漢さんのホームページにもあったように、「大騒ぎをするほどのことではないのです。どうせ面白半分にやっていることですから。」と考えることができれば済むことのように思えるが、なかなかそうはいかないところが悩ましい。


 53歳の年齢になって、初めてDVDで見た。
 設定は、フランスでの、1957年11月からの、ギィ(20歳・男性)とジュヌヴィエーヴ(17歳・女性)の物語。
 若いときに見ていたとしたら、ギィが徴兵によりアルジェリア戦争に出ている間に、ジュヌヴィエーヴが、ギィの子を妊娠していながら、1958年4月に、別の男性(カサール)と結婚し、パリに移住してしまう展開は理解できず、違和感が残ったままだろうと思う。
 しかし、年齢を重ねた今は、「ありうるかもしれない。」と思う。

 私の昔と今との違いは何なのか。若いときは、価値観を絶対視していたところがあるが、年をとるにつれ、人間は、状況の変化に合わせて生活していくものではないかと考えるようになったことだろう。
 物語では、1963年、ギィの妻(マドレーヌ)と息子(フランソワ)がクリスマスの買物に出て行った間に、ギィのガソリンスタンドに、ジュヌヴィエーヴが、それと知らず、娘(フランソワーズ)を助手席に乗せて給油に来た。ギィは、ジュヌヴィエーヴを事務室に招き入れたが、短い言葉のやりとりのみで、「もう車に戻った方が良い。」という言葉に促されて、ジュヌヴィエーヴは、スタンドを出て行く。すぐにギィの妻子が戻り、クリスマスを祝う家族のシーンで終わる。

 これは悲恋なのだろうか。ジャック・ドゥミ監督は、恋愛(ある価値観)を絶対視せず、状況に合わせて生きていくことを自然に受けとめており、身近に十分な人生(現実解)があることを唱えたように思う。


 夫が家庭内で、理由無く威張り倒し、妻に対する発言の大半は、「飯!風呂!寝る!」という亭主関白がまかり通っていた明治・大正の時代の結婚生活から、徐々に時代は変わり、最近は、かかあ天下ならず鬼嫁と呼ばれる方々が登場し、女性は強くなったように思う。
 特に、若い世代では、彼女の小さいポシェットまで、男性が持ってあげる光景などを目にし、フェミニストな男性も増えたものだと驚くこともある。もっとも、そのポシェットを男性が自発的に持ってあげているのか、女性に持たされているのかは謎だが。
しかし、このようなフェミニストな男性が増えつつある反面、未だに夫が、妻を下に見て自身の支配下に置き、暴君のように振舞う者、あるいは、妻や子供の意見も聞かず、自分に従ってしかるべきといって全て自分の思い通りにしようとする者など亭主関白観念を持つ男性も少なくない。
 よく、女性からの離婚相談に応じると、中高年層ほど、夫にこのようなタイプの男性が多いように思う。
 この場合、妻の不満は底知れぬ根深さを持っているが、いざ、このタイプの男性を相手に離婚の交渉や調停の申し立てをすると、たいていは、妻からの離婚の申出に驚き、「何でこんなことを言うのかわからない。」、「仲のよい夫婦だったのに・・・。」、果ては、「離婚する気はない!」などなど、かなり夫婦間に温度差があるように思う。
 私が思うに、これは力関係が上になった者は、いつも自分の思い通りに事が運ぶので、それに慣れてしまった、それが当たり前だと思うようになってしまった結果ではないかと思う。逆を考えると、力関係が下になった者は、どれだけ理不尽でも相手の要求をのまざるを得ない状況が、当たり前になっているので、その相手から受けるストレスは計り知れないものだろう。
熟年夫婦にいたっては、長年、夫の圧迫をうけ続けた妻が、積もりに積もって爆発し、最後に「離婚」という形で、相手に逆襲(または解放を求めて)するのだ。
 今回は、亭主関白を例に挙げたが、最近は、夫と妻が逆転した「鬼嫁」への夫の離婚請求も少なくない。
 つまり、妻や夫からの最後の逆襲を食らってしまう前に、少しでも相手を思いやってみたり、相手の意見をきちんと聴く癖をつけられれば、悲しい結果を招かず済むのかもしれないが・・・。


 夫の経済的破綻のために、離婚に至ることは、よくあることである。
 夫に、そもそも経済観念がなく、生活費すら手に入らないという場合もあるし、経済的破綻と言っても、いろいろなケースがある。
 その中で、弁護士として考えさせられることが多いのは、夫の事業失敗により自宅を失うことになった場合の夫婦のあり方である。
 ある程度の(あるいは、相当に高い)収入があることを前提に結婚したのに、その見込が違ったという場合、どういうことが起こるだろうか。
 夫婦の問題は愛情の問題なのだから、夫の経済的破綻で離婚することなど、およそ考えられないと思う人も多いだろう。逆に、経済的安定こそ全ての基本なのだから、離婚は当然と考える人もいるだろう。
 しかし、一番問題として浮上してくるのは、妻の親が、経済的に破綻した夫のもとに娘(妻)を置いておけないと離婚を求めることだろう。
 経済的に破綻した夫は、弱い立場にあり、妻の親に対して充分な意見が言えない。夫は孤立無援の状態になる。逆に、夫が、正論として、十分な意見を言うと、火に油を注ぐことになる。
 妻は、経済的保護が必要であり、自分の親に対して意見は言えない(言わない)。
 男として、このような状況にならないよう、事業に取り組む必要がある。
 しかし、注意して見ると、夫の経済的破綻は、1つのきっかけにすぎず、それまでの夫婦のあり方に問題があったことが多い。それまで我慢してきた妻の不満が爆発したという場合も多い。
 事業への専念と、夫婦の間の目配りは、バランスをとって、注意して行う必要があると思う。


事業を維持することは、誰しも大変なことだと思う。経済環境の変化は、予測できないことも多いと思う。したがって、失敗はいたるところにある。絶対の安全を求めると、何もできなくなってしまうだろう。
 世の男性の中には、妻に経済的悲哀を味わわせたことがないことを誇る人もいる。仕事は男の領分の問題であって、妻に心配させないし、妻に関与させないと考える人も多い。
 しかし、誰でも経済的失敗はあり、経済的破綻に至ることも多い。それは、夫婦の問題とは別問題であり、私は、夫の立場からだけでなく、妻の立場からも、経済的破綻により離婚する必要はないと考えている。
 もちろん、経済的に満足できなくなったならば離婚だと考えることは自由であり、経済的安定を重視することが悪いとは思わない。
 しかし、夫婦の問題と経済の問題とをからませて考えると複雑になり、判断を誤るのではないかと危惧する。


結婚しても相手に満足できないときは、いつでも離婚すれば良いという考え方は、強くなっていると思われる。 
 しかし、結婚は2人の合意により成立したものであり、離婚にあたっても合意がなければ自由に離婚できるものではなく、法的手続をとるしかない。
 また、いつでも離婚すれば良いと言うことができる人は、まだまだ多くはないと思われる。離婚後の生活を経済的にどのように維持するか問題があるからである。財産分与、慰謝料、養育費について、裁判所はどのように判断するかということを正確に知るべきだと思う。裁判所の判断の仕方が良いか悪いかではなく、現実の姿として受けとめる必要があるだろう。
 さらに、女性の場合、結婚したら「外に出た」のだから、両親の相続において平等でなくともやむをえないと考える親兄弟も多い。しかし、それであって、結婚を永久就職と考えることもできないだろう。
 「離婚する自由」を行使するためには、考えるべきところが多いと思う。


 塩野七生さんによると、キリスト教徒の倫理である「汝、姦淫することなかれ」について、マキアヴェッリによると、指導者のもつべき条件としては問題にもされないという。マキアヴェッリは、キリスト教徒ではあっても、宗教や倫理から政治を独立させたことによって革命的であるという。
 マキアヴェッリの著作中、女について論じた個所は1か所しかないそうだ。マキアヴェッリは、女の存在自体を悪とした聖パウロと違い、女の存在自体が悪なのではなく(女が介在することは問題にしない)、女が介在することによって生ずる悪しき事態を問題としているという。
 マキアヴェッリの考え方は、法律論とは別の次元のものであり、結婚生活にそれを当てはめることもできるかどうか私にはよく分からない。
 しかし、マキアヴェッリの考え方を正確に知ることは、必要と思われる。


 京都の清水の近くでお豆腐屋さんを営む老夫婦が、テレビで話しているのを見た。夫婦になって50年以上とのこと。
 奥さんが「辛抱やね。」と言っていたのが、印象的だった。
 私は、仕事柄、辛抱できないケースを見てきたが、辛抱することにより、変わっていくこともあるのだと感じた。50年以上の夫婦という体験は、簡単に理解できないところがあるとは思うが、自分なりに想像すると、重みがあるものだろう。
 こうしたことができるのは、能力だという気がする。辛抱も能力だと思われるし、どこかで合わせるのも能力だと思う。将来の自分たちの姿を想像してできることではないと思われるので、瞬間瞬間の能力のような気がする。


 島田雅彦さんが「このへんで結婚論の1冊でも出しておけば、相談者を右から左にさばけるかなと思った次第。」と書かれたもの。
 普通の本に比べれば、踏み込んで書かれているとは思うものの、書けないところも多いのだなと感じました。「著者は、自分の日常の行動を正当化している」と、とらえられる面もあると思いますが、実名では書けないところがあって、そうなるのだと思いました。
 文書による相談は、誰でも難しいと思います。私も「結婚論」を頭の中には持っていますが、おそらく書けないでしょう。


 弁護士として仕事をしていると、親から、その嫁(婿)に対する愚痴を聞く機会も多い。自分が50歳を過ぎてくると、多くなったと思う。こうした話は、自分にとっては、予行練習になる。
 結婚は、自分で相手を選べるが、親としての嫁(婿)は、多くの場合、自分では選べず、突然やってくる感が強い。
 弁護士としては、離婚の相談は、法律問題として対応できるが、親から見た嫁(婿)の問題は、法律問題として対応しにくい。もちろん、親族間の円満調整として調停はできるが、話し合い以外に、解決の手法はそろっていないように思う。
 我慢は必要だとは思うし、多くの場合、我慢しているのだと思うが、親から見た嫁(婿)の問題について、解決の手法を研究する必要があると感じている。


 富山刑務所の指導技官・倉島英二(高倉健)は、最愛の妻・洋子(田中裕子)を53歳で亡くした。
 洋子は2枚の絵手紙を遺言として残しており、1枚には、「遺骨は、故郷の海に散骨してほしい。」と記されていた。もう1枚は、洋子の生れ故郷である長崎の平戸市の郵便局へ局留で送られ、10日以内でしか受け取れないという。
 倉島は、妻の真意を知るため、手作りで改良したキャンピングカーで妻の故郷・長崎へと向かう。

 洋子は、なぜ散骨を頼んだのか。 洋子は、夫を束縛しない生き方を示したということだろうか。
 「夫婦仲良くいつまでも」という話は多いし、わかりやすいだろう。それが理想だと考える人も多いだろう。この映画も、その考え方を表現したものと考える人も出てくるだろう。
 しかし、「夫婦仲良くいつまでも」の中で、別の生き方が突きつけられているように感ずる。夫婦であっても、それぞれの人生がある。夫婦の段階により、夫婦のあり方は、どんどん変わってくる。映画は、人生のいろいろを示していると思う。