JRさわやかウォーキング

 2012年の新春から参加している。思っていたよりも多くの人が参加している。田舎道を歩くと、多くの人がつながり、巡礼のようだ。
 一番驚いたのは、皆の歩くスピードが速いことである。速歩でないと運動にはならないからかもしれないが、ゴールを目指して一直線というのは、日本人の生真面目さの表われのように思う。
 私は、あまり知らない町を歩くことに興味があり、きょろきょろしてしまうし、寄道もしてしまう。いろいろな発見があり、楽しい。
 ウォーキングは人それぞれだから、いろいろあっていいと思うが、運動能力が落ちてきた僻みから、つい余分なことを思ってしまう。

「あなたが貧乏でいるのは自由だけど、私を巻き込まないで欲しい。」

 自分は努力しているし、それなりに成功していると考える人は、このように考えることがあるのではないかと思う。
(貧乏でも立派な人がいるし、金持ちでも下品な人がいるから、貧乏でいることについて善い悪いの評価をする必要はないという前提で。)
 確かに、多くの人を見ていると、「なぜ、こうしないのだろう。こうした方がいいのに。」と思うことがよくある。その人がそうしないことの影響が、その人に及ぶだけであれば、さほど問題ではないが、多くの場合、その人以外にも影響が及ぶ。例えば喫煙は、その典型的な例だろう。
 「なぜ、こうしないのだろう。」と感じた時、どうするのが良いだろうか。注意すべきは注意し、社会運動として高めていくというのが正攻法なのかもしれない。
 しかし、年齢を重ねるにつれ、正攻法からは離れていく。
 自分の自由がきく範囲で精一杯のことを行うという対応になっていく。どうにもならない問題は、運命と思う。運命は、自分なりの方法で受け入れる。例えば、運命を文章に記述して、客観視し、封印する。これを逃げと思うなかれ。自分のできる範囲で時間を大事にした解決だと思う。

「お役所仕事」の特質

 世間一般に「お役所仕事」と言われるが、辞書(広辞苑)によると「(ともすると役所にみられる)おそくて形式的な仕事ぶり」とのことである。
 私が一番「お役所仕事」だと感じたのは、ある役所の手続において、机について要望を出したときである。ある一方当事者として参加した私たちに与えられた机は1つ。こちらは全員で5、6人であったので、1つの机に3人がすわり、資料を広げた。すわれない人は、膝の上で記録をとった。
 これは、他方当事者も同じ。他方当事者は、10人以上はいたので、他方当事者の方が机は十分でなかった。
 ところが、関係する役所の担当者が多数集まっており、その人たちは、1つの机を1名ないし2名で使っており、その机は、ずらずら並んでいた。
 一方当事者と他方当事者の座る場所に机を置くスペースは十分すぎるくらいあったので、私は、もっと全員が使えるように机を増やしてほしいと、役所の担当者に依頼した。
 ところがところが、この手続はその後も3回以上開かれたのに、しかも、毎回、机を増やすことを依頼したのに、最後まで机が増やされることはなかった。私は、一方当事者であったので、強行に要求することは控えた。
 
 現在、どのようにこの手続が開かれているかは知らない。しかし、このとき私は、「お役所仕事」だと痛感した。机が増やせないことの理由など説明を受けたことは一切ない。
 机が増やせないのは、何か「お役所」の理由があるのだろう。この手続は非公開であったことも影響しているだろう。
 しかし、当事者の席と、関係する役所の担当者の席となぜこのような扱いの差があるのか、その差があることを違和感なく、むしろ当然として進める感覚の差はどこにあるのか、現在もわからない。
 ちょっとした改善すべき点が見つかれば、すぐに改善するのが、私たちの常であると、私は考えている。改善をはばむものは、単にその人の常識にすぎない。

「やる事が一杯。」

 世の中には、(1)「やる事が一杯。」と言って遅くなることの理由とし、そこで会話の終わる人と、(2)「やる事が一杯。」と言っても(言わないことの方が多いと思われるが)、それで終わらせず、遅くなることで支障を生ずる人の不満を少しでもやわらげる人の、2つのグループがある。
 2つのグループで、仕事の進み方に、それほどの大差はない。同じ人間として、進むことは進むのである。
 しかし、2つのグループから、その言い分を聞かされる立場の人にとって、気持ちの面で大差となる。ちょっとした表現の仕方で(コミュニケーションのとり方で)大差となることがわからない人は多いように思われる。
 ちょっとした違いが大差となることがあることは、あたり前のことだと思われるが、あたり前だと思っていると、そうでないことに気がつき、落胆は大きくなる。世の中には2つのグループがあると心すべきだろう。

「縁の下の力持ち」

 家庭であれ、企業であれ、国家であれ、大多数の人が平穏無事であることが第一であろう。そして、そのためには、誰かが内と外との全体を見ながら対応しているのである。その対応は善意に基づくものである。善意に基づかない人も多数いるのであろうが、その力は優っていないだろうと思う。
 この内と外との全体を見ながら対応している人こそ見出される必要があるが、そうならなくとも、その人は、淡々と自分の仕事を進めるであろう。

「大変化の時代を幸せに生きるために」

 インターネットの時代になり、何事でも即時に調べられる時代になった。ある単語については、キーワード検索をすれば、その意味だけでなく、関連事項も読むことができる。
 しかし、個々の単語が組み立てられてできる世界を、どのようにとらえるかとなると、キーワード検索のみではむつかしいだろう。そのような世界は、学問として古来体系づけられてきているが、世の中の変化に学問が追いついていない面もある。
 インターネットの社会では、多くのブロガーが登場し、いろいろな世界についてコメントしている。物の見方がおもしろいブロガーを見つけ、フォローしていけばいろいろな世界についての知見も増えるだろう。
 しかし、自分が究めたい分野については、どこかで自分なりに考え、組み立てるしかないと思う。
 この点については、現代を「評価経済社会」ととらえ、そこで幸せに生きていくためには、軽やかに色を変える能力が一番大切になってくるという指摘がある(岡田斗司夫「評価経済社会」245頁)。
 具体的には、「まだまだ生き残っているマスコミの意見、評価経済社会でどんどん台頭してくるイメージリーダーたちの意見、身近な知り合いの意見、ネットで知り合った人の意見等々。様々な価値観があふれる中で、自分の気分や状況、立場、好み等々によって、いくつかの価値観を選択すること。そして、同じ価値観のグループに参加すること。そうすることで、自分の中に新しい人格をつくって楽しむこと。これこそ評価経済時代の醍醐味といえます。」とある。
 この考え方は、「情報や価値観があふれている現在」では、それを適宜ピックアップして、「全体を緩やかに整理し、コーディネートする整理フィルタは別に必要」になるものの、自我の確立など求めず、軽やかに価値観を考えていけば良いとするものだと思われる。
 これは大変おもしろい指摘であると思う。
 あふれる情報や価値観の中から、何かを選び組み合わせるとき、それぞれの位置、色彩と言うべきものを考える必要があるだろう。この点が、各人の幸せに関連してくるものと思われる。

「濃尾システム」

 茨城大学の磯田道史助教授は、概要、次のように説明する。
 「毛利氏に代表される中世軍国は武士が土豪として農村にあり、農民を従え粗放農業を行っていた。これに対し、織田信長や徳川家康の近世濃尾平野武士国は、農村は家族農業経営の丁寧な農業をする農民に任せ、自らは領地を離れ城下町で武芸に励むプロの戦闘集団となった。この集団は、当時出てきた火縄銃に対して恐怖をものともせず密集突撃するなど、忠誠を尽くす新しい倫理を持つまでになっていた。濃尾の武士はやがて日本全土を支配することになった。」
 高密度の農業により、農業労働から解放された武士が、常日頃から殿の側にいて武芸に励むことにより、人間的な絆ができ、これが現代日本の原型となったということである。
 この説明がちょうど名古屋の飛躍の時期に書かれており、「濃尾システム」の再評価にもつながっている。
 「濃尾システム」は、別に現代の名古屋に関連づける必要はないと思われるが、組織について、重要な点が凝縮されていると思う。

「無駄にも効用がある」と言われるけれども

無駄な時間に思われる場合でも、アイデアを得たりするためには必要であり、無駄にも効用があるという考え方がある。

私もこの考え方を否定するものではない。

しかし、無駄な時間と思われるくらいの過ごし方ができる余裕があることが前提の話であろう。
無駄だからアイデアが得られるのか、余裕があるからアイデアが得られるのか、この差はかなり微妙ではないだろうか。

5%の不思議

体重を1ヵ月で5%以上減らすと、その人の体内でホメオスタシスが働き、体内の栄養吸収力を高めたり、体の機能を高める働きが自動的に生じるという。

民法では約定がない場合、利息は年5%とされている。

使途不明金は5%以内であれば、気がつかれないことがある。

このように5%は不思議な数字であり、行動を起こすときに気を付ける必要がある。

あたりまえのことをじっくりと

大事な事柄というのは、ともするとあたりまえにしか聞こえず、感銘のないものとなることがあります。
そのため、奇をてらったり、大事なことなのに陳腐な言葉だとしてはねつけたりしてしまうことがあります。
しかし、あたりまえのことでも、実感として理解できるまで立ち止まって考えてみる必要があります。
 
「他者から与えられるのではなく、自らのたゆまぬ努力で勝ち取った力に勝るものはないということ。
そのためには独断を避け、注意深く耳を傾け、目をこらして観察し、目的を明らかにして、手段を選ぶことが大事であること。」(「強国」論 D・S・ランデス 三笠書房495頁)
こうした言葉の意味をじっくり考えてみたいものです。

あまりにも多くの種類の事柄をしようとしていないか

 名作と言われる文学書を全て読むことすら不可能に近い。絵画や彫刻は、ぱっと見ることができるから、写真であれば(作品の所在地に足を運ぶことは難しいにしても)かなりの数を見ることができるかもしれないが、その作家の思考にまで踏み込むとすれば、全てを理解することは不可能だろう。音楽の世界でも全てを聴くことは不可能だろう。
 すると、量ではなくて対象を限定すれば、いろいろな分野の世界を理解できるような気になる。
 しかし、多くの種類の事柄を総合した理解を得ようと、広大な世界に乗り出すと、その広さ・深さに圧倒され、完全を望みえない。
 人間は、一筆描きのように1本の線で世界をめぐり、自分なりの人生を形づくる。

いくつもの世界

 この世では、自然が作ったものや人間の作ったものである、いくつもの世界を見ることができる。その世界を見ていくことは、何物にも変え難く、すばらしいことである。
 金銭至上主義の立場が幅をきかす世の中にあって、別の生き方を提示するものである。

いつになっても楽にならないと思うとき

 「ローンを払い続けなければならない。」とか、「給与を支払う時期がすぐに来る。」など、いつになっても楽にならないと思うことがある。
 破産・債務整理など、一部であれ、不払いを前提とした手続をとる必要がある場合は、その手続を真剣に考えるべきだ。
 問題は、財産・組織など、ある程度の蓄積があり、信用上、事故扱いをされてはいけない場合だろう。
この場合が一番つらいだろう。守るべきものがある人たちだ。
 そのような人たちを見ていると、真面目で、自分で抱え込むところがある。
いつになっても楽にならないと思うとき、次のように考えてみてはどうだろうか。まず、自分の強みをどこかで見つけ出すべきだ。次に、その強みを自分だけで活かすのではなく、自分が今持っている組織・協力者に活用してもらえないかを考えるべきだ。ここでは、ある程度発想の切替が必要だろう。
 文章にすると、簡単なことだが、自分が持っているものに気がついていないことが多いのではないかと思う。

ちょっとした違い

弁護士という仕事をしていますと、いろいろな人生模様を見たり、聞いたりします。

人によって、結果的に大きな差がついた状態となっているのですが、過去にさかのぼっていろいろ聞いていくと、当然のことながら、「最初は、そうでなかった」ことがわかってきます。ちょっとした違いが、時間の経過とともに、大きな差になっているのです。

この「ちょっとした違い」というのが、大事なことであり、この違いを早い段階で気がつくことが必要なのだと思います。この違いに気づくためには、どうしたら良いのかとなると、イマジネーションが働くかどうかとしか言えないのですが、「神は細部に宿る」という言葉を自覚して、神の宿るところを意識したいと考えています。

どうにもならない人

世の中には、何を言っても反発するだけで、道理の通らない、どうにもならない人がいます。
問題となる金額がある程度の額となれば、裁判手続を執って解決をめざすことは可能です。しかしながら、裁判をするほどの経済的意味がない場合、困ったことになります。

譲歩して相手の言い分どおりにするか、とことん抵抗して争うかの選択を迫られることになります。
これはこれで問題なのですが、とことん抵抗して争う場合でも、当事者同士が争いあっているだけならば、それを続けてもらっても良いのです。しかしながら、当事者同士だけの問題ではなく、第三者への影響がある場合ですと、その第三者は、ずいぶんな迷惑を受けることになります。

世の中の紛争は、当事者同士が争いあい、第三者が迷惑を受けているという形は、多いと思われます。
どうすれば良いのでしょうか。弁護士に任せる!という方法はあるでしょう。当事者同士の細かな対立に、裁判所や弁護士が振り回されることはよくあります。裁判所は、こうした問題を取り上げなければ良いので、弁護士が困った立場に立たされていることが一番多いと思います。

何か解決策を知りたいと、ここまで読んでいただいた方には申し訳ないのですが、特効薬はないのです。この問題は、考え方を変えて、紛争とどのようにつき合っていくのが良いかと考えるべきだと思います。紛争をあえて解決しない生き方もあると思うのです。

はたして自分は独自か

 「自分は、自分の個性や独自の判断で行動している。」と考えている人は多いと思う。世間や大衆とは異なって、自分はよく勉強し、よく考えているのだと、努力している人は思うものだ。
 しかし、ある時、独自だと捉えていた行動について、「同じように考えて行動している人がいる。」「それも決して少なくはない。」と気がつくことがある。
 世の中の動きの中の一部に、自分もいると気がつく。
 自分は独自だと思っていても、何かの影響を受けているということなのか、環境条件が決まっていれば、それに沿ってしか動けないのか等々、考えることになるだろう。
 こうして考えると、自分は独自だと思うのではなく、自分の考えたことがいろいろな人を通じて、世間のあちこちにあると見つめ直すことが必要なのではないか。
 自分の足元を見つめ直すことで、世間の理解が進むことがあると思われる。

まちがった方法で努力すると成果に結びつかない。

 このことは、当たり前のことだと思われるが、意外に理解されていない。
 原因は、「努力」という精神論に流れ、「方法」について、1つの方法しか頭に浮かばないからである。人は、一般に、頭に浮かんだ方法で実行・努力してしまい、それが当然であると考える。したがって、リーダーであろうとするならば、方法について複数の方法を検討し、その結果をフォロワーに伝えなければならない。
 経験を積んだ人や成功している人は、「この場合にはこの方法をとるのが当然である」と、すみやかに判断できるだろうが、それが理解できない人がごろごろいるということを忘れてはならないだろう。

まとめ方に関して、世の中の人を2つに分けるとすると。

 右脳と左脳の問題として論じられているテーマかもしれない。
 第1は、ワープロで文書を作成するようにまとめる人。
 第2は、あるかたまりの位置関係を自由に移動させながら、絵を描くようにまとめる人。
 たとえばスケジュール管理をとりあげると、グーグルカレンダーは、予定を自由に引っぱって日時を変更できるので、第2のタイプだと思う。これに対して、当事者と日時とで縦横の表を作りそこに予定を埋め込む様式は、第1である。グーグルカレンダーでは、当事者は色で区別している。
 私は、第2のタイプなので、グーグルカレンダー的な使い方ができるのが圧倒的に便利だと思っているが、世の中にはそうでない人がかなりいることに、以前気がついた。
 第1のタイプの人は、表形式など、きちんと区分けできることが重要と考えるようだ。
 世の中には2種類あることを念頭において考える必要がある。

ウサギとカメの話

 ウサギは、油断をして居眠りをしている間に、もくもくと歩いてきたカメに抜かれてしまい、かけっこに敗れてしまったというイソップの寓話。
 ウサギ側に立つか、カメ側に立つかにより、教訓のとらえ方は、いろいろあり、子供の頃は、おもしろい話だと思っていた。
 しかし、年齢を重ねるにつれ、カメの着実な努力を大事とする教訓については、割り切れないものを感ずるようになった。
 ウサギの居眠りがなければ勝てないのだから、偶然に期待しない者から見ると、カメの立場としてうれしくないのではないか。
 距離が決まっていて、ウサギが普通に走ればウサギが勝ち、現実の世界では、いったん勝負が決まると、それが固定してしまうのであるから、それで人生勝負ありとなってしまう。
 着実な努力を教訓としたいならば、ウサギとカメの話は、あまり適当でないように思われる。

 身体的能力差でハンデがある場合、知恵など、それ以外の何かで補うしかない。そうなるとウサギとカメの話は、大幅に模様替えするしかない。

 現実の社会では、ウサギとカメを組織ととらえるならば、組織の能力が固定されているものではないのだから、ウサギ(組織)よりも速いカメ(組織)を目指すことはできると考えるべきだろう。ウサギ(組織)とカメ(組織)は、へんてこりんな形で登場するので、物語にならないかもしれないが。

カラスは、いくつまで数を数えられるか。

カラスは、対象を1つ、2つまでは数えられるが、3つとなると「多い」としか認識できないという話を聞いたことがある。
カラスは賢いが、やはり人間には及ばないと思うのか。

実は、人間も自分の感情となると、せいぜい5つくらいしか数えられないのである。

気持ちがいい、やや気持ちがいい、普通、やや気持ちが悪い、気持ちが悪い
今日は82点の気持ちだとはいかないのである。

人間も実際のところあまり数えられないのである。

このことの意味をどう考えるか。
人間は、自分の気持ちはそれほど客観的に見ることができないということであり、自分の気持ちは自分でなんとかコントロールしなければいけなく、コントロールできるということを意味している。

クリアーホルダーの使い方

 A4までの大きさの紙をはさみ込んで保管するクリアーホルダーは、便利である。 どんな大きさの紙でも、はさみ込むことにより、A4のものとして統一して管理できる。透明なのではさみ込んだまま読むこともできる。ホルダーは、ある程度の厚みもあるため、はさみ込んだ文書を保護することもできる。 クリアーホルダーを使い出すと、際限なく増えてしまうくらいに、使い勝手は良いと思う。
 しかし、単にクリアーホルダーの数を増やしてしまうと、はさみ込んだまま放置されることになり、活かすことができなくなる。 
定期的に読み返し、いくつかに散らばったクリアーホルダーのうち、同じグループの情報はまとめ、1つのクリアーホルダーの中で順序立てて整理すると良いだろう。 これを繰り返すと新しいテーマが浮かび上がり、体系的な資料になってくる。この方法は、KJ法のカードに似た使い方と言っても良いと思う。

コミュニケーション能力を、いかに身につけるか。

 自分のコミュニケーション能力が高いとは、全く思っていないが、それが高いと感ずる人を観察していると気がつくことは多い。
 声の調子、身ぶりなど身体的なものは、言葉で表現しにくい点もあり、また、個人差(個体差)もあり、自分なりに見て、経験して、身につけるしかないかもしれない。むしろ逆に、自分に合った方法を見つけ、身につけていくべきだと思う。
 他方、表現の仕方は、ある程度、文書・図書による理解ができるものであると思われる。
 具体例は、別の機会に記述するつもりであるが、根本的な考え方として述べると、次のとおりである。
 表現の仕方には、いろいろなバリエーションがあることはわかっていただけると思うが、自分の表現の仕方(言葉の選び方)と近いが、しかし異なる方法に、どれだけ気がつくかどうかがポイントだと思われる。自分の表現の仕方を境界線でとらえると、どのようなところにあり、その境界線を越えるとどのようなところがあるかという感覚である。
 エッジ(端)の感覚をもつことが必要だと思う。

サッカーの監督のように振舞おう

 経営者は、サッカーの監督に似ている。
 選手は、自分の判断で動く。野球のように打順が決められているものではない。監督は、そのような選手をコントロールし、影響を与えて、試合を自分の試合として闘うことになる。
 サッカーの監督の姿を見ていると、さまざまであることに気がつく。
 大声を出さなければならない時があるだろう。頭脳だけでなく、全身で表現するべきだろう。自分のやり方で周囲を気にせず、闘おう。

ストラディヴァリウス

バイオリンの歴史を辿るストラディヴァリアーノ博物館で、イタリア人ガイドさんが、「ストラディヴァリウスを買うことができる人は、世界に多くいますが、それを演奏できる人は、ぐっと少ないのですよ。」という話をしていました。
演奏ができる人を養成することは、簡単ではないということです。

経済的成功と世界最先端の関係を象徴的に表現していると思いました。
現代は、経済的な尺度で全てを判断するきらいがあります。
多くの分野で、経済が優先していますが、経済の限界といったことも同時に考えるべきであり、そのことをうまく表現する方法が必要となっていると感じていました。
イタリア人ガイドさんの話で、うまい表現方法だと少し頭がすっきりしてきた次第です。

デフレ時代の資産管理

 眼を世界全体に向ければ、デフレに苦しむ国ばかりではないから、投資先はいくらでもあると言える。
 しかし、日本で生活をする者としては、日本での資産管理が中心となるだろう。特に、従業員の雇用を考えなければならない立場の者としては、何でも国外に移せば良いというものでもない。

 それでも、このデフレの時代は、資産をどのように持つのが良いかは悩ましいところだろうと思う。
 自宅は買うべきか借りるべきかという議論も、デフレの時代だから起こるのであろう。自宅としてだけでなく、不動産を取得して何かビジネスを始めるのが良いのかどうか疑問に感ずる人は多いだろうと思う。何しろこの20年間は、不動産を購入した大多数の人は、評価損が生じていると言って良い。評価損が生ずるのであれば、キャッシュで持っていないといけないと誰でも考えるだろう。

 私は、経済については素人であるが、デフレ時代というのは、これからビジネスを起こそうと考える人(多くは若年者)にとっては、酷な時代だと思う。逆に、既に収益基盤を固めた人(多くは年配者)にとっては、キャッシュを蓄積し、本当に良いと考えるものだけを購入すれば良いのだから、落ち着ける時代なのだろう。
 インフレ時代とデフレ時代を半分くらいずつ経験した私としては、どちらが良いのか即答しにくいが、起業者になって社会に認められたい(稼ぎたい)という若者が少なくなるのは問題だと思う。キャッシュを貯め込んで何もしない方が有利となっては、社会は楽しくないだろう。その意味で、歴史的に、デフレの時代よりは、インフレの時代の方が長いのではないかと考えている(素人ながら)。

 しかし、デフレの時代は、まだ終わったとは言えないのだろう。この20年間、企業家としてがんばってきた人にどのように声をかけたら良いのだろうか。
 私の感覚で申し上げるのであれば、評価損をかかえても(私もかかえているけれど)、資金が回る程度に仕事ができているならば、社会は、その蓄積を評価していると思う。蓄積の中から収益を得て、更に投資(ビジネス活動)するならば、デフレの時代は、昔よりも大きなものが手に入る。日頃からビジネス活動をしていなければ、急にそれができるものではない。ビジネス活動にがんばっていることは、デフレが反転したときには、大きな力となると考えている。

モードの切替

オンとオフのような、状態・形式の切替は、もっと考えられても良いのではないかと思う。
今は、安全に運転するときと、モードを設定すれば、気分を変えられるだろう。

モードの切替を行なわないと、いつも一本調子になってしまい、メリハリがなくなる。自分がせっかちな性格ならば、いつもいらいらすることになってしまうだろう。

大づかみにでも自分でモードを設定すれば、自重ができる。自分をコントロールする方法として、利用してみると良いのではないかと思う。

リーダーの心情

 従業員(部下)は、真っ先に「できません。」の返事だけはする。
 取引先は、期待した水準の仕事をしてくれない。
 紛争の相手方は、形式的な主張ばかりで、話がまとまらない。
 何も知らないのに、批評だけはする人もいる。
 ・・・並べていったら7、8個はすぐ並ぶ。
 こうでありながらも、リーダーは、現場で、なんとか乗り越えていかなければならない。この心情がわかる人とわからない人に2分されるだろう。
 こうしたリーダーの心情は、歴史上、いつもそうであったと思われる。簡単に改善されるとは思われない。達成するまで我慢強くやりぬくだけだろう。
 達成したときに、自分を誉めれば良い。
 (この文章は自分のために書いているものではありません。念のため。)

レベルの問題か、ラベルの問題か。

 誰の話であったか忘れたが、人間には、レベルの問題ではなく、ラベルの問題を言うべき場合があるという話は、今も印象に残っている。(なお、「ラベル」というのは、人種差別につながる言葉ではなく、全くタイプの違う人というくらいの意味で理解している。)
 年を重ねてくると、「レベルを上げる」努力ではなんともならない場合があることに気がつくのではないかと思う。
 たとえば、上司として、部下が忙しいのはわかっているけれども、もう1つ継続してやってほしいことがあるのに、それができないということがあるだろう。1つ1つの仕事の効率を上げて、少しまとまった時間を作る工夫とか指示しても、それがどうしてもできない。また、1つでも仕事がオーバーフローすると、全体ががたがたになってしまう人もいる。
 こうしたとき、レベルの向上ができない場合もあるのだと思われる。レベルの向上で解決がなされれば大いに賞賛されるべきだと思うが、ラベルの問題だと思われれば、それに応じた対応をしなければならない。このことは、あたり前のことだと思うが、ラベルの問題があることを理解するのに、時間がかかってしまうことがあるように思う。

悪人正機説

過ちを行なった人間が、被害者から、いつまでも責められ続け、それでも気持ちが切れることなく、自分の過ちを反省して、自分にできることを、終生行ない続けようと考えたとき、悪人正機説の意味がわかるのではないか。
それは、善をも超える感覚であり、宗教的啓示かもしれない。

一番の資産は、その人の中にある「考え方」である。

一番の資産は、その人の中にある「考え方」である。

いかなる災害、悲運に遭遇し、損害を受けようとも「考え方」が大丈夫であるならば嘆く必要はない。
 
「考え方」以外の従来、資産と呼ばれてきたもの(たとえば、金銭、不動産、株式、自動車、家財道具)は、「考え方」の表現方法ではあるものの、それだけでその人を豊かにするものではない。
 
物があふれる今日の時代になると、家財道具は、その転売価額がほとんどないことに気づく。

すると家財道具をもっていても資産とは感じなくなる。

それは単に自分の生活を構成する1つの道具にすぎない。

このことは家財道具だけでなく、「考え方」以外の全ての資産に該当することである。
 
今まで資産だと考えていたものが、実は道具にすぎないということ、そして、問題はその道具でもって何をするかということ、こういった感覚をもつことが次のレベルへのステップとして必要である。

運営力と管理力

 何らかの事業を進める場合、そのために必要とされる力は、色々あるだろうが、少なくとも表題の2つの異なった力は、常に必要となるだろう。
 運営力とは、事業を推進する力である。通常は営業力として表れるものであるが、もう少し広く対外関係全般をコントロールすることを念頭においている。
 管理力とは、事業の状態を把握し、コントロールする力である。
 通常は、総務・経理などの部署で行われるものであるが、それに限定せず、対外関係も含む日常的な業務の管理も含めて念頭においている。
 運営力と管理力は、重なるところもあると思うが、要は2つの異なった視点を持って、事業を見るべきだと思う。
 例えば、貸ビルの事業の場合、ビルのメンテナンスやテナントへの請求など、日常的に管理は必要であり、その力を向上させるべきだろう。
 しかし、テナントの誘致や現テナントとの関係の維持など、事業を推進するための運営も必要である。
 一般的には、ビル管理のみに眼が行きがちであるが、ビル運営という面が重要であることも注意したい。

運命

 「ソクラテスの弁明」の最後に、「しかしもう去るべき時が来たー私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。もっとも我ら両者のうちのいずれがいっそう良き運命に出逢うか、それは神より外に誰も知る者がない。」とある。
 ソクラテスが、死後の世界をどのように思い描いていたか、私は知らない。私は、死後の世界を想定していないので、その立場からは、この文章は、現世のこととして解釈することになる。
 私は、次のように考えている。
 運命は、誰も知ることができないということだ。どのような職業に就くかなど、人それぞれに、あれこれ考えて、選択する。しかし、その後の推移は、考えていたとおりには進まない。誰も知るところではない。人があれこれ評価しても、ただあれこれ言うだけだ。それを気にする必要はない。運命は、自分が受けとめるだけだ。事実は事実として受けとめるが、その評価は自分が行なえば良い。

怨念をどのように扱うか

 第一次世界大戦後の講和にあたり、「フランスのドイツに対する怨念」をどのように制御(コントロール)するかが問題となった。
 非現実的な賠償金を課すことにより、ドイツ経済は混乱し、戦争で疲弊したヨーロッパ経済を再起不能な状態への追い込むことになった。ケインズは、イギリスの大蔵省代表として講和に加わったが、条約締結直後に抗議の辞任をしている。ケインズは、フランスのドイツに対する怨念は、ヨーロッパの未来を見据えた理性によって制御されなければならないと考えていたという。
 一個人や一企業の紛争解決にあたっても、怨念が突っ走ったことにより、かえって自分の利益を害してしまったケースを目撃したことが多々ある。
 経済的利益よりも怨念が優先することを直ちに悪いこととは言わないが、怨念とはあまり関係のない人までが経済的不利益を受けてしまうことは忍びがたい。

温泉(法律には関係ない話)

最近、温泉に、ますますはまっている。
台湾には多くの温泉があるようだが、中国大陸(詳しく知るものではないけれど)と日本の大きな違いだと思う。

20代・30代の頃から、温泉地には宿泊していたが、当時は、食事会、飲み会に重きがおかれていたり、観光に関心があって、温泉そのものを味わうことはなかったように思う。

40代半ば頃に、温泉の香りの違いに初めて気づき、強い刺激の温泉を好むようになった。
草津温泉、玉川温泉、蔵王温泉などの硫黄泉、酸性泉を、温泉らしいと感じたということだ。

ところが、50代になって、甲子温泉(硫酸塩泉)に行ったとき、強い刺激はなかったものの、と言うよりも、そのためか、柔らかい湯であり、非常によく眠れたのである。

今まで気がつかなかったことに気づいた気分だった。

仮説を立てることは、幸せを考えることでもある。

 自分のこれまでの経験、学習によって、世の中に対する理解が進むと、そこから仮説が生まれる。仮説は、社会のあり方というような大きなテーマもあれば、ある1つの美術作品をめぐる細部に踏み込むテーマもある。
 仮説を立てるのは、自分の理解が正しいかどうかを確かめるためであることが多い。しかし、無目的に仮説を立てても、その場限りになってしまうだろう。やはり、人間に対する理解に及んでいくことになると思われ、そうなるとこの世の幸せについて考えていくことになるように思う。この世の幸せと言っても何も大上段に構える必要はなく、ちょっとした場所のちょっとした展開で良く、それが組み合わさると新しい幸せに結びつくようにも思う。

何を判断材料にしますか。

法律事務所は、見通しをつけることが、重要な仕事です。

この場合、判決や審判を予想する場合、
(1)裁判所が証拠からどのような事実を認定するか。
(2)ある事実が認定される場合、裁判所はどのような結論を引き出すか。
などを考えます。

このとき、そのような判断が、良いことか悪いことかは基本的に考慮しません。

ちょうど、青信号は「進んでOK」、赤信号は「止まれ」、というルールがあるとき、なぜ赤が「進んでOK」でないのかと問われても、そのようなルールで物事が進められますとしか答えようがありません(もちろん、なぜこのようなルールとなったのかを、詳細に調べることはできるでしょうが、普通、いちいちそこまでしないでしょう)。

ところが、自らの価値判断を優先させる方も多いのです。

何回も注意を受ける人たち

 世の中では、何回注意しても改善されないことがあります。
 注意する人は、改善しない人が、自分をばかにしているのかと思えてきて、だんだん腹が立ってきます。
 特に不良品が発生し、実損害が発生している場合、深刻です。
 顧問先から、どうしたら良いかという相談がきました。
 この場合、最初に必要なことは、いつ注意したか、いつ不良品が発生したかが明確かどうかです。
 何回も注意を受ける人たちを見ていると、共通するのは、こまめでないこと、記録されていないこと、記録を振り返らないことです。この結果として継続してできない人たちなのです。
 こまめであること、記録すること、振り返ることの文化を作るしか改善できないと思われます。そのためには、こちらの文化を、こまめ・記録・振り返りを大事にするものとしなければなりません。

価値の内面化

 今、日本に住む人たちの中で起こっていることは、価値の内面化と言うべきことだと思う。(統計などに基づく判断ではないので、不正確と言われるかもしれないが、方向としては誤っていないと考えている)
 世代によって若干の差はあるかもしれないが、もっと量がほしいと思っている人は確実に減っている。お金がもっと欲しいという人は多いだろうが、将来への備えとして、念には念を入れて蓄積したいと考える人たちの方が多いのではないかと思う。もちろん失業、離婚などで日常生活の維持のために、お金があればあるだけ助かる人たちも多いとは思うが、全体の半数以上ではないだろう。
 自動車に関心をもたない若者のことが話題となったが、親の世代から「そろそろ家を持ったらどうか。」と言われても、それを受けない子の世代があるのも同じことだと思う。多くの人は、家が余ってくる(既に余っている)と感じているのだと思う。
 多くの人は、自分の価値観に合ったことは深めていきたいと考えていて、それは量を追求することではなく、内面に価値を見つけ、それを掘り下げることになっている。
 旅行について言えば、少しでも多くの所へ行きたいというのではなく、受身で連れて行かれるのではなく、自分のスタイルで行きたいと思う人が多くなったのではないかと思う。
 価値の内面化は、金銭で評価すると、さほど大きな金額が必要というものではなく、むしろ知恵に依るところが大きい。したがって、人々の関心を金銭のみで評価すると、それは、年と共に減少することになるだろう。
 内面の価値であっても金銭的に大きく評価でき、経済成長できると考える人もいるだろうが、知恵の部分は金銭と異なる動きをするだろう。
 このように考えてくると、経済的に日本は真っ暗に感じられるかもしれないが、企業は、細く長くやっていくということが大事ではないかと思う。

会合がおもしろくなくなってきたら

 定期的に開かれる会合は多く、人の縁など、いろいろな事情から参加している人は多いと思う。
 参加することに何らかの意義があったり、おもしろければ良いが、時間の経過と共に、変わってくると悩ましくなる。
 このあたりをどのように考えたら良いだろうか。
 若い頃は、自分の好みや価値観が、自分でも十分わかっていなかったところがある。また、まずはいろいろ体験して考えようとも思っていた。
 しかし、年を重ねるにしたがって、自分の好みや価値観ができてくると、この点に関して保守的になる。また、時間が貴重に思えてくる。「暇つぶし」をしなければならない時間は、私には、あまりないように思える。
 そうすると、若い頃は、ある程度、近くにいた人のグループで行動していたが、だんだん独自の道を歩むようになる。独自の道と言っても、同好の友は、見つけようと思えば世の中には多いと思う。
 ある程度、意識して、自分の時間の使い方を変える必要があると思われる。

会社・家族の歴史は、どのように作られるのだろう。

「いつまでもデブと思うなよ」の著者である岡田斗司夫さんの「レコーディング ダイエット」ではないが、何も記録がないところに、歴史は作られるのだろうか。
自分の記憶に残っていれば良いという考え方もあるかと思うが、誰かが何かを残さないと歴史を語れないのではないかと思う。
(父母が亡くなったときに、亡くなったことを一番実感したのは、「ちょっと聞いてみよう。」と思ったときに、尋ねる先がないと改めて知ったときだった。こんなことなら、もっと聞いておくべきだったと思う。)

しかし、記録をするといっても、最初から歴史を意識して残すことはあまりないだろうし、全ての記録を保管することもできない。どこかで選別が必要になってくるだろう。

アップル社のスティーブ・ジョブズが、2005年6月12日、スタンフォード大学の卒業式で行った祝賀スピーチ(ネット上で、日本語で探せる)は、感動できるものだが、その中で次のように述べられたという。

「大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。(略)点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。」

過去を振り返ると、その価値に気がつくということであるならば、未来の自分か誰かに判断してもらうしかないことになる。「過去を振り返るのはまだ年齢的に早い」という想いもあり、歴史として残すことのむつかしさを感じる。

企業(ある部門)の動きを例えると何か

 昔から、サッカーを例えに出している。
 (ちなみに、最近少し痩せたためか、サッカー日本代表監督の岡田武史さんに似ていませんか、と何人かに言われたため、ますますサッカーを念頭においている。)
 企業(大きな企業の場合は、ある部門)は、野球よりは、サッカーの方がその動きを説明しやすいと思う。
 選手は、ボール(課題)が来れば、まず受け止め、ドリブルで運ぶか、パスするか、シュートするのか、自らが判断して動かなければならない。
 ところが、企業では、ボールが来ても、指示がなければ受け止めようともしない人も多い。それではサッカーにならない。人によっては、ボールを受け止めるどころか監督(チーム長)にボールを押し付ける人もいる。
 ボールを受け止めると言っても、ただじっと待っているだけではサッカーにならない。選手1人1人が常に全体の動きを想像(イマジネーション)して、次への動きをしなければならない。
 小学生のときのサッカーのように、皆がボールに集まってきて、グラウンドを広く使うことができていないことも多い。特に危機状況になると、皆がゴール前に引いてしまい、見える所にいる人しか使えなくなっているチームも多い。
 私はサッカーの専門家ではないから、いろいろな戦術は分からないが、企業(ある部門)の問題点は、サッカーの状況に例えることで説明しやすいと思う。

気がついたことを記述する。

 事務所では、グループウェアソフトを独自で作り、利用しているが、キーワードによる検索ができることが便利なので、自分だけが見ることができるweb会議室をもち、日記をつけている。
 日記と言っても、日々の出来事を記述することもあるが、そのときどきに、これは重要な発見だと自分が考えたことを記述し、何年か経ってから読み返すことに利用している。
 また、ブログなどを読み、なるほどと思ったことを、引用を明確にして、日記に収集している。ある種のコレクターとなっている。
 こうした生活を送っていると、自分では気がつかなかったことが多いと感じ、物事を注意して見るようになったと思う。
 文章や何らかのコメントを求められたとき、すぐに提供することは大変だと思っていたが、それなりにできるようになるのではないかと思う。
 気がついたことを記述するというのは、こまめでないとできないように思われるが、習慣の問題だと思う。

気の毒な人でも、その人に「被害者」のレッテルを貼ってはいけない。

「被害者」となると、かわいそうだが、敬意の対象とはならないという意見を聞きました。

最近のマスコミ報道は、「被害者」を前面に出していますが、常に、違和感を覚えます。
気の毒な人に対する、お涙頂戴的な扱いは、物事の解決に結びつかないと考えます。気の毒でない自分の立場に、安心感を確認するだけに終わるか、責任者探しという、自分以外の誰かに対する攻撃を始めることになるように思います。

大変な思いをされた人が、それを乗り越えて発言されるとき、考えさせられる重みがあります。
しかし、それまでは、静かに見守るべきではないでしょうか。

「被害者」に対する敬意を感じられる報道はできないものだろうかと感じます。

繰り返しの効用

 効率化は繰り返しの中で実現されていく。
 毎日繰り返されれば誰でも改善に気がつき、効率化に結びつくだろう。
 ところが、ときどき繰り返される案件の場合、「忘れた頃にやってくる」ため、毎回、1から始めていることが多い。このため改善が行われにくくなり、効率化に結びつかない。製造に関する何らかの物についての問題であれば、事例を蓄積しやすいかもしれないが、サービスや対人問題などになると、事例の蓄積がむつかしくなると思われる。
 どのように対応するべきか。
管理者側としては、記録を残す文化を植え付けることが必要だろう。記録の検索ができれば、共通点に気がついたときに対応を研究し、将来に備えることができる。
 従業員の側としては、自分が今行なっていることは、将来も起こりうるという認識をもち、事柄を一般化するセンスが求められる。その場のみの対応ではなく、もっと広く考えることが評価される仕組みが必要となる。

経費化(損金処理)できる支出

 企業家の感覚として、経費化(損金処理)できる支出であれば、抵抗が少ない。
 仕事が自分の楽しみ(遊び)であり、仕事をする中で経費として支出することを楽しめれば、仕事と遊びは限りなく近づく。
 逆に、自分の楽しみ(遊び)を仕事にしていけば、経費としての支出となってくるであろう。
 仕事と自分の楽しみ(遊び)が、そんなに一体となるものであろうかと思われるかもしれない。むしろ、オンとオフを明確に区分した方が良いという考え方もあるかもしれない。
 しかし、仕事と遊びは、一体となって生活を形づくるものであり、成熟した時代になるほど、両者は一体化する。また、生活の中で税負担がやむをえないのであれば、仕事と遊びと税の関係に、どこか調和点を見つけるべきだろう。

継続は力であるが、そのためには何が必要か

 どの世界であれ、成功している人、成果を出している人は、継続して行わなければならないことを実行している人だと思う。ポイントは、何事もなければ継続して行えていても、いざ忙しくなるとか、事故が起こると、継続してできなくなってしまうところを、中断することなく続けられるかどうかだろう。やむなく一時中断ということはあったとしても、すみやかに復旧して継続できることが重要だと思われる。
 このように継続してできるためには、自分の仕事の全体を理解し、その中で継続して行うべき重要事項を把握していることが必要だろう。外からの影響で中断したままとなるのは、仕事の仕方が場当たり的であるということであり、自分の仕事の全体像をつかんでいないということであると思う。

現実の観察

 自動車運転の「交通の教則」によると、車両の通行帯について、次のようなルールが示されている。
 
「同一の方向に2つの車両通行帯があるときは、左側の車両通行帯を通行しなければなりません。また、3つ以上の車両通行帯があるときは、最も右側の車両通行帯は追越しのために空けておき、それ以外の車両通行帯を通行することができます。この場合には、速度の遅い車が左側、速度が速くなるにつれて順次右側寄りの車両通行帯を通行しましょう。」

 しかし、現実の姿は、このようにはなっていない。
 最も左側の車両通行帯には、駐車車両があるため、その通行帯はスムーズに通行できないからである。
 駐車禁止となっていても駐車している車は多い。また、5分以内の荷物の積卸しのための停止の場合は駐車にならないとされている。したがって、トラックが路上に次々と並び、荷物の積み替えをしている光景もよく見かける。このため、最も左側の通行帯は、停車車線(現実は駐車車線)となる。
 このため一般のドライバーは、スムーズに通行できる追越車線を走ることが一般になり、追越車線が通常の走行車線になる。
 追越車線が通常の走行車線になると、ゆっくり走る車も多くなり、本来の通常走行車線である最も左側の通行帯が追越車線になる。
 交通のルールと現実の姿が、ずれている事態となる。

 このように本来あるべき姿と現実の姿とがずれていることは、よくあることである。この場合に、本来あるべき姿だけを言い張っても、その実現はむつかしいだろう。
 現実の姿は、そのようになる何らかの因果関係があるからであり、その因果関係をふまえて対応策を考えなければ物事は解決しないだろう。現実を観察することは、この点で重要だろう。

現場で身につく知恵

 弁護士は、基本的に法律の定めを念頭において判断し、実行していると言ってよいでしょう。裁判官は、より一層、そうであるでしょう。
 しかし、弁護士は、裁判官と違って、生身の人間の言い分を、まだまとまっていない状態から、直接的に聞く立場にあり、その経験から、いろいろな対応方法を身に付けていくと思います。
 それは、法律とは別の、経験的な知恵とでもいうものですが、非常に効果のあるものだと考えています。
 しかし、それは、直観的な洞察であり、文字になっておらず、人に伝えにくい面があります。
 逆に、私が、まだ身につけていない「知恵」もたくさんあるだろうと考えています。
 最近、『天才はいかにうつをてなずけたか』(アンソニー・ストー著(著者は精神科医)、求龍堂)に眼を通し、精神科医のもつ「知恵」を強く感じました。この本に書かれていることは、これまでの法律家向けの教育の中では、教えられたことはないものです。
 その一部は、経験的に学んでいますが、断片的であり、まだまだ気付くべきことが多いと知らされました。
 このような暗黙知とでもいうべき「知恵」の伝承が、人間の集まり(組織、企業)では重要でしょう。

現世(現時点)志向

 私は、中学2年生くらいから高校受験を周りから意識させられた。高校に入学すると、全面的に、大学受験の準備に追われた。受験勉強にはあまり興味をもてず、大学に入学したら、もっとやりたい勉強ができると考えるようになった。浪人中も同じように感じていた。
 大学に入学すると、確かに読みたい本を読めるようになった。しかし、教養課程の授業は、興味が持てるのは半分以下だったかもしれない。
 そのうちに司法試験の受験を考えるようになり、大学受験以上の受験体制をとるしかなかった。
 司法試験に合格すれば、自由になると思うようになった。司法試験になんとか合格し、司法修習生になると、給与も与えられ、いろいろな経験をすることができた。しかし、要件事実教育というものには正直なじめなかった。
 司法修習生の卒業試験である二回試験を終えれば自由になると思うようになった。
二回試験を終え、弁護士になると確かにスケジュールはある程度自由になった。しかし、依頼者との打合せに忙しくなり、自由とはいえなかった。
 その後、独立して自分で法律事務所を運営するようになったが、事務所運営のためにも収入を得なければならず、悩みは尽きない毎日となった。
 こうして自分は〇〇となれば自由になれる、楽になると考え、未来を信じて生活してきた。
 しかし、これだけ時間が経過すると、いい加減に気がつくようになる。また、時代が変わるにつれ、未来を信ずることができない場合も出てくることだろう。
 いつか良いことがあると考える希望を否定するものではないが、今考えているこの瞬間が、自分が動ける余地だと全肯定する方がおもしろいだろう。

言語コミュニケーション能力

 この能力は、リーダーになろうとする者にとって必要なものである。
 しかし、この能力のない人は、世の中に多い。こうした人に対してどのように接するかも重要な能力である。

 コミュニケーションは、言語だけでなく、非言語のものもあるのではないかと考える人も多いかもしれないが、社会の中での活動を考えると、まず言語を優先せざるをえない。
 「日本では、親が乳児期の子と交流を持つ際、『非言語的』に接する傾向がたいへん濃厚なことが知られている(正高信男著 ケータイを持ったサル?『人間らしさ』の崩壊? 26頁)。」「言語的でない働きかけとは、赤ちゃんの『バブバブ』と響くような意味不明瞭な発声に、大人が同じようにつき合うものがほとんどである。母親が自分はしっかりと言語使用できるにもかかわらず、未熟なわが子につき合って、同水準でおうむ返しに『会話』してやっている。」これに対し、「欧米にはこうした育児習慣はあまりない。相手が子どもであろうと大人であろうと、ほとんど同じように日常のことばづかいで対応するのである。」

また、アメリカではディベートを重視すると聞く。

 こうした違いは、世の中で各人がどのように生きていくかに関して、とらえ方が異なるからであろうと思う。
 割り切って言うならば、心地良い同質の世の中を前提とするか、社会の骨格を重視して異質な組み合わせを前提とするか、という違いだろう。
 その優劣をつけることはできないだろうが、社会の立ち位置によって両者の調整が必要だろう。

言葉を離れて感覚でとらえること

 私は、言葉のやり取りの世界で仕事をしている。言葉は、大事であると考えている。
 しかし、言葉を離れた世界は広くあり(むしろ、言葉の世界よりも広いだろう。)、その世界を忘れてはならないだろうと思う。
 言葉を離れた世界をどのようにとらえ、表現するかは、感覚の全てを使うことになるだろう。
 美術や音楽の世界が広がっているが、温泉に入る時の香り、肌触りも同じく感覚の世界だろう。しかし、経営の中でも感覚の世界はあり、後継者などに伝えるべきことは多いだろう。
 こうした感覚の世界は、記録することが難しく、蓄積が困難である。感覚の世界は、それぞれの人が体験する世界であるが、その体験のための準備は、言葉も含めた総合的媒体で行うことになる。記念館、個人美術館、墓(はか)、写真集、ビデオ、資料集など見直してみる必要がある。

孤独

自分は、どうも、世の中の流れからは、完全に離れてしまったのではないかと感じるときがある。
これを「孤独」というのだろうか。このことは、以前にも書いた。
「孤独」をキーワードとして、少しさまよってみた。

「孤独」アンソニー・ストー著 (創元社)には、日本語版への序に、次のような記述がある。

「私は、創造的活動において孤独がはたす機能と同様に、平凡な人々の人生において孤独がいかなる位置を占めるかを、もう一度考えるようになったのである。今世紀を通してずっと、西洋の精神科医たちは、親密な人間関係こそが幸福と情緒的安定の鍵であると言明してはばからなかった。(中略)
とはいうものの、孤独には積極的に評価されるべき多くの機能がある。そういう孤独のはたす機能によって、人間は死別することだけでなく、人生における他の形の喪失や過激な変化と折り合いをつけて、心の平衡を保ちうるのである。」

また、同書では、エドワード・ギボンの言葉として、次のような紹介がなされている。

「会話は理解を豊かにする。しかし、孤独は天才の道場である。一つの作品の持つ統一性は、それがただ一人の芸術家の技によるものであることを示している。」

自分を天才であるなどという、おこがましい考えは全くないが、新しい観点が示されたという思いである。

孤独にキーポイントがある。

最近、私は、世の中や周りの大多数の感覚から、はずれてしまったのではないかと感ずることがある。
これが「孤独」というものだろうか。

こんなときに、国際通貨研究所理事長の行天豊雄さんの次の言葉に接した(日本経済新聞「私の履歴書」)。

「死ぬまで、孤独を恐れない強さを持っていたい。それがあれば、世の中と人間の真実が見えるだろうから。」

以来、「孤独」にふれた歌にも耳が反応するようになった。

攻撃的な人たち

時代の流れなのかと思いますが、現在は、攻撃的な人たちが多くなっていると感じます。

何らかの「被害」を受けた場合、加害者が悪いのだから、被害者の言い分を聞くべきだという形で、強い主張が出てきます。
被害を受けた場合、被害回復がなされるべきであることは当然のことですから、そのことを誰も否定できないでしょう。加害者であるならば、なおさら、このことを否定できません。

しかし、「被害」が何なのか、はっきりしない場合も多く、事はそう簡単でないのが現実です。

「被害」を受けた場合、交渉のスタイルとして、攻撃的な主張をすることはありますから、それはそれとしてよい場合もあります。冷静な判断の上で、交渉のやり方と着地点を考え、交渉することは合理的でしょう。

しかし、相手方が、感情的になり、「被害」を主張するときは、こちらは、十分に観察する必要があります。

合理性への信奉と疑い

 自分自身は、合理性を重んじるタイプだと思っている。理にかなうことは、最終的には差となって現われると考えている。したがって、合理性への信奉があると言って良いだろう。
 世の中では様々な出来事に出会い、「そのやり方は合理性がないな。」と感ずることも多い。
 しかし、部分的には合理性がなくとも、全体としては合理性があることがあり、しかも、そのような場合にこそ画期的な成果が出ることがある。「損して得とれ。」という言葉も、そのような意味だろうと思う。
 すると、合理性自体も疑ってみる必要があることがあり、考え方を鍛えるためには、重心を様々に変えてみることが求められる。

裁判官と弁護士の違い

 1つの事例に関与する時間は、裁判官より当事者の代理人である弁護士の方が、相当に多いでしょう。
 このことは、弁護士が当事者から事情の聴き取りを行ない、整理しなければならないことから、わかっていただけるものと思います。
 1つの事例に関与する時間の差は、裁判官と弁護士の感覚の違いとして表われてくると感じます。
 弁護士は、一方当事者の話を聴く機会が多いので、バイアスがかかっているようにも思われますが、時間をかけている分、事実関係を理解している自負があります。
 裁判官は、判断の専門家としての自負をお持ちだと思いますが、担当している事件数からくる、自身の限界もご理解いただいているものと思います。

裁判官は、真相を本当につかんでいるか。

ここでは、「裁判官は、真相を本当には、つかんでいない」と言うつもりは一切ありません。
なぜならば、裁判官がつかんだ「真相」こそが本当だと言わざるをえないからです。この点は、人によって、それぞれ受け止め方が違ってくる点でしょう。裁判官にも誤りは当然にありますから、真実を経験した人からすると、誤判だと断言できることはあるでしょう。弁護士として裁判手続に関与している者として、このように断言できる人の気持ちは良くわかります。
しかしながら、裁判官が(裁判官も人の子ですが)認定した事実に基づき、事が進んでいくという現実は、十分に理解する必要はあります。

裁判官は確信をもって判断しているのか。

まず、立証責任がどちらにあるかというルールに基づいて(確信に至らないときは)、判断されるといえるでしょう。

しかし、双方の言い分が正面から食い違い、どちらの言っていることが本当なのかという微妙な判断をしなければならないことは、よくあります。このようなときは、裁判官なりに見極めるために、いろいろな思考があるものと思います。「筋を見る」というのは、このことと言っても良いと思います。

人は、誰しも、自分なりに「納得がいった!」と感じた時に確信が始まります。一つの納得から、次の納得を得ていきます。このとき、正解から正解が連続していくこともあれば、誤解から誤解が連続していくこともあります。裁判においては、誤解から誤解が連続してはいけないのですが、人が確信に至るプロセスは十分に理解しておかなければなりません。

財産は何のためにあるか(財産のある人のイメージ)

 この問題は、財産をもってから考えるべき問題かもしれません。
 また、この考え方が一番の正解であるという、答えのある問題ではないと思います。
 しかし、マスコミなどで流される、財産のある人のイメージは、あまりにも画一的だと感じますし、財産の本質をとらえていないと思います。
 マスコミなどでは、不必要に大きな「豪邸」に住んでいることをもって、財産のある人をシンボル化していることがあります。
 しかし、投資センスのある人ならば、不必要に大きな「豪邸」にお金を使うことは、お金の使い方として、できないのではないでしょうか。
 良い意味での「野心」がある人ならば、お金はどこまで行っても足りないでしょうし、だからこそ、「足るを知る」とも言われるのだと思います。
 社会は、もっと、財産のある人のイメージを考え直すべきように思います。

散歩

 今年の夏の暑さは異常であったので、散歩を控えていたが、涼しくなってから、また散歩するようにしている。
 散歩と言っても、家の近所を少し歩く程度ではなく、地下鉄なども使って、ある地点まで行き、そこから2、3時間歩き、また帰るというものである。
 歩いていて気がつくのは、それなりの繁華街は別として、歩いている人が少なく(ほとんどない)、その代わり、皆、車で移動しているということ。歩く道沿いには、それなりに店舗もあって、生活や商売の場だというのに、歩く人がいない。(もちろん自然に触れたいために民家の少ない道を歩くこともあり、そのときは当然歩く人は少ない。)
 歩いていると、「皆、いつまで車に乗る生活をするつもりなんだろう。」と考えてしまう。歩くスピードだと時間がかかるのかもしれないが、自然も含めて周囲の変化に気がつくことが多い、「皆が集まる目的地以外には関心がないのかな。しかし、楽しめる所はもっとあるのでは。」と思う。
 最近は、歩く生活の方が贅沢なのではないかとさえ思っている。

司法を志望される方へ

 知人が、司法を志望される息子さんを連れて、事務所にみえたことが何回かありました。
 確かに、裁判官、検察官、弁護士の生活は、見えにくいところがあります。
 いろいろな質問を受け、お話をすることで、息子さんがやる気になってもらえるならば、それは司法にとっても良いことだと考えています。
 司法改革の中で、私たちの世界も大きく変化することは明らかです。この変化をめぐっては、激論のあったことは承知していますが、前向きに行くべきだと考えています。特に司法は、これまで、いかにも応援団が少なかったと思われるので、この点はなんとかしたいところです。

子は、親に認めてもらいたいという心情が、根底にある。

子が、不安を感じた時、その原因をとことん追究していくと、親に認めてもらえるだろうかという心情に達すると聞いた。
したがって、子が、「どうしたら良いか分からない。」という悩みを発するとき、「こうしたらよい。」という答えが適切とは限らない。それよりも、親は、子を認めているということが伝われば良いのである。

紙と鉛筆の必要性

 パソコンに向かえば全ての処理はできるから、紙と鉛筆は必要ないと考える人がいるかもしれない。会議をするにあたっても、パソコンの画面をプリントアウトして利用すれば足りると考える人もいるだろう。
 処理の仕方が定まった分野であれば、それでいいかもしれない。
 しかし、処理の仕方が定まった分野の中に問題がないかを検討したり、これまでなかった分野についてまとめようとすると、1台のパソコンに向かうだけでは不足するだろうと思う。どのような環境でも、気がついたことをすばやくメモすることができ、自由に絵や図を描いたり、書籍や資料を自由にかけめぐろうとすると、1台のパソコンの環境では不足するのではないか。
 この場合、それをフォローするだけの装置ができれば良いのかもしれないが、思考をさまたげることなく記録することはなかなか困難なのではないかと思う。その中で、紙と鉛筆は安価で自由に使える道具であると思う。
 紙と鉛筆を使うことが少なくなっていることを危惧している。

資産の持ち方を見ると、その人の考え方がわかる。

 遺産分割をめぐる紛争では、亡くなられた方(被相続人)の遺産目録を作成することからスタートします。
 この遺産目録を見ると、いろいろと考えさせられますし、気がつきます。
 資産の配置の仕方は、その人が世の中に対してどのように考え、向き合ったかを示すものです。時間の経過とともに資産がどのように変化をしたかまでわかるならば、更にその人の考え方がわかるでしょう。不動産をどのように利用しているか、どのような株式を持っているか、換金しやすい資産なのかどうか、分けやすい資産なのかどうか、など考えさせられる点が多くあります。
 いろいろな人の資産の持ち方を見ると、自然に、自分はどうするのかを考えていくことになります。弁護士としての自分は、このような格闘の中で仕事をしています。

持続陽圧呼吸療法装置(CPAP)

 睡眠時無呼吸症候群との診断を受け、CPAPを使い始めた。
 睡眠時無呼吸症候群とは、一晩の睡眠中に10秒以上の呼吸停止または浅い呼吸(低呼吸)が1時間あたり5回以上あることである。
 CPAPでは、鼻のみによる呼吸を一晩中求められるため、正直なところ自信がなかった。口呼吸を行うと、CPAPから送られる空気が口から漏れてしまい、閉じた気道を開ける効果がなくなるためである。
 まだ、数日使ったのみであり、慣れていないが、意外に鼻呼吸のみで眠ることができた日があった。
 その翌朝は、いつもよりも1時間以上早めに目が覚め、起き上がってみると、全く眠気を感じないし、あくびも出ない。夕方まで、その状態が変わらなかった。
 これは私にとっては、衝撃的な経験であった。これまでの自分の睡眠には、やはり何か問題があったのだと思う。
 CPAPを使わない時でも、自分は十分に眠れていたと思っていたし、昼間に眠くなるといったことも、気になったことはなかった。しかし、CPAPをうまく使えた日の翌日の体調と比較すると相当の差がある。
 新しい機器を研究することの意義を痛感している。

時間が足りないという弁解をしてはいけない。

時間が足りないのは、大体の場合、自己の能力が足りないことによる。「できないんだから仕方がないじゃないか。」と言わないで、自分のできる範囲でやるしかない。そうやって、背伸びして、自分のできる範囲を拡張するしかない。

そもそも、自分を基準にして、できるできないを判断するのは初級者だと思う。上司の立場から、「できないと言うな。」という発言があり、その言い方は、ひどい発言だと思うかもしれないが、そこにこそ真実がある。

自己有能感

「仮想的有能感」という言葉が紹介されている。(「他人を見下す若者たち」速水敏彦著、講談社現代新書)

仮想的かどうかを問わず、広く「自己有能感」として考えたとき、これは若者に特有の現象でもないように感ずる。
相手方が若者だと、こちらがカチンときてしまうという面が強いのではないか。

「自己有能感」というだけでなく、「自己正義感」という面で問題と思える場合も多い。
自分は正しいのだから、正々堂々と主張して当然という物言いをされる方は多いと思われる。
しかし、言いっぱなしで、その後、どのように事態を解決しようとするのか全く考えていない人は困りものである。自分は正しいのだから、後は誰かが解決してくれて当然と考えているのであろう。
その人の言うことが正しいのかどうかという問題がある場合もあるし、仮に、相手が悪いとしても、人間誰しも時間も費用も有限であって、その有限の中でどうするかを考えなければならないはずである。

自分が目標とする人があるか。

 いろいろな会合などで多くの人を見る機会のある人にはわかってもらえると思うが、「この点はすごいな。」と感ずることは多い。全てがそろった人は少ないだろうが、自分が目標とすべき点を備えた人は多くいる。こうした人を見て、人は自分を向上させていくのだと思う。
 ところが、人を見る機会が少なかったり、また、素直に見る眼がないと、自分が目標とする人がないという人が出てくる。
 たとえば働く女性の場合、どのような表情・話し方で働いているかを見る機会があるかないかで大きく違ってくる。自分の職場から出る機会が少ないと、目を見開く機会が少なくなってしまうだろう。これは女性に限った話ではないが、人を雇用する立場でも、また雇用される立場でも注意するべき点だと思われる。

自分のキャッシュフローを大きくつかんでみる。

 世の中には、給料を払う人と受け取る人とがあるが、どちらであっても、自分のキャッシュフローを大きくつかむことは必要だと思う。
 会社や個人事業主であれば、申告のためにもきちんとした会計処理が必要だと思われ、「自分のキャッシュフローは、ある程度わかっているよ。」と思われるかもしれない。
 しかし、申告のための会計処理とは別に、次のとおりの分析をしてみることをお勧めする。
 まず、自分の事業と家計について、お金が動くたびにエクセル(表計算)に記録する。項目については、事業の規模により、自分の把握したいものに限定する必要も出てくるかもしれないが、できるだけ全体の数値が把握できるように選ぶこととする。
 選んだ項目については、まず収入と支出に大分類されるが、支出については、最終的な分類として、次の数値へとまとめる。
 (1)事業のための人件費(2)事業のための人件費以外の経費(3)税・社会保険料(4)消費(生活費)(5)投資(不動産取得のローンがあれば、元金返済額。金利は、(2))
 この収入と支出の5項目を常に把握し、年ごとの変化に注意する。
 この作業を行うことにより、お金の動きが把握でき、事業の中での不正が生じないようにチェックできる。
 また、支出の5項目のバランスをとることを意識できるようになる。今、自分がしようとしていることは、全体の中でどのような規模であり、どのような意味があるか、1つの項目の支出を減らすことにより、他の項目をどこまで考えることができるか、などなど、いろいろ考えることが出てくると思われる。

自分のテーマを、どのように見つけ、継続するか。

 年を重ねるにしたがい、自分が関心をもつことができるテーマは見つかるものだと思う。そして、さらに年月がたつにつれ、自分が関心をもつことができるテーマは、増えていくだろう。
 このようになってきたところ、ある時点で、自分が関心をもつテーマは、どのような形にまとめられるか気がつく。「そうだ!自分のテーマはAとBとCの3本にまとまる!」という具合に。
 A、B、Cは、自分の生涯のテーマのように感ずる。
 このような頭の中の作業は必要だと思う。しかし、テーマは、A、B、Cだけではない。さらに時間がたつにつれ、テーマは変容していく。生涯のテーマだと感じたものすら変容していく。
 テーマは変動するものだと思う。しかし、テーマは、その時々に十分な熱意と時間をもって追求される。その追求の中でいろいろな成果が記録される。
 記録は、1つのブロックのようにまとまったものではあるが、離合集散し、組み替えられて利用される面がある。
 その人の世代によって、利用する方法は、カードであったり、ルーズリーフのノートであったり、データベースであったり、私の知らない方法など、いろいろあるだろう。どのような方法であれ、組み替えができ、その組み替えを行ううちに、また新しいテーマが見つかる。これが継続するポイントだと思われる。

自分の気持ちを励ましてくれるのものは何だろうか。

母が亡くなってから、実家にあったものを整理してみた。父が先に亡くなったときは、まだ母が住んでいたので、実家にあるものを整理することは、金銭関係の証書などを除いて、なかったが、母が亡くなると全てを見ることになる。

私は、大学生1年生のとき、父母あてに、手紙を定期的に書いていた。もちろんワープロもなかった時代なので、万年筆による手書きだった。母が亡くなってから、私の書いた手紙がどのようになっているか、何十通かは書いたはずなので、残っているかどうか気になった。

実家のほぼ全てを探し、整理したが、結果的に1通のみ残っていた。私は、大学2年生のときから、司法試験の予備校(今で言うダブルスクール)に通ってみたいと思い、その費用(当時の我家にとって少なくない金額)をお願いする手紙であり、なんと便せん7枚にびっちり書いていた。

この手紙のことは、ほとんど忘れていたので、読み返してみると自分でも衝撃を受けた。この手紙以外の手紙は、父母の判断で捨ててしまったのか、自宅の建替えのときにどこかに紛れてしまい、紛失したのか、まだどこかに残っているのか、それはわからない。

しかし、この1通のみは、何らかの意図があって明確に保管されていたものと思われた。その意図が何なのか、今となっては確認のしようがないが、私なりにいろいろ推測している。

この1通の手紙は、自分が書いたとは思えない内容なのだが、現在の自分の出発点であり、貴重なものとなっている。

自分の人生

 自分の人生は、現代美術に似ていると思う。現代美術の作品は、その作品を見ただけでは、評価しづらい。その作家の追求する美しさは、その作家の活動の全体であり、人生そのものを通して見えてくるように思われる。
 自分の人生を考えるときも、他人と比べることは無意味である。ある基準で他人と比べて見ても、それはごく一部を見ているだけで、人生の全体を比べるものではない。自分の人生を考えるならば、トータルとしての自分を考えなければならず、自分をひたすら追求することはあっても、他人と比べる余地はない。

若者の道徳心

 ある地方のローカル線に乗ったとき、座席は、列車の壁に沿って横に長く続く形であった。そのうちの5人くらいが座ることを予定されている半分くらいには、6人が並んでつめて座っており、残り半分くらいのスペースに20代と思われる若い男が3人座っていた。3人が知り合い同士かどうかは、3人の服装や飾り物の趣味がよく似ていたものの、3人共が寝ていて、話をしていなかったのでわからなかった。3人共スマートであったが、1人は首を真横に傾けて寝ており、それだけでも2人分のスペースを利用していた。
 立っていた年配の人は多数いたが、誰も、つめて座るように伝える人はいなかった。
 妊婦さんや障害のある人などが立っていれば、注意したかもしれないが、こうした場合、どうするのが良いか迷うのではないか。
 こうした場合、注意しなければ世の中が良くならないから注意するべきだという意見の人も多いだろうが、私は、どちらかというと反対である。
 年配者は、若者に注意して不興を買うリスクと、自分は元気で立っている負担?とを比べているのだろうが、若者にあまり期待していないということなのか、と思われる。
 あそこに座っていた3人の若者が、将来、皆のために貢献できる人になるようには思えなかったが、若者には若者の苦労がこれからかかってくるだろうし、年配者は年配者で自立していくということを象徴していたシーンであった。

少し忙しくなると、指示された仕事が全くできなくなってしまう人

 私は、世の中に、このような人がいることが不思議だった。

 若い頃は、少し忙しくなったのであれば、努力でそれをカバーできるし、そうするべきものと考えていた。したがって、少し忙しくなったことにより、指示された仕事が全くできなくなるのは、努力不足だと考えていた。

 年齢を重ねるにつれ、私は、大部分の仕事は、使える時間が決まっていれば、その時間の許すかぎりで終えることができることを知るようになった。(もちろん、仕事の水準から、ある一定時間が不可欠である場合もあることは理解している。)
 仕事の完成度を上げるために、時間無制限でそれに取り組む場合もある。しかし、多くの場合、時間に限界があり、それに対して仕事は増減するから、決められた(または自分で決めた)時間の中で最大限の努力をすることになる。このような考え方は当然だと思っていた。したがって、少し忙しくなったことにより、指示された仕事のうち、一部分が完全にできておらず、欠落した状態となっている人について、私は理解ができなかった。

 私は、自分の手持ち時間に応じて、やらなければいけない仕事に割当てられる時間が変動するが、それは、相似形で変動するというイメージだった。相似形なので、減少割合に応じて、各々の分野に投じられる時間も減少するが、ある分野の仕事に投じられる時間がゼロになってしまうものではない。投入時間が減少してもゼロになるものではないから、その時間で、できる範囲の水準で行えば良い。

 ところが、少し忙しくなると、一部の仕事が全くできなくなってしまう人は、世の中に存在する。
デジタルとアナログの違いなのだろうか?私のようなアナログの側からは、デジタルの世界について十分理解するべきだろうし、デジタルの側からも、アナログの世界を知ってもらいたいものだ。

掌(たなごころ)のうち

 「掌のうち」は、物が手のひらの中にあるように自由になること(広辞林)とされる。
 孫悟空が、釈迦の掌のうちから出られなかった話は有名だが、掌のうちにある者の心情は、ある程度わかるものの、掌を出している者の苦労・心情は、簡単にはわからないのではないか。
 釈迦であればともかく、結構苦労があると思う。こう書くと、自分を釈迦に例えているととらえられるのかもしれないが。

消費の時間、生産の時間

 今、自分が行なっていることは、自分のために使っている時間なのか(消費の時間)、他人のためも考えて使っている時間なのか(生産の時間)、と考えてみる。
 それぞれについて、消費の時間、生産の時間と表現することは、正確ではないかもしれない。また、消費なのか生産なのか、区別のつけにくいことはあるだろう。
 しかし、消費か生産かを良く考えてみると、生産のためにしているつもりが、実は消費であることに気づくことが多い。
 生産が善で、消費が悪と考えるのではない。人生を楽しむという消費は大事なことだと思うので、善悪を論ずるつもりはない。問題は、生産のつもり(意識)が、現実は、消費であるというずれが生ずることにより、目的が達せられない事態となることである。

深い悲しみ

理不尽な被害を受けたとき、人は何を感じ、考え、行動するのだろうか。世の中で多くの人が理不尽な被害を受けているが、それが我が身に生じたとしたら、自分はどうするだろうか。

「幸福と成功だけが人生か?悲しみの日本精神史」山折哲雄著(PHP研究所) 4頁に、次のような記載があった。

「深い悲しみには底知れぬ自浄作用があると、このごろになって思うようになった。(中略)その悲しみの自己浄化の力は、怒りや喜びなどのとうてい及ぶところではない。
 深い悲しみとは、ある意味で容易に癒されることのない悲しみのことだ。容易には癒されることがないから、それは抱きつづけ、自分の内部で養いつづけるほかはない。その単調で孤独な生活のなかから、かすかに静かな自浄作用がはたらきはじめる。」

このような境地は、相当に高いものであり、私が到達できるものかどうか定かではないが、真に、日本古来の精神だと感ずる。

神仏に対し、何を願う(祈る)のか

 神仏に対して、どんなことをお願いするのかは、普段あまり話題にならないので、他の人がどうしているか、よく分からないところだと思う。しかし、人によって相当に差があるような気がする。考えられるパターンをまとめると次の通り。

(1) 「○○が手に入りますように。」
(2) 「平穏無事故でありますように。」
(3) 「(自分が)○○できますように。」
(4) 「(社会が)○○となりますように。」

 (1)と(3)は、似ているように思われるかもしれないが、(1)が受け身のままで、利益を期待するものであるのに対し、(3)は自らが○○となりたいという点で能動的であり、根本的な差がある。
 (2)は、(1)と同じように、完全に受け身のままで、安全を求める場合と、(3)と同じように、自分で○○を行うけれども、事故が起きないことを求める場合とでは差がある。
 (4)は、(3)と同じように、自分が何かを行うことで社会がこうなりますようにと願う場合と、(1)と同じように漠然と願う場合とでは差がある。

 分類の観点としては、受動か能動かの軸と、自分が自分以外かの軸とで分けられるだろう。
 何もしないで自分のご利益(ごりやく)のみを願っても、そう簡単にそれが実現するとは思われないが、こうした人が多いのだろうか。
 自分以外のことを願うにしても、自分ではどうすることもできないことを願うことは、受け身の考え方のように思われる。
 自分はどうあるのかが良いかを考え、自分でも行動するけれども、思わぬ災難に見舞われないように安全を願うというのが、聞いてもらえる願い(祈り)かと思う。

人の世の差は、着眼と実行の差である

 考えているだけで、実行しなければ、実現しないのだから、差となることはわかりやすい。
 しかし、着眼の差については、理解できない人にはわからないため、差となることがわかりづらい。
 着眼の差があることがわからない人は、しばしば無理解のまま、平気で人を悪く言うことがあるが、我が身としても、よくよく気をつけないといけないと思う。

人間の体

 中川恵一東京大学医学部附属病院准教授の「がんのひみつ」講演要旨を読んでいたら、「我々医者は、体を消耗品と位置付けているため、80年から90年もたせるためにどう使用していくかを考えます。」とあった。確かに「消耗品」なのだと思う。
 使い方次第で一気に壊れてしまうこともあるだろうし、不具合が蓄積し、それがある限度を超えると表に出てくることもあるだろう。
 寿命というものは、「消耗品」の使い方なのだと考えると、以前よりも具体的に、健康を考えることになると思う。

人生の根底にあるもの

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一著 (講談社)は、分子生物学の最前線での競争を、詩的に表現された自らの体験とからませて書かれたもので、興味深く読みました。

その中で気づかされたところは、次の記述でした。
「トリバネアゲハを追った博物学者が求めたのは、とりもなおさず世界の構造を明らかにすることに他ならなかった。一体なぜ自然はかくも精緻な造形をなしえるのだろうか。その何故を解くために彼らができることはただひとつ、妙技のいちいちを記載していくことだけであり、彼らは実際それをくまなく探し出そうとした。(中略)
大げさないい方を許していただくとすれば、そして私たちが採集しようとした小さな小さな、そして色のないジグソーパズルのピースを、極彩色のアゲハチョウと比べる不遜さを今だけ見過ごしていただくとすれば、新しい未知のタンパク質を捉えようとしていた当時の私たちの内部に沸き起こっていた感覚は、ボルネオやニューギニアの密林を踏破した採集者たちの興奮と同質のものだったのである。私たち分子生物学者もまた世界の構造を知りたかったのだ。」

「世界の構造を知りたい」というのは、科学者に限らず、全ての活動の源泉ではないだろうか。
お金、名誉、地位など、勝ち組、負け組といった評価を超えたところにある欲求という気がします。

もちろん「世界の構造を知りたい」という欲求は、毎日の生活が安心してできる立場を前提としていて、それさえできない人からは、贅沢な欲求なのかもしれません。
格差の問題があることは承知していますが、しかし「お金」を超えた世界をもっと実感することは必要だと考えています。

世の中の変化は、予測よりも早いと感ずる。

 世界各地の株式市場が大きく値を引下げているのを見ると、世界の多様性よりも一体性を感じてしまう。
 しかし、それ以上に、景気の悪化が早いことを感じる。
 予測よりも早いと感じるのは、マスコミを通じた錯覚なのかもしれないが、世の中の人々が一体となって考え、動くためだと思う。
 一体化した世界は、おもしろ味がないように感じるが、人々の欲求は、共通したものがあり、各地域の進展は、共通したパターンをとることはやむをえないのだろう。

静かに生きていこうと考えている

 少なくとも2回のバブル崩壊を経験し、知らぬ間に年齢を積み上げた今、どのように生活していこうかと考えるようになった。そして、自分の体力の低下、子供の巣立ち、先輩の姿などなどから、最近は静かに生きていこうと考えるようになった。
自分が維持しようとするものが、だんだん少なくなり(自らの意思で、だんだんに少なくして)、他人と比較することや見栄もなくなり、例えて言えば、一人荒野に分け入っていく気持ちになると、静かに生きていくことを考えるようになる。

静かに生きる道

 栃木県、福島県、宮城県、山形県、新潟県のポピュラーな観光地をめぐるグループ旅行に、何回かに分けて参加した。そして、行き先行き先で、松尾芭蕉の「奥の細道」がどれほど取り上げられているかを知った。

また、こうして関心をもった「奥の細道」が、どれくらいの分量の本かも初めて知った。大学の受験生時代から松尾芭蕉のことは当然に知っていたし、試験の問題文ともなっていた。
しかし、「奥の細道」の全体を見ることはなかった。意外に分量は少なかったのである。
 
こうしてみると、自分には知らないことが多い。先人の作品・業績もほとんど知らない。先人の築いた豊かな世界を死ぬまでにもう少し知りたいと考えている。

昔、気になった記事を読み返してみると

 2005年2月7日の日本経済新聞の経済教室で、伊藤元重東大教授が、連載を終わりにするのにあたり、「インフレ転換の予兆」を記している。
 今から約7年も前のことである。インフレがやってくる、バブルがやってくる、といった本は、今日まで多数あり、いつかはそうなるのだろうが、いつとは、なかなか予測できないのだろうか。
 常に先を読んで決断しなければならない経営者は、ともすると気が早く、何事も早すぎるということが起こる。
 伊藤元重教授は、若いころ先輩から聞いた話として、経済を見る上で3つの眼が必要だという話を紹介している。第1は経済をマクロでとらえることができる「鳥の眼」、第2はミクロで細かい所を見ることができる「虫の眼」、そして何よりも重要であるのは、潮の流れの変化を見極める「魚の眼」であると。

赤信号で渡るかどうか。

 歩行者には、2つのグループがある。赤信号だとどんな場合でも渡らない人と、赤信号でも危険がないと判断されれば渡る人の、2つである。
 赤信号以外にも、気象情報として大雨警報などが出ている場合や、経済取引の中で金融商品に含まれるリスクの開示がある場合など、いろいろな場面で同様のことが起こる。
 これは、その人それぞれの判断の問題であり、他人には強制できないだろう。強制して万一事故が起これば、一生言われかねない。
 しかし、自分なりの判断で行動する精神は大事にされるべきだと考えている。

節約の効用  たとえば、なぜ節電するのか。

 節約の効用は、昔から言われていることである。
 節電の場合、環境への負荷を下げるという意味もある。
 常識的には、誰しもわかっていることだろう。
 しかし、節電を徹底して実行するなど、本当にわかっているのかとなると疑問も出てくる。
 これは、節電(節約)の効用が、最初は、きわめて小さな金額であることから、それくらいの金額ならば、無理してがまんする必要もないかと考えてしまうことにあると思われる。
 しかし、複利の劇的な効果を考えるならば、話は別である。
 最初は小さな塵(たとえば月に1,000円)かもしれないが、年20%の利回わりで複利で運用できたならば、10年後には、1,000円×12か月×(1.2)で計算すると、61,910円となる。つまり、1年間の節約分だけでも5倍以上になる。
 複利の効用を実感として理解できる人ならば、節電(節約)の効用も実感できるだろう。

先祖の苦労を物語るものこそ家宝である。

徳川家康は、武田信玄との合戦の中で、命からがら逃げ帰った際の疲労困憊した姿を描いた絵を子孫代代見せたという。
本来ならば、あまり見せたくない姿のように思われるが、全く別の考え方をとっていて興味深い。

それぞれのファミリーには、何かかんか、そのようなものがあるのではないか。
言葉だけで伝えるのではなく、物語のある「もの」を見せて、伝えることは必要だと思う。

全肯定

 世の中には、ぴんからきりまであり、良いものも悪いものもあるから、全てを肯定するということは、ありえないと思うだろう。
 しかし、全てを肯定するところから出発するのが良いだろうと思う。もちろん悪いものは、どこかの時点で除外されなければならない。
 この考え方は、難しい言葉で言えば、基本的人権の尊重、民主主義の考え方の根本にもあると思う。
 人生は限りがあるから、世の中の全てを楽しむことはできない。また、世の中の一番良いものは、これだと決定することもできないだろう。たとえば、結婚相手を決める場合でも、世の中の全ての対象を知ることはできないし、この人がベストだと決定することもできない。
 人生の中では、おのずと限界があり、それは運命としか言いようがない。しかし、運命と言おうが、それはあくまで偶然なのであって、自然界のルールの上の出来事なのだと思う。こう考えると世の中を全肯定し、それをいったんにせよ受け入れて出発するしかないだろう。

素直さは、なぜ必要な資質か?

素直さは、報われることが多いと思う。
ボスと部下の関係では、素直な方が、ボスの受けが良いというような点だけでなく、本質的な点がある。

ボスが、新しい試みにチャレンジしようと考えたとき、そこには上席としての決断がある。新しい試みであるために、当然、予想外のことがあるし、すぐに改善しないといけないことも多い。

ところが部下は、普通、新しいことにチャレンジしようとしない。先ずは、今抱えている仕事をしないといけないと考える。新しいことは面倒だ。

このとき、素直さは、新しいことを先ず受け入れることに結びつく。ボスに言われたからやるのではなく、素直さは、自らやることにつながる。新しい試みゆえに、チャレンジなのだけれども、チャレンジという大げさな構えなしに、新しいことを始める。

新しいことを始めてみると、すぐに気がつくことが多い。すぐに改善できることも見つかるし、難しい点があるにしても問題点の理解ができる。新しいことを始めた人は、大きなアドバンテージをもつことになる。この差は大きい。

したがって、素直さは、報われることになる。「前向き」「楽観的」などの言葉も同じように考えていいと思うが、「素直さ」という言葉が、色がついていなくて、自然だと思う。

多神教の世界における倫理

 河合隼雄さんが文化庁長官のとき、次のような話を書かれていた。
 「一神教の世界では、神が○○すべし、○○すべからずというので倫理的な規範が確立しやすい。これに対して、多神教の世界である日本においては、多くの人が欧米の影響を受けて個人主義になりつつあるが、その倫理ということを不問にすると、容易に利己主義に陥りやすい。この点、ローマ人たちが多神教の世界の中で、実に厳しい倫理感をもっていることに注目せざるを得ない。そして、それを支えている極めて大切な柱が「法」である。」
 「法」が多神教の倫理を支えるという考え方だ。ローマ人が厳しい倫理感をもっていたのかどうかについては、私は不詳である。しかし、法律実務家としては、「法」は最小限守るべきものであり、倫理は、それを補うものであると考えていたので、この考え方には違和感があった。
 しかし、利己主義が進む中で考えるうちに、最小限守るべき「法」のもつ明確さは必要な事項だと考えるようになった。倫理を出発点として世の中を見るのではなく、「法」を出発点として世の中を見るのは、判断が明確となり、世の中の骨組みとしては重要であると思う。

体系、カテゴリによる分類

 「パソコンによる検索ができるから、文書管理の体系を作ったり、カテゴリにより分類をする必要がない。」と考える人がいる。検索によって文書を見つけられれば良く、体系、カテゴリによる分類から見つける必要はないという考え方である。
 このように考える人は、仕事の全体を統括したことがない人だろうと思う。
 文書は、見つけられれば良いというものではなく、仕事の全体がどのようになっているかを判断する資料である。
 体系づくりのための体系づくりであってはならない(目的の転倒)が、体系、カテゴリによる分類は、全体の組立を理解するためには必要である。

知の迷宮

 ヨーロッパには、古いコインを収集するという魅力ある世界があり、コレクターも多いと聞く。
 塩野七生さんのローマ人の物語でもコインは各所に登場するし、中世史家の樺山紘一さんの「西洋学事始」でも指摘されていると聞く。
 ヨーロッパには多くの古いコインが存在し、それにまつわる歴史と結びついたとき、「知の迷宮」が形成され、その収集は一層奥深いものとなるのだろう。
 コレクターの世界は、おそらく他の分野でも、同じようにその時代や地域と結びつくことで奥深いものとなる。現代美術も「知の迷宮」であると感じるし、全てのコレクターの世界は同様だと感じる。

 この「知の迷宮」とどのように接するかは、難しい問題だと感じる。
 この迷宮の世界を全く知らないまま人生を終えることは寂しいものがあるような気がするし、かといってそこから抜け出せなくなることも違和感を感じる。
 しかし、バランスをとって生きるのか、徹底して生きるのかは、その人自身の問題であり、ここでコメントする問題ではないだろう。

店舗の寡占化

 物品の販売店の場合、規模のメリットから寡占化するだろうと考えられるが、サービスの場合、必ずしもそうならないのではないかと考えていた。たとえば、飲食店であれば、味やサービスの点で、個人店であっても持続できるのではないかと考えていた。
 しかし、サービスの店でも寡占化が進んでいることは間違いないだろう。これは、サービスの店でも、物販の面もあって、規模のメリットが働くのかもしれない。
 このように物販店であれサービス店であれ、寡占化が進むということは、中小零細事業者にとっては重大な問題であり、地域(特に地方)の不動産利用の面で大きな影響があるだろう。
 不動産神話のあった頃は、地方であっても、不動産を多く所有していれば資産と思われた。
 しかし、不動産の利用について、中小零細事業者の創意工夫のみではカバーできないほど、困難があると、不動産の資産性について疑問とする人が多くなっていると思われる。地方の不動産利用者にとっては、つらい時代である。
 インターネット時代は、中小零細事業者でも、広く社会に認知されることが可能であるとされたが、現実には、ますます集中・寡占化が進行しているように思われる。
 近時、「生物多様性」が重要であることが、唱えられているが、店舗についても重要なのだと考えている。飲食店について言えば、味、安全性など、個人店であったとしても評価できるところを支持する気持ちは必要だと思う。

渡辺崋山

 JRさわやかウォーキングで、渡辺崋山が幽居した跡が残る池ノ原公園、田原市博物館などを歩き、渡辺崋山の国元が田原であり、蛮社の獄の後、幽居、自刃したのも田原であることを知った。気楽なウォーキングがきっかけとなり、多くのものを得ることができた。
 渡辺崋山というと、最近は、「佐藤一斎像稿」を日本美術史の本で見た程度であったが、画家であるだけでなく、「報民倉」を築き、大凶作を乗り切った政治家でもあり、さらに学者でもあり、外国事情の研究者でもあったことを知った。
 渡辺崋山のスケッチなどを見ると、よく観察のできる人であったことがわかるが、画家としてだけでなく、政治家、学者としても、この点がきわだった人なのだと思われる。蛮社の獄の後、恩師の献身的な請願書により蟄居の判決となったが、崋山の窮状を見かねた画弟子が書画会を開き、その生計を救おうとしたところ、蟄居の身には不謹慎であるという風聞が立ち、藩主にまで災の及ぶことを畏れ自刃したというのも、わかる気がする。
 遺書の内容も、他人に対するうらみつらみではなく、自らの見通しを述べ一貫したものである。

日本人の感覚(テイスト)1

 たとえばテストで、普通に勉強していれば60点とれるところ、30点しかとれなかった人は、反省したのではないだろうか。また、平均点が50点のとき、60点の人は、70点を目指したのではないだろうか。さらに、いつもは90点以上の人が、80点であったならば、大いに反省したのではないだろうか。
 テストに限らず、仕事や生活の中での感覚として、日本人はそうであったように思う。
 ところが、今日、こうした感覚が感じられなくて、自分は世間から離れてしまったのだろうかと思うことがよくある。「できません。」と簡単に言い、そういったことについて頑なである。社会の固定化なのか、そんな大げさな問題ではなくて各人の柔軟さが少し足りなくなっただけなのか、少し年をとった者として危惧している。

日本人の感覚(テイスト)2

 緻密な製品、少ない不良品は、徹底した整理整頓から実現すると思う。工業製品だけでなく、全ての分野で言えることだと思う。
 整理術についての本が多く出ているのも、日本人の感覚に合うのだろう。
 ところが、整理整頓を形式的なことだと考えるからなのか、成果品(結果)に問題がなければ良いと考えるからなのか、整理整頓ができていない所が多いように感ずる。整理整頓を言う人が少なくなったのかもしれない。
 どのような状態が整理整頓された状態なのか、明確にしなければいけないと思うが、物が調和をもって置かれた状態の気持ち良さが失われるのは悲しいことだ。

日本人の感覚(テイスト)3

 ある仕事をしているとき、どこまで目指すのかを考えるときがあるのではないだろうか。また、ある仕事を終えて成果(結果)が出たとき、何か考えることがあるのではないだろうか。
 仕事の途中であれば、もう一歩努力して完成度を高めたいと思い、また、仕事を終えて成果(結果)が出たときは、今度は、このような工夫をして、さらに良くしようと思うのが、その人の良いところだと思う。
 ところが、自分のレベルは、ここまでだから、成果(結果)もここまでと割り切っている人が多いように思う。
 また、自分のレベルは、自分が最大限の努力をしているのだから、高いものだと思い、もっと高いレベルがあることを想像できない人もいる。
 このような場面に出会うと、日本人の感覚(テイスト)が失われてきているように思え、悲しく感じる。

日本人の感覚(テイスト)4

 ある人が何らかの被害や不利益を受けたとき、誰しも気の毒だと思い、場合により憤りを感じることもある。したがって、被害や不利益を受けた人に対して、同情こそすれ、意見を言うことは差し控える。
 すると、被害や不利益を受けた人の中には、自分が満足できるまでどこまでも求める人が出てくる。モンスター化してしまう。
 加害者と被害者の関係は、どちらかが満足する一方的なものではなく、同情の声があがる中でもバランスのとれるポイントがあり、口に出さなくてもそのポイントについて共通の認識があったと思う。被害者であっても、バランスのとれるポイントを意識していたと思われる。私は、そこに日本を感じたものだ。大震災があっても無秩序にならない自制心につながるものだと思う。
 ところが、同情の声のみがあがる中で際限のない要求へと進んでしまう。すると、自分の気持ちをコントロールできなくなり、かえって悩みとして抱え込んだままとなっているようにも思える。

粘土細工の思い出

私が幼稚園児であった頃、粘土細工が好きであった。時間があれば、1日中、粘土で遊んでいた。粘土は、時間が経っても、それほど固くならないもので、何度でも作り直すことができた。ロケット、怪獣、ロボットなどを作ったものだ。

作ったもののうち、気に入ったものは、壊さずに、自分用に与えられていた物入れの引き出しに仕舞った。自分で最高に良くできたと思ったものは、一番奥に仕舞い、序列をつけて仕舞うようになった。引き出しの中は、自分のワンダーランドになっていった。

ただし、引き出しに入れるのは、それほど頻度があるのではなく、普段は、粘土遊び用の小さな机で作り、作ったものは、その上に置いていた。そうこうするうちに、引き出しの中は、天上界のような特別な場所になっていった。特別な場所なので、普段は開けなくなっていった。

あるとき、何か月か半年か時間が経ってから、引き出しを、今一度、箱ごと全部引き出して見てみたいと思い、出してみた。

驚いたことに、自分では最高傑作と思い、大事に一番奥に仕舞い込んでいた物(どんな作品だったかは、あまり覚えていない)が、あまりに稚拙だと感じた。子供ながらに、なぜこんなものを仕舞い込んでいたのだろうと考えたのである。

客観的に言えば、自分で言うのも変だが、粘土細工の技量は、格段に進歩していたのだろう。しかし、子供ながらに感じたことは、「こんなことが起こるんだ。」という感慨だった。分析して考えたものではない。

能力差

 能力差があることで、その結果は大きな差となる。結果の違いに着目するならば、人間の差は大きなものと言えるだろう。
 しかし、能力差に着目したとき、人間の差はどれくらいのものだろうか。学校のテストのような環境は、実社会ではあまりないだろうと思われるので、経験的に判断するしかないが、ある一定水準以上で比較したとき、それほどの差はないように思う。
 ある一定水準以上の人であれば、皆、課題について一応の対応はできる。問題は、それに何かプラスされているかどうかの違いではないかと思う。何がプラスされているかは様々であるが、新しい見方が加えられているかどうかという着眼、発想の点が大きいだろう。気付くかどうかの差が大きい。スピードや量という点は、期限が決められている場合は別として、それほど大きな差となるものではないと思う。
 これから社会で活躍する人は、能力差を決める差異について、もっと良く考えてみるべきだろう。

発見はいたるところにあるだろう。

 世の中には、ほとんど未開拓の場所はなく、もはや発見はほとんどないかのような錯覚をおぼえる。
 しかし、どのような分野でも奥はあり、そのまた奥はあるのであって、調べていけば、無限に続くだろう。
 したがって、発見は、いたるところにある。世の中を大きく変える大発見ではないとしても、十分に楽しめる発見は多いと思う。
 この考え方は、全てを肯定するところから出発する考え方(別所で記述した)と共通する。
 人生で、自分の仕事として何を選ぶかは大きな問題だと思うが、何を選んでも楽しんで生活できると思う。

悲しみの昇華

ベルリン国立歌劇場2007年日本公演で「トリスタンとイゾルデ」を観ました。

 
結構、体力・忍耐力が必要なオペラですが、イゾルデの最後の歌は、涙が止まりませんでした。周囲では、イゾルデ役のワルトラウト・マイヤーは、高音部が苦しそうだとか、話をしている人たちがいましたが、私は、そのようなことが気になるほど素養がありませんでした。
 
ところが、カタログを買って家に帰って読んでみると、演出のハリー・クプファーが、現代を代表するワーグナー作品の解釈者の一人として紹介され、次のように述べていました。

 「トリスタンに先立たれたイゾルデには、妄想の中へ逃避する道しか残されていません。そこでなら愛する人と共に死ぬことができると彼女は錯覚します。しかし、それが間違いであったことは言うまでもありません。したがって、イゾルデが最後に歌う「愛の死」は、愛するがゆえに死すという美しい愛の歌などではありえないのです。そもそも「愛の死」というタイトルはスコアには書かれていません。それは作品が成立した時代が付与した、美化されたレッテルにすぎないのです。イゾルデの「愛の死」は、むしろ深い悲しみの歌です。特定の社会的条件、たとえば慣習であったり、ドグマであったり、いつわりであったり、そういった条件に服する限り、道ならぬ愛は成就しないということ、そして、今となってはもはや何もかも手遅れだということ、その途方もなく深い悲しみを、イゾルデは最後の輝きの中で死へと導かれながら歌うのです。」
 
私は、この解釈には、驚きを禁じえませんし、誤まりだと思います。
 
ワーグナーの台本を、レヴァイン指揮のメトロポリタン歌劇場管弦楽団のDVDの字幕(岩下久美子)から引用すると、次のとおりです。

「穏やかにそっと彼は微笑み
 優しく目を開く
 それが見える 友たちよ?
 それが見えないなんて!
 この人は輝きを次第に増して
 星の光の中を昇って行く
 それが見えない?
 この人の心は勇気に満ちて
 豊かに気高く
 胸いっぱいに膨らんでいる
 唇から快くそっと
 甘い息がやさしくもれ出でる
 友たちよ!
 ご覧なさい
 それが見えない?感じない?
 この調べは私だけに聞こえるの?
 不思議に満ちた静かな調べ
 喜びに嘆きすべてを語り
 穏やかに怒りを鎮める調べ
 この人から響き出て私の中へ迫り来る調べ
 高く飛翔し 優しく響き
 私を包む調べ
 澄んだ響きが私を包む
 これは柔らかな風の波?
 快い香りの波?
 波は高まり私をさざめきで包む
 息をするべきなの?
 耳を傾けるべきなの?
 吸い込むべきなの?
 ひたるべきなの?
 香りに包まれ消え去るべきなの?
 うねる高波と轟く響きの中で
 世界の息吹に揺れる宇宙の中で
 溺れ
 沈み
 意識は消える―
 この上ない喜び!」
 
ハリー・クプファーは、イゾルデから「それが見えない?感じない?」ときかれ、見えておらず、感じていないと言わざるをえないと思います。
 
京都の西本願寺、大谷本廟へ行ったとき、「千の風 大切な人を失ったあなたへ」(西脇顕真著)という小冊子をいただきました。(なお、この小冊子には、野口雨情の「しゃぼん玉」の歌も紹介されています。)
 
「千の風」は、いろいろな版がありますが、基本的には、作者不詳の英詩から展開されているようです。
日本では、「千の風」が広く受け入れられましたが、それは、日本人の自然観、宗教観などの素地があるからかもしれません。
「トリスタンとイゾルデ」を観たとき、「千の風」は全く意識しませんでしたが、後になって歌詞を比べてみると「柔らかな風の波」とあるように、かなり近い表現もあります。
 
ワーグナーは、大切な人を失った人が、その深い悲しみを昇華する歌を最後に置いたのであって、「妄想の中へ逃避する道」を選んだのでもなんでもないでしょう。
 
私は、「トリスタンとイゾルデ」に関する研究を調べたものでもないので、素人考えですが、最後にイゾルデが死んだと考える必要はなく、むしろ、死んだと考えてはいけないように思います。
 

貧しい人の保守性

 貧しいというのは、経済的にだけでなく、精神的にも含めてですが、社会の全体を観察していると、貧しい人の保守性が気になることがあります。
 豊かな人が、現状を肯定し、保守的になるということは普通に考えられることですが、豊かな人の方が物事に対しては、革新的であるようにも感じます。
 貧しいのに保守的というのは、現状に満足しているということかもしれません。しかし、おせっかいになるかもしれませんが、「それでいいのかな。」と、私は思います。したがって、あまりに不利な状況を見ると、改善策を伝えることもありますが、反発めいたものを感ずることがよくあります。こうした場合、無理に変えさせることが適当ではなく、そのままになってしまうことがあります。
 教訓めいたものは、書きませんが、年齢を重ねるにつれ、感ずるところです。

不動産価格についての雑感

 自分はどんな仕事をしてきたのかと問うならば、不動産の動きと共に仕事をしてきたと言うしかない。
 昭和58年(1983年)に弁護士になった頃、不動産価格は、まだ落ち着いていた。と言うよりも、当時、3年位前から新聞の切りぬきをしていて(現在は、していません)、その中には、「もはや不動産価格は上昇しない」という記事もあったので、そのように思っていたものであった。
 ところが、弁護士になって1年位の内に、依頼者との打合わせの中で、東京の不動産価格の動きは、おかしいという話が出てきた。名古屋駅前のビルの賃料値上げをめぐり、不動産鑑定士の評価がおかしいという打合わせのときである。
 そうこうするうちに、名古屋でも不動産価格の上昇が顕著となり、地上げ等の話が出てきた。マスコミで不動産価格が話題になってきたのは、それから2年ほど後である。
 1990年1月、株式相場が崩壊し、少し遅れて不動産価格も崩壊した。
 1990年代を通じて、不動産価格の下落が続き、誰も、不動産を購入することが有利と思わなくなった。途中、これが底であろうとの思いから何度か不動産が買われたこともあったが、下げ止まらなかったといえる。しかし、収益性から見れば、10%以上の利回り物件が多かったといえる。
 新聞記事は、不動産神話の崩壊と表現した。1990年代に、調べものをしていて、1980年頃の新聞記事の切りぬきで、「もはや不動産価格は上昇しない」という記事を見たことがあったが、1990年代の記事かと見間違えるほど似ていたものである。
 1990年の中頃からは、不動産の処理をめぐり、倒産処理の仕事が続いた。
 2001年になっても、日本の金融機関の不動産に対する評価は消極的であった。
 ところが、2005年になると、名古屋は局地的に不動産価格の上昇が見てとれるようになった。数年で2倍か3倍になったという感覚である。
 将来的に人口が減少する国家である日本において、不動産投資は報われないという考えをお持ちの方も多いと思われる。しかし、大きな方向性は、そうなのかもしれないが、現実問題として不動産をぬきに経済活動は考えにくく、不動産投資は常に考えなければいけないテーマであると思う。
 それにしても不動産価格の動きは、歴史を繰り返している。マスコミの報道は、一面的、一方向的であり、実態よりも相当に遅れていると感じる。

不動産投資とデフレ

 1990年1月の株式相場の崩壊以来、不動産の価格は、概要、下げてきたといえるだろう。
 もちろん、その過程の中で、局地的に上昇したところもあり、一律には論じられないのだろうが、基本的には、この20年間はデフレの時代だと思う。
 1990年より前の不動産バブルは、振り返ってみれば異常な時代であったと誰にも思われ、その後、不動産に関する書籍は、収益性に着目するものとなった。不動産の価格は、収益還元により査定されるべきという考え方が強くなったといえるだろう。不動産の価格の下落により、地代家賃収入の利回りは向上し、他の投資案件との比較の中で、不動産投資の有利性を主張するものもある。

 しかし、1990年以降、不動産を購入してきた人にとって、この20年間は、針のむしろかもしれない。会社であれ個人であれ、資金繰り(借入金返済)ができなくなれば、不動産を売却しても借入金は残り、破綻することになるし、そうでなくても、バランスシート上の不動産価格は、現実のものではない。

 人生の中で、未来に向けて基盤を固める時期が、この20年間に当たってしまった人にとっては、つらい時代だろう。これをどのように乗り切っていったら良いのだろうか。
 デフレの反転を期待して、今は、じっと我慢と考える人もいるだろう。
 しかし、デフレの時代に生き残る中で、自分自身の成長をどこかに感ずるのではないかと思う。その成長こそが、いつ来るのかはっきりしないが、次の時代での起爆剤となるのではないかと考えている。

紛争を解決すること自体に意味があると考えます。

個人にとって法的な問題が発生したことは、出血が生じたことと同じ。
自然に出血が止まることもあるが、ひどいときには、縫合などをして、まず止血が必要である。
法的な問題が発生したときも、まずは決着をつけることが必要である。

この場合、体外に出てしまった血液も全て体内に戻り、傷口も痕が全く残らない完全な元通りの状態に戻せるならば、それに越したことはないだろうが、そのことを実現するためには、多額のコスト(お金、時間)がかかるならば、どこかで均衡をとる必要がある。

法的な問題の解決も、これと同じ発想をする必要があると考えるが、このことに納得できない人も多い。

この理由は、
(1)権利はどんな場合でも実現できるという観念があること。
(2)時間をコストと考えることができないこと。
にある。

文章作法

 仕事をする上で、文章としてまとめることが必要となることは多い。そのとき、文章を書くことをまかせて安心できる人とそうでない人とがある。
 文章の「てにをは」からチェックしないといけない場合、その文章を書いた人の上司は大変だろう。
 技術系の人にときどき見られるが、専門家として良い着想・内容をもっているのに、文章としては分かりにくく、書き直しが必要なこともある。
 したがって、文章作法にかなった文章の書けない人は、仕事をする中で大きな不利益を受ける。
 何も大作家のような「美文」を書くことが求められるのではなく、構造がシンプルで、論理展開がわかりやすいものを書けば良い。それが美文だと思う。文章作法が覚えられないほど多くあるものではないが、日本の国語教育は、意識的にそれを取り上げていないため、人によってばらつきが大きいと感じる。
 
 作法の主要なものは次のとおりくらい。

1 主語は、できる限り早目に記入し、句点で区切って明確にする。主語は、原則的に
省略しない。

2 述語は、主語を受けて明確にする。

3 主語(多くは人の場合)は、誰に対する関係で、・・・をするのか(述語)を、「○○に対して、」で明確にする。

4 1?3で文章の基本構造は明確になり、日時、場所などを付加する。

5 文中に主語、述語関係のある部分を入れる場合、「○○(主語)において・・・する(述語)ときは」という形で入れる。

6 文章の連続は、順接(したがって、よって、ゆえに)なのか、逆接(しかし、しかしながら)なのか、明確にする。
 「そして」で付加することは、原則、避ける。

7 論理展開上、逆説は、原則1回にとどめる。逆接が何回も出てこないように内容を並べる。

平成19年も終わりを迎えるにあたり感じること

 倒産事件が、ここへきて、増えているのではないかという話をきく。
 不良債権の処理が終わったといえるほど、最終局面を迎えているとは、仕事柄感じられない。
 不良債権を買って回収を図るサービサーの動きも、大手金融機関に相当な混乱があった時期ほど、破格に安く不良債権を購入しているとは聞いていない。
 ゴルフ場の売買価格も、ここ数年一貫して上昇している。
 金融が落ち着けば、落ち着くほど、これまで先送りされてきた不良債権処理は、改めて進められるのであろう。同時に債権の回収も一段と厳しくなるのであろう。

壁のように見える文章

 メールやブログの中で、文が連続して並び、四角い形に文字がびっしり埋め込められた文章に出くわすことがある。
 昔は紙が貴重品であり、文字を並べて書き、枚数を減らすことが必要であったのだろう。
 しかし、今や紙は安価で入手できるし、まして電子空間はどこまでも広がっているのだから、昔の名残に縛られる必要はないと思う。
 文章は、何と何とが同列(同位)なのかわかるように、番号をつけて箇条書きにした方がわかりやすいだろう。
 紙でも読み取るのが大変なのに、まして、パソコンの画面で、壁のように文字が連続する文章はすぐには理解しにくい。
 文章作法が現代に適合したものであってほしいと思う。

萌芽を見つける力

世の中を生きる力のうち、大事なものだと思う。
この力は、日常業務に忙殺されていると、なかなか身につけることができない。また、日常の観望にとらわれていても育たない。
「現在の姿×時間」という形で、イマジネーションを働かせて見る必要がある。

本というもの

 最近行きたい所は、本屋さんくらいになってしまった。慣れ親しんだものにしか関わりたくないという心情であり、それは精神の老いかもしれない。
 実際のところ、お酒、時計、衣服、宝飾品などなど、物に対する欲求・関心がうすれている。それぞれに深い世界があると考えているので、それを理解しないままなのは、もったいないことだと思う。
 しかし、全ての世界を知ることは、不可能(この言葉は本来使わない気持ちで生きているけれども)であり、慣れ親しんだものに寄りかかるようにして、どこかで選択している。
 このように本が好きになると、その習性がいろいろな所に出てきているのだろう。何でも文字で理解しようとする。写真集の本もあるのだから、正確に言えば、自分は文字を好むということであって、本来、写真だけでも理解が得られるのだろうが、文字にして理解しようとするところがある。
 この習性は、仕事柄、役に立っているのかもしれないが、別の世界を狭くしていると感じている。

本の世界と現実

 本を読んでいると、その本がフィクション(小説)であろうが、ノンフィクションであろうが、自分の経験・考察する世界と似ていたり、反対であったりすることに気がつく。著者の経験と自分の経験とを比べることも、自分が年齢を重ねるにしたがって、できるようになる。これができるようになると、現在、自分がとらえている世界について、これまで気がつかなかったことに気づいたり、自分が気づいていると考えていることが、どの程度受け入れられるかについて、自分の感覚を調整することができることになる。
 本を読むということは、若いときは、その世界を理解することが中心であると思うが、次第に、自分の世界との比較に重点が移ってくると思う。

約束の意味がわからない人

 毎月の分割払の約束をしたものの、「余裕がなくて払えない月は払わなくても良い分割払だ。そのように言った。」と強弁する人がいる。
 普通、そのような分割払の約束はないと思うが、堂々と主張されると、時間に制限のある立場である当方としては、付き合い切れない。
 それほど多額とは思えない金額の分割金ですら、余裕がなくて払えないと言うのは、本当に余裕がない場合もあるとは思うが、見通しの立て方に誤まりがあるか、債務支払の優先順位が低いからであることが多いと思う。
 約束を守るという「信用」について、親、上司、年輩者は、それをどのように教えるか考えなければならないだろう。

舅・姑と婿・嫁の問題

 これまでは、自分を起点としてこの問題を見てきたため、知らず知らずのうちに若輩者(婿・嫁)の側から考えることが多かった。 
 しかし、自分も年をとり、自分の子供(と言っても成人)が結婚する時期が近づくと、逆に年輩者(舅・姑)の側から考えるようになった。 同時に、自分の子供と年齢が近い人を見る眼も変わってくる。このようなことは当然のことだと思うが、これまで実感としてわかっていなかったので、恥かしい限りである。  
 自分の部下を見るとき、従業員として見るのと、婿・嫁になるとしたらどうだろうかと見るのと、その他にも、実は、いろいろな見方がある。逆に自分の上司を見るときも、仕事上のつき合いとして見るのと、義父母(舅・姑)になるとしたらどうだろうかと見るのと、その他いろいろな見方がある。 
 いろいろな見方をすることにより、幅が広がるのは確かであり、また、実際の親族関係になったときの心の準備にもなる。振りかえると、あの時、あの人の心理は、ああだったのだねと感じることがあるのではないかと思う。